名を呼べば、標的の男はゆるりと振り返った。
 年齢は四十半ば頃。口元に髭を蓄えた武士だった。
「おや、驚いた。童(わらし)ではないか」
 からから、軽快に男は笑う。
 腰に差した刀に、手を伸ばす気配はない。
 まるで旧知相手のように、屈託なく笑う。
「拙者を殺めに来たのだろう?」
 答える義務は無かった。
 だが、男の問いにはなるべく答えるようにと命令されていたので、一つ頷く。
 男は目を細め、何か眩しい物を見るかのように俺を見た。
「そうか……。ついに拙者もお払い箱か……そうか、そうか……」
 寂しげに、男が呟いた。
 恐らく、この男は己を暗殺するように依頼した人物に気付いているのだろう。
 それでも怒りを抱かず、ただ寂しげに言葉を紡ぐだけ。
 胸中が読めず、男の前に立っている事が妙に居心地悪い。
「あの方は、なんと仰っていたかな?」
 立派な眉尻を下げて、男が俺に問う。
 まるで、棄てられた犬のようだ。
「……もう、月は泣いていない、と」
 命令された通りに伝えれば、男の目から涙が溢れた。
 ゆっくりと俯き、右手で目元を押さえる。
「そうか……。そう、仰られたか……」
「……」
「そうか……」
 指の隙間から涙が伝っている。
 月の光に反射して、それはきらきらと光っていた。
「……切腹させてくれぬのは、最後の嫌がらせか」
「……」
「昔からそう云う方だった。拙者らはいつもいつも振り回されてなぁ……」
 この男は、主君に切り捨てられた男だった。
 ありがちな家督争い。
 乱暴者の兄と、心優しい弟。
 兄にも弟にも、それぞれを支持する家臣らが付いた。
 ある者は、「この戦乱の世、兄君の如き強さが無ければ生き残れぬ」と云った。
 ある者は、「下々を想う心が無ければ民は付いて来ぬ。弟君こそ主の器だ」と云った。
 これが物語であれば、悪い兄が倒され優しき弟が家督を継いだだろう。
 だが現実は、武芸だけは達者な兄が弟を殺し、家督を継いだ。
 この男は兄側についていた家臣だった。
 ただひたすらに、主君を敬愛し、守り、導かんとしていた男だった。
 だがそれも、善意の押しつけにしかならず。
 いつしか男は、目の上のたんこぶと化した。
 男は男なりに主君を愛していたし、主君もまた彼なりに男を信じていた。
 けれど、それだけでは上手く行かぬのが、現実と云うもの。
 ただ、それだけの話。
「……一思いに、出来るか」
「得意だな」
「そうか……」
 ははと小さく笑い、男は「頼む」と呟いた。
「黄泉路の果てにて、お待ち申し上げるとお伝えしてくれ」
「……承知」
 最後に優しげな笑みを浮かべ、男は目を閉じ。
 俺は手にしていた短刀を振るった。
 飛び散る血を避けるために、後方へ飛びのく。
 ぱっくりと喉が裂けた男は、悲鳴も上げない。
 どしゃりと倒れる音は、障子越しに聞いた。
 障子が真っ赤に染まっている。
 血が滴る障子を開けば、男は己の血溜まりに倒れ込み絶命していた。
 歩み寄り、血で濡れた髷を掴みあげ、切り落とす。
 滴る血は男の衣服で拭い、紙に包んで懐へ入れた。
「……」
 最後に男の顔を見れば、穏やかな死に顔をさらしている。
 主君に裏切られ、切り捨てられたと云うのに。
 こうなる事は分かっていたとでも、云いたいような顔。
 ふと、気付く。
 嗚呼、人を信じると云う事は、こう云う事か。
 喩え裏切られても、切り捨てられても、殺されても、後悔しない事か。
 嘆いた時点で、悲しんだ時点で、それはもう、信じてはいなかった事になるのだ。
 相手が行った事全てを受け入れなければ、信じていたとは云えないのだ。
 そう気付いて、目を閉じる。
 瞼の裏に浮かぶのは、当然、師と慕うあの人の姿だった。



 − 闇を映す鏡



 自分もこの男のように死ねるのならば、
(気づいてはいけない事に、気付いたあの日)



 下関大治郎(十三歳)



 嗚呼、終わった。
 これでテストは合格だ。
 今度から、晴れて忍たま五年生。
 嬉しい。
 進級祝いは何を貰おう。
 少し奮発して貰おうか。
 嗚呼なんて良い気分!
「で、何か用かえ、潮江君」
「……気付いてたか」
「当たり前じゃ。どうした、お主のテスト先もここだったかの?」
 扇子で口元を隠しながら問えば、曖昧な返事。
 えぇい、男(おのこ)ならばはっきりとせんか。まったく。
「これ」
「ん?」
「お前がやったのか、全部」
 何を云うか。
「当然じゃろ」
 ぴちゃり、足元で水音がする。
「これが私のテストじゃ」
「人浚いの一団皆殺しにする事がか」
 おや、怖い顔。
 何を怒っておるのやら。
「明確に云えば、「人浚いの一団を潰せ」じゃが」
「……お前なら、情報操作するなり自警団煽るなりして潰せただろ」
「あれあれ、こんな大事な事、他人任せに出来ると思うておるのか?」
「お前の得意技は情報操作と幻術だろうが! これがてめぇの目指す忍びか?!」
 そう云って潮江君が示すのは、私が殺したごろつき共。
 ある者は頭が潰れ、ある者は首が折れ、ある者は胸を破られて。
 血と肉塊の海に、私達は立っている。
「……のぅ、潮江君。一つ、昔話をしてあげようか」
「……何?」
「私な、七つの頃、勾引(かどわ)かされた事があるんじゃ」
 さっと、潮江君の顔色が変わる。
 それを楽しげに眺めながら、私は話を続けた。
「当然、金目当てじゃった。私は備前の子だからのぉ。身代金でも貰おうと思っておったのじゃろう
なぁ。……でもな、それは最初だけでの。まぁ、私がそこらの女子(おなご)より愛らしかったのが不
味かったのかのぉ」
 扇子をぱさりと広げ、くすくす笑う。
「男共によってたかって姦(おか)されたわ」
 ぎょくんと、潮江君の喉が妙な音を立てた。
 あれあれ、そんなに驚かなくとも。
 昨今、珍しい話ではないのだろう?
 幾度も似たような目に遭ったからのぉ。
「昼は箱の中に押し込められて、夜になれば引っ張り出されて散々姦された。賊の頭がいたく私の
顔にご執心でのぉ。食事は与えられたし風呂にも入れて貰えた。時には綺麗なべべを着せられて、
酌をさせられた事もあったの。殺される心配は、さほどしておらんかった」
「……」
「今じゃ覚えておらんがな、よほど上手い場所に隠れ家を構えておったんじゃな。誰も助けに来ては
くれなかったよ」
 ぱくぱくと、潮江君の口が開いたり閉じたりする。
 何か云いたい事があるのかと思うが、声は出ていない。
 ならば続きを話しても良いか。
「そんな生活が二月以上は続いたかのぉ。私はな、気付いたんじゃ。待っていても誰も助けてくれな
いなら、自分でなんとかせねばと。飼い殺しにされるのは御免じゃった。だからな、一芝居打つ事に
したんじゃ」
 そう、あの時は必死だった。
 あの生活を、どうにかして終わらせたかった。
 でも、死ぬのも怖かった。
「従順な売女の演技をな、してみた」
 怖かったのだ。
「無理矢理咥え込まされていたモノを自分からしゃぶって、悲鳴は甘ったるい喘ぎ声に変え、自ら腰
を振り、愛を乞うた」
 死にたくは、なかった。
 殺されるのは、厭だった。
「そうしたらのぉ、面白いように男共は優しく甘くなったんじゃ。私をお嬢ちゃんお嬢ちゃんと呼び、優
しく愛撫して、私の体を労わるようになった。狭い箱から出され部屋を与えられた時は、本当に嬉し
かったのぉ」
 逃げ出せる機会が増えたと、無邪気に喜ぶふりをして、心の中で嘲笑った。
「昼間連中が仕事に出てる時、私の見張りは一人だけになった。だからな、その男をちょいと誘って
な、散々腰を振らせて疲れさせて。そいつがよい気分で眠った所を狙って、逃げた」
 与えられた女物のべべを着て、ひたすら山の中を走った。
 両の親が、必死に私を探していてくれたからだろう。
 ある街に入った途端、すぐに私は保護された。
 すっ飛んで来たらしい両の親の泣き顔を、今も鮮明に覚えている。
「助かったすぐ後はな、両の親を憎んだよ。何で助けてくれなかった、私はあんな目にあっていたの
に、どうせ兄さんの事ばかり構っていたんだと、憎んだ。けどな、それは間違いじゃった」
 いつも綺麗に纏められていた髪はぼさぼさ、服もくたびれて、頬が痩(こ)けていた。
 店は番頭が回していたらしく無事だったが、両の親は酷い有様。
 大の大人が二人そろってわんわん泣いて、私を抱きしめて、何度も私の名を呼んだ。
 憎しみなど、あっと云う間に消え失せて。
 初めて、両の親に甘えて泣いた。
「あの後、私を浚った連中は全員捕まって、縛り首になったそうじゃ」
 あの時の私はちゃんと隠れ家の場所を覚えていた。
 それを大人に伝えれば、全てが綺麗さっぱり終わった。
「だからな、私は暗い場所が怖い。狭い場所が怖い。男の手が怖い。一人が怖い」
 そして何より。
「勾引かしをする連中が、憎い」
 私を弄んだ者達が憎い。
 両の親を苦しめた連中が憎い。
 それと同時に想像した。
 もし兄が、大事な兄が、私と同じ目に遭ったら?
 あの人は弱いから、すぐに死んでしまう。
 勾引かされたら、死んでしまう。
 だから、勾引かす者達が、とても憎い。
「だから殺した。全員殺した。私の手で殺した。何が悪い? 何がいけない?」
「あ……」
「こいつらを放っておけば、私の兄が浚われてしまうかも知れぬのに」
 一歩進めば、潮江君は一歩下がった。
 あれあれ、私はお主には何もしないよ。
 だってお主は、人浚いではないもの。
「のぉ、教えてくれぬか潮江君。私は何か、悪い事をしたのか?」
「その、おれ、は……」
「教えておくれな。ねぇ、教えておくれ。悪い事をしたなら謝るから、もうしないから」
 ねぇ、だから。
「教えておくれな、潮江君。私は、何か間違った事をしたのかのぉ?」



 − 悠久の調べ



 俯いた潮江君が、小さく「ごめん……」と呟いた。
 私は、君に謝ってなどと、云っていないのに。
(この憎悪は、永遠に続く音楽のよう)



 備前鶴ノ丞(十三歳)



「ちーちゃんちーちゃんちーちゃああああああん!」
「うるっせ、聞こえてるよ」
「あいかわらずうるさいな、お前」
 俺の名前を連呼しながら走って来る小平太に、悪態を付く。
 相変わらず背中に陣取っている孫兵も、不機嫌そうに呟いた。
「うるっさいぞまごへー! ちーちゃん聞いて聞いて!」
「はいはい、聞いてる」
「私、進級試験受かったんだ! 実技も筆記も、問題ないって!」
「! 本当か?!」
「うん! ほら、ちゃんと合格通知、貰ったんだ!」
 そう云って小平太が広げた紙には、赤い墨で「合格」の二文字がデカデカと書かれていた。
 そして下の方に小さく、「進級許可」と黒い墨の文字。
 ぶるぶると、感動で体が震えた。
 合格。
 小平太が、合格。
「……よくやった小平太あああああああああああッッ!」
「うわあああああああんちーちゃあああああああああんッッ!」
「わぷ……」
 ひし、と畑の真ん中で抱き合う。
 俺の背中に居たままだったため巻き込まれた孫兵が、迷惑そうな声を上げた。
 小平太の奴、孫兵ごと俺を抱きしめてんな。
「にーに、苦しい」
「あ、悪い」
「ちょ、なんでそこで離れるのちーちゃん! やだやだ、もっと抱いてよぉ!」
「多大が誤解が周囲にまき散らされる単語を吐くな! ……仕方ねぇな」
 孫兵が苦しがるから俺だけ手を回してやる。
 俺の方が上背があるせいで、小平太の体はすっぽり腕の中に入った。
「よくやった小平太!」
「やったよちーちゃん! 私って昔からやれば出来る子って云われててな!」
「長次と一緒に文次の野郎と同じ隈をこさえた甲斐があった!」
「本当にありがとうちーちゃん! 愛してる!」
 あぁ本当に大変だったとも。
 小平太のおつむは俺以上にお粗末な出来だからな。
 一つの事を教えたら他の一つを忘れるような脳みそに、忍術の基礎から叩きこむのはどれだけ大変
だったか!
 まぁ、ぶっちゃければ俺より長次が大変だったろうけどな。同室だし。
「……いつまでにーにの腕の中にいるつもり?!」
「へぶ!」
 孫兵の小さな手の平が、小平太の頬を思い切り突き飛ばした。
 相手が非力な一年生とは云え、顔面への攻撃は効いたようだ。
 小平太は頬を押さえてしゃがみ込み、ぷるぷるしている。
「こら、孫! 小平太いじめんなっつってんだろ!」
「や。だってにーには僕のだもん!」
「ちがうぞ! ちーちゃんは私とちょーじのだもんね!」
「だまれこのどろぼう猫!」
 ……孫、お前はどこでそんな言葉を覚えて来る?
「ど、どろぼう猫だとぉ?!」
「さかりのついためす猫め! にーにからはなれろしっし!」
「うわーんちーちゃん! まごへーがいじめる!」
「おめーも何で一年生に虐められるんだ……」
 よしよしと頭を撫でてやりつつ、呆れかえった声を出す。
 しかしまぁ、日常になってきたが、前と後ろで喧嘩されるのは正直うざい。
 げんなりした所で、長次がこちらへ向かって歩いて来ているのが見えた。
 よし、丁度いい時に来た。小平太引き取れ長次!
「……小平太……」
「あ、長次! 私が合格した事、ちーちゃんも喜んでくれたぞ!」
「……そうか。……千草……すまん、騒がせた……」
「気にすんな。まぁ、いつもの事だしな」
「……孫兵も……」
「そう思うならそいつ引き取ってよ。僕とにーにのミツ月のじゃましないで」
 だからお前はどこでそう云う言葉を!
 始終俺にくっ付いてるくせに、そんな妙な知識をどこで……
 俺か? 俺からなのか? 俺から吸収してるのかいやそんな馬鹿な。
「さっきからひどいぞまごへー! 私の合格祝いをしてやろうとは思わないのか!」
「べんじょこおろぎあげるからあっち行け」
「要らないよ! 虫獣遁ですら使えない虫とか要らないよ!」
「お前……孫が虫やるなんて結構な事だぞ? まぁ毒無い虫には興味薄いけどなこいつ」
「ちーちゃんも一言多いよ! うわーんちょーじ! 生物委員コンビがいじめる!」
「……いじめ……よくない……」
 そんな凄まなくても。
 俺も孫兵も冗談だってのに。
「……まぁ、とにかく来年も同じ面子でやれるんだな」
「……そうだな……」
「うん、来年から私達、五年ろ組だよ!」
 そう思うと、まぁ、素直に嬉しい。
 特にこいつらとは一年の頃からいっとう仲が良かったからな。
 そう云えば、他の連中はどうしただろう。
 やはり例年通り、何人か欠けてしまったのだろうか。
「ちーちゃん! ちょーじ!」
 小平太の呼ぶ声に顔を上げれば、満開の笑顔がある。
「来年もよろしくな! 卒業しても、ずーっとよろしくな!」
 その言葉に目を瞬いてから長次の方を見れば、長次も俺を見ていた。
 しばし見つめあい、どちらからともなく小さく噴き出した。
「そうだな、宜しくな、小平太、長次」
「……宜しく頼む、小平太、千草……」
 そう云って三人で、ごつりと拳をぶつけ合った。



 − 呼び合う心、繋いで



 まぁ、四年の長い付き合いがあるんだ。
 だからそんな、拗ねるな孫兵。
(自分は幸せなのだと、思い知った日)



 加藤千草(十三歳)