かぽかぽ、愛馬が足音を立てる。
 俺の愛馬、超燃点(ちょうねんてん)号。
 親方が付けて下さった名前を持った俺の愛馬は、漆黒の体毛と瞳を持つ素晴らしい青馬だ。今年
二歳になるこいつは、俺が取り上げたのだ。
 丁度大人たちのほとんどが出払っている時に産気づいた母馬から、中々出て来れなかったこいつ
の足に縄を巻き、引きずり出した。あの時の感動と云ったらない。
 優しい親方は「此れも縁だろう」と云って、生まれたての仔馬を俺に下さった。まだ一人前どころか
半人前にも満たない俺に馬を与えて下さるなんて、親方は器がでかい。
 本来、学園に行くのは徒歩だと決められているが俺は特別だった。
 何せ”馬術”の特待生なのだから、愛馬も連れてきて良いと云われていたのだ。有難い。こればか
りは学園長とやらに感謝だ。
 村から出る事に不安がない訳ではない。俺は助かってからずっと加藤村で生きてきた。外の世界
はたまに仕事の手伝いで行く所だけで、自分の意思でどこぞへと行った事はない。思えば、初めて
の我が侭であり、初めての外出と云える。
 自分のような拾われッ子が学校に通うなど贅沢の極みだが、特待生と云う事で入学金は免除、授
業料も半額で済むのだから有難い。安くなった授業料と生活費くらいなら、自力で稼げる。なるべく、
親方達に負担はかけたくない。
 親方も女将さんも村の皆も、もっと頼れ、甘えて良いと云ってくれる。それはとても有難いが、俺は
やはり拾われた子供。厚顔無恥に甘えられない。俺に使うと云う金を、是非若旦那に使っていただ
きたい。その方がずっと俺は嬉しいのだから。
 無意識に、首から下げ着物の下に入れたお守り袋に触れた。
 女将さんが作ったお守り袋の中に、若旦那が書いて下さった俺の名前が入っている。此れがある
だけで何でも出来ると思った。いや、実際出来るに違いない。俺には若旦那の加護が付いているの
だから。
 超燃点号を歩かせたまま、振り返る。今まで歩かせて来た道。この先は、加藤村へ続いている。
 出立の際、村の皆総出で見送られ、酷く恐縮してしまった。
 親方は誇らしげな顔をして、俺の肩を叩き「頑張って来い」と仰った。女将さんは具合が悪いのに
わざわざ出て来て下さって、「何かあれば頼んなさい」と仰った。清八兄さんら若い衆の皆さんは、他
の奴らに舐められるな、気張って来いと渇を入れてくれた。女衆の中には泣いている人もいて、今生
の別れじゃないんだからと他の人に笑われていた。
 そして若旦那は、泣きたいのを必死にこらえる顔をしながら、「ぜったいかえってきてね」と仰った。
 その言葉に、「はい、必ず千草は、貴方の元へ帰ります」と答え、村を後にしたのだ。



 − 帰る場所



 ご安心を、若旦那。俺はもう、貴方の元以外に居場所など無いのですから。
(全てを失って、貴方の元へ来たのです)



 加藤千草(十歳)



 きしきしと小さく駕籠(かご)が軋む。歩かず楽ではあるが、外の景色がよく見えないのを少し残
念に思う。
 ふぅと、軽く溜め息。
「坊ちゃん、お疲れですかぃ?」
「そろそろ休みましょうか」
 私のため息を聞き止めたらしい。護衛にと付いて来ていた手代らが口々に云う。
 兄に甘いのは分かるが、私まで甘やかしてどうするのか。そもそも、駕籠に乗っているだけで疲
れるものか。そのような軟弱者に見えるのか。
 また溜め息が出る。
「よい。そのように頻繁に休んでいては、日が暮れてしまうじゃろ」
 不機嫌に云い放った言葉に、手代らが息を飲む。
 嗚呼しまった。家を離れて気が緩んだ。思い通りの言葉づかいをしてしまうとは。
「……あたしは大丈夫だよ。それより、学園はまだ見えないのかい?」
 云い直せば、明らかに安堵したような空気が流れる。それを不愉快に思い、顔を顰めた。
 どうせ、外から駕籠の中は見えまい。どんな顔をしようが、私の自由だ。
 全く、やりづらいったらありゃしない。
「えぇ、地図によれば後一刻くらいでしょうか」
「随分とかかるねぇ。……いっそあたしが走った方が早」
「いけません!」
「転んで怪我でもされたらどうするので?!」
「お外には危険がいっぱいなんですからね?!」
「……」
 だから。
 私にまで過保護にしてどうすると云うのか。
 手代らまでこの調子で、よく忍術学園に入学希望など出来たものだと自分でも感心する。
 思えば、両の親を説得するより番頭や手代、女中らを説得する方が大変だった気がするが。まぁ、
忠義に厚い使用人を持てたと感激しておくべきか。
 溜め息を着きそうになって、慌てて飲み込む。また聞き止められたら厄介だ。
 仕方なく、姿勢を崩し、身の丈に合わない広い駕籠の中に体を曲げて寝転がる。行儀の悪い事だ
が、誰にも見えないのだから良しとしよう。
「……」
 今まで慣れ親しんだ家から出る事に、恐れがなかった訳ではない。
 両の親は甘く、たった一人の兄は病弱ながらも優しい。使用人たちは前述の通り忠義に厚く、次男
坊の私にまで気を使う。
 愛しく思うべき家。だが、良い事だらけの世界と云うものは存在しないと、私はもう知っている。
 ぎちり、握りしめた拳から軋んだ音が出る。
 家は大店。兄は病弱。弟の私は健康体。親戚連中が考える事は、兄の快方よりも、私に己の馬鹿
な娘らを宛がう事ばかり。
 寄り集まればやれうちの娘は気立てが良い、やれ笑顔が愛らしい、やれ家事が得意だ、聞いても
いない事をぺらぺら私や両の親に喋る。
 それだけならばまだ良いが、十に満たない童(わらし)の寝床へ娘を夜這わせるのはどうなのか。
私は精通もしてないと云うのに。
 金の力は人から常識を取り上げるには十分すぎるらしいと、私はこの年で既に学んだ。だから家を
出た。煩わしいものを一時遠ざけて、対抗する力を得るために。
「……容易く利用できると思うでないぞ」
 駕籠の網目を睨みながら、極小さな声で決意する。
 力のない童? ふざけるな。力がないなら得るまでよ。
 大人の薄汚い欲になど左右されぬ、強き男(おのこ)になるまでよ。
「吠え面かかしてくれるわ」
 親戚どもの厭らしい笑顔を思い出しながら、さらに強く拳を握りしめた。
 ――その結果手の平を傷付けてしまい、手代らを大騒ぎさせたのは、不徳の致すところ、か。



 − 希望の西風



 いざゆかん。
 力を手に入れるため、世の闇へ。
(それは私の、最後の希望)



 備前鶴ノ丞(十歳)



「ぼく、善法寺伊作。よろしくね」
 そう云って差し出された手を凝視する。
 出されたのは右手。恐らく利き腕だ。利き腕。仕事に必要不可欠な存在。
 それを何故、初対面の人間に差し出す?
 不可解だ。
 何だこの生き物は。
 無防備な面をしているが、罠か? 握った瞬間、もう片方の手が武器を振るうのだろうか。
 左利きとは思えないが。
 いや、殺すまで行かずとも、傷付けるだけなら利き腕でなくとも事足りる。
 ――疑ってかかるんだ。
 利吉さんの言葉が、脳裏に蘇る。
 ――全てを疑ってかかるんだ。信じられるモノは、少なくて良い。
 ――信じられるモノ以外は全て、
 全て、
 ――敵だ。
 敵だ。
 差し出された手を打ち払い、胸を突き飛ばした。
 無様に尻餅を着いた相手が、呆けた面で俺を見上げる。
 吊り上がり気味の大きな瞳に、じわじわと水分が浮かんで来る。
 嗚呼、此れは知っている。
「ふ……」
 泣く、と云う行為だ。
「うわああああああああああああんっっ!」
 泣くの前に大が付きそうな勢いだった。涙をぼろぼろと流し、それを拭うためか両手で顔を擦って
いる。余計顔が赤くなって見っとも無いが、云ってやった方がいいのか。
 後ろから、誰かが走り寄って来る。
「おい! お前何してんだよッ!」
 肩を掴まれそうになったので、身を引いて避けた。走って来た勢いのまま、派手にすっ転んだ相手
を見下ろす。
 今泣いている生き物以上に吊り上がった目と眉毛をした生き物だった。顔からいったのか、土で汚
れている。擦り傷もいくつか出来ていた。
 この程度で怪我を負うなら、こいつも大した事はない。
 だが、敵である以上油断してはいけない。慢心は死を招くと、奥様も仰っていた。
「こいつは握手しようとしただけじゃねぇか! 何で突き飛ばしたりなんかしたんだよ?!」
 その言葉に首を傾げる。
 何を云っているのだ、こいつは。
「敵から身を守って何が悪い?」
 自己防衛であり、必要な事だ。信じられない者に利き手を差し出すなど、自殺行為に他ならない。
「……?! 何だよそれ! 敵なわけねぇだろ! 同じ組の仲間なのにッッ!」
「なかま?」
 なかま。
 仲間?
 共に事をなす相手。連れ。同類。
 仲間なら敵にならないのか。裏切りなど星の数ほどある忍びの世界において、仲間など無意味だ。
 俺はそう学んだが、こいつらは違うのだろうか。
「俺は」
 しゃくり上げながら、こちらを見上げる生き物。
 鋭く強い眼差しで、こちらを睨み上げる生き物。
「仲間など、いらない」
 師範さえ居てくれれば、それで、いい。
 信じられるものは、少なくて良いのだから。



 − 暮れゆく月。



 伝蔵さんが悲しそうな顔で、俺を叱り付けた。
 何故叱られるのか、理解出来なかった。
(信じられるものは、一つだけだ)



 下関大治郎(十歳)



「おめー、年上は敬えって教わってねぇのか?」
 白い兎を抱き上げる。ふわふわとした毛の感触に、頬が緩んだ。
「……無視してんじゃねぇぞ、こら、一年坊主」
 こつんと、棒の先で頭を突かれる。うぜぇ。何だってんださっきから。
 背後に居る六年生――生物委員会委員長に目を向ける。ジト目で睨みつければ、委員長は嗤った。
「ほんっと生意気だよなおめーはよ」
「うるせぇ。今しろこ達と遊んでんだ。じゃまするんじゃねぇ」
「おー、云う云う!」
 げらげら、委員長が嗤う。下品な奴だ。耳障りな笑い声に腹が立つ。
「学園は年功序列だぜぇ。面倒事避けたかったら、上にゃぁ従いな」
「もう面倒くせぇよ。あんたの存在が」
「……口の減らねぇ餓鬼だよ」
 後ろから伸びて来た手が、腕の中に居たしろこを取り上げた。
 苛立ちと共に振り向いた途端、胸倉を掴まれ飼い葉が敷き詰められた床に押し倒される。柔らかい
草のお陰で背中は痛く無かったが、少しばかり息が詰まった。
 一体なんだ。うっとうしい。
「この学園は年齢順が実力順だ。一年は誰より弱ぇ。上に守ってもらわにゃ死んじまう生き物だ」
「へぇ。獣みてぇだな」
「おお、善ぉっく分かってんじゃねぇか。此処ぁ獣の園だ。弱ぇ奴は強ぇ奴の餌になるだけよ」
 しろこをぽいと草の束の上に投げて――なんて事しやがる糞が――、委員長が顔を近付けて来た。
そのまま口を吸われる。気持ち悪ぃなと思っていたら舌まで入って来たもんだから、遠慮なく噛み付
いてやった。
 素早く離れた委員長が、心底忌々しそうな顔をする。振り上げられた手の平が、俺の頬を打った。
痛くはあったが、怯む程でもない。村の兄さん達のゲンコツの方がよほど痛い。
「いきなり何しやがる糞野郎。気持ち悪ぃんだよ死ね」
「この餓鬼……、将来有望すぎだろホント殺してぇ」
 片手が、首を絞めて来た。が、力は緩く、ほんの少し苦しい程度。抵抗する必要は無さそうだが、気
分は悪い。爪を立てれば、委員長が笑った。
「おめーみたいなクソ餓鬼、すぐに駆逐されちまうぜ。上にゃぁ黙って従え。どんだけ生意気に振る舞
おうが、おめーは一年。力にゃ勝てねぇんだからよ」
 云われた瞬間、腹を蹴り上げていた。不意打ちだったのだろう、委員長の手が緩み、派手に咳き込
んだ。
 確かにまだ一年生だが、筋力だけなら大人にも引け劣らない。村でもこの馬力が重宝されていた。
腕相撲をしたらてめぇに勝てる自信もあるぞ、委員長。
 咳き込む委員長の下から這い出して、頭を蹴り飛ばす。倒れるだろう委員長に目もくれず、飼育小
屋の出入口へと駆け出す。
 が、二歩目を踏み出す前に足を掴まれた。そのまま引き倒され、背中を打たれる。息が詰まり体が
硬直した隙に、後ろ手に縄で縛られた。
 しまった、縄抜けの術はまだ習っていない。引き千切ろうともがくが、予想外に頑丈だった。こんな縄
があるのか。知らなかった。
「ほんっっとうにおめぇって奴ぁよぉ……!」
 今までにない怒りに滲んだ声が降って来る。どうやら、本気で怒らせたようだ。
 弱者と見下している一年に出し抜かれたのが悔しいのか。ならばもっとしっかりしろ、最上級生。
「優しく教えてやろうと思ったがよ、止めだ止め。おめーみたいのには実践で教えた方が早ぇ」
「……」
 無造作に引っ繰り返される。腕が背中と床に挟まれて痛い。
 委員長の顔は鬼のように歪んでいた。頭から流れる血は俺が蹴った時のものか。ざまぁ見ろと笑え
ば、今度は拳で顔を殴られた。歯が折れなかったと云う事は、手加減はされたのか。
 今俺を殴った手が、するりと首を撫でた。そのまま着物の下へと入り、もう片方の手は袴の紐を緩め
に掛かる。
 普通の一年生なら意味が分からない行為だろうが、生憎と、若い衆の兄さん達のあけっぴろな卑猥
話を聞かされて居た俺には分かった。
 あ、こいつ、俺を姦(おか)す気だ。
「こんなガキに欲情すんのか。稚児趣味かよ」
「うわ、何で分かんだ。しかも冷静だしよ。そこまで行くと怖ぇぞ、慣れてんのか」
「んな訳あるか死ね。話で聞いてるだけだ」
「んじゃぁ生娘か。そいつぁ良かった。変に慣れた奴ぁやっても萎える」
「てめぇの性癖なんざ知るか。どけよ糞野郎。それか死ね」
「いい加減口減らしやがれ」
 また口を吸われた。舌も入って来たが、今度は下あごを固定されたせいで、噛み付く事が出来ない。
自分のより一回り以上大きな舌が、我が物のように口の中を動き回るのは不快だった。流れ込んで来
る委員長の唾液が溜まる事も不快だ。何もかも不快だが、抵抗出来ないのが情けない。
 気を紛らわせる為に、一定距離を保って近づいて来ないしろこ達に目を向けた。



 − 獣たちの晩餐会



 足に当たる硬い感触に、顔を顰める。
 この野郎、本気で不愉快だ。
(だが、同種の弱いオスがメスの代わりにされる事は、獣の社会ではよくある事)



 加藤千草(十歳)



 忍術学園へ入りたいと云った僕に、お母様が泣き叫びました。
「どうしてどうして?! どうしてそんな事を云うの?! お前は我が鳴瀧家の後継ぎなのに! 忍び
などではなく武士にならねばいけませぬ! それが何故下賤な者に成りたいなどと云うの?! どう
してどうして! どうしてなの晴継?! お前は母様が嫌いなの?! 母様の跡を継ぎたくないとでも
云うの?! あたくしがこんなに愛しているのにッッ! 愛しているのにいいいいッッッ!」
 忍術学園に入りたいと云った僕に、二人のお姉様は嗤いました。
「あら素敵ね」
「そうね、素敵ね」
「お前にぴったりではないの?」
「そうね、ぴったり御似合いだわ」
「御成りなさいな、忍ぶ者に。生き恥を晒し潔しを否とする、下賤な者に。御成りなさいな」
「御成りなさいな、御成りなさいな。御似合いよ、御似合いよ、とても御似合いよ」
「愚かなお前に御似合いよ」
「愚かなお前に御似合いよ」
 忍術学園に入りたいと云った僕に、お兄様は大層お怒りになりました。
「巫山戯るなよ。巫山戯るなよ! 家を出るだと? 望まれ生まれた貴様が、家を棄てると云うのか?!
母上様に愛されている癖に、望まれている癖に! 巫山戯るな、私は赦さぬぞ。赦さぬからな。貴様
は私の物だ! 母上様に愛されている貴様は私の物なんだ! 死ぬまで、貴様は私の物だ! 私か
ら逃げる事など、赦さぬッッ! 赦さぬからなぁッッ!」
 忍術学園に入りたいと云った僕に、お祖父様は微笑みました。
「お前の、望む通りになさい」
 忍術学園に入りたいと云った僕に、お父様は、
「お父様……」
 お父様は、視線一つ、下さいません。
 お父様。僕は忍術学園に入りたいと望みました。忍者に成りたいと望みました。武士には成らぬと申
し上げましたのに。
 どうして、御咎め一つ下さらぬのですか。御叱りの御言葉一つすら、下さらぬのですか。
 馬鹿な事を云うなと、御叱り下さい。
 愚かな事を云うなと、御叱り下さい。
 お父様。
 お父様。
 貴方様の背中しか、見えません。
 お父様。
 どうか、どうか、僕を見て下さい。
 僕を見て、どうか。



 − 声を聴かせて



 最後までお父様は、僕を見て下さいませんでした。
 僕は来年、家を出る事が決まりました。
(ただひたすら、神様の声を待っている)



 鳴瀧晴継(九歳)