お母様を愛しております。
 お父様を愛しております。
 お姉様方を愛しております。
 お兄様を愛しております。
 お祖父様を愛しております。
 皆々様を愛しております。
 けれどけれど。
 お父様は僕を見ては下さいません。
 お姉様方は僕を見てはくすくすと笑ってお話をして下さいません。
 お兄様は僕の顔に触れては「ははうえさま」と口になさいます。
 お母様。
 お母様は、僕をとてもとても愛して下さいます。慈しんで下さいます。
 あたくしのかわいいかわいいはるつぎと仰って、髪を梳き、頬を撫で、抱きしめて下さいます。
 けれどお母様。
 どうして僕に接吻をなさるのです。僕の服を脱がすのです。どうして、どうして――
 嗚呼、お祖父様。
 どうして、お祖父様は僕を、悲しげな眼でご覧になるのです。
 どうして、どうして、どうして――

 皆々様を愛しております。
 けれども僕の愛は、届かないのでしょうか。歪んでしまうのでしょうか。
 皆々様を、とてもとても遠くに感じてしまいます。
 とてもとても、遠くに。



 − 愛をうたう



 どうか僕を愛してやって下さい。
(穢れた子だと、蔑まないで)



 鳴瀧晴継(幼少)



 触れた額はとても熱かった。それだけの事なのに、泣きそうになった。
 氷水に浸した布を絞り、起こさないよう静かに額へ乗せる。何度も繰り返した看病に、涙が滲んだ。
「兄さん……」
 小さく呼ぶ。返事はない。
 荒い呼吸に喉が痛むだろうと悲しくなったが、その呼吸に「生きている」事を知らされ安堵する。
 布団からはみ出た手は細く白い。日に焼け、家の手伝いで荒れた私の手と随分と違う。それを悲
しく思っても、兄は歓びはしないだろう。
 障子の外から人の気配がした。振り向くと同時に、「坊ちゃん」と声を掛けられる。入れと許可を出
せば、兄の「にいや」である仁吉が静かに障子を開き、入ってきた。夜風が入らぬようにと、素早く障
子が閉められる。
「そろそろお休み下さい。今度は坊ちゃんが倒れてしまいますよ」
「あたしは体だけは丈夫だから安心おし。お前さんこそ、顔色が悪いよ。まるで蝋燭みたいだ」
 苦笑する精悍な顔を眺めてから、視線を兄へと戻した。
「おとっつぁんとおっかさんは?」
「寺へお参りに」
「そう……。そうだね、もう、神頼みくらいしかないのかも知れないね……」
 金に物を云わせ古今東西から集めた霊薬妙薬も、兄には効かなかった。結局、近所に住む腕利
きの医者から慰め程度にしかならない薬を買い、それを与える日々。
 一向に良くならない病弱な体。何で兄だけと、恨んだ日々のなんと多い事か。
「坊ちゃん、後は私と佐助に任せて下さいな。坊ちゃんにまで何かあったら、私らどうしたらいいん
です? 旦那様や女将さんだって……」
「しつこいね。あたしは大丈夫だよ」
 もう温くなっている手拭いを手に取り、また氷水へ浸す。充分に冷えてから水を絞り、額へ戻す。
 これだけしか出来ない自分への無力感に、息が詰まりそうだった。
「お前さんこそ、いい加減お休みよ。もう三日もまともに寝ちゃぁいないだろ?」
「坊ちゃん……」
「あたしはまだ大丈夫だから、お休みよ」
 云うだけ云って背中で拒絶すれば、布ずれの音がし――多分、頭を下げたんだろう――、「何か
あれば直ぐにお呼び下さい」と云った。
 人を呼ぶ用の鈴は手元にある。分かったと云えば、もう一度布ずれの音をさせた後、仁吉は静か
に部屋から出て行った。
 ぽろぽろと頬を涙が伝う。嗚呼、誰にも見られたくない。こんな、弱い姿。
「兄さん……」
 ずっと寝付いたままの兄を想う。
 健常な自分の体を、そのままそっくり、兄へ渡せたらと思う。
「死なないでおくれな、兄さん……」
 両手で顔を覆って呟いた祈りは、誰へ届くのか。



 − 祈りの言の葉



 神様仏様、どうか、私の唯一を連れて行かないで。
(この人が死んでしまったら、私は、)



 備前鶴ノ丞(九歳)



 明日になれば村から出て、「忍術学園」へ行かねばならない。自分自身で選んだ道だが、僅かば
かりの寂しさがあった。
 別に、二度と戻れない訳ではない。話によれば、春夏秋冬に長期休みがあるとの事。それに俺は
愛馬を連れて行くから、一日でも休みがあれば帰ってこれる。
 ただ、そう頻繁に帰ってくる気はなかった。郷里に戻れば心が弱る。学園で辛い目にあった際、此
処を逃げ場にしたくはなかった。
「ちぐさ」
 舌っ足らずな声が呼ぶ。つないだ手の先には、命の恩人であり生涯を捧げると決めた、御年五歳
になる村の若旦那がいらした。
「どうしました、若旦那?」
「ちぐさ、いなくなっちゃうの?」
 泣き出しそうな顔で云われる。大人達の話を聞いていたのだろう。
「いなくなるのではありません。出かけるだけですよ」
 泣かれては大変だと、慌てて笑顔を作り云った。
 ぱっと、若旦那の顔が輝く。
「ほんと?」
「はい。……ちょっと長いですけど、ちゃんと若旦那の所へ帰ってきますから」
 立ち止まり、若旦那の小さな体を抱き上げる。するとにこにこ笑いだして、頬をすりよせて来た。
幼い仕草が、たまらなく愛おしい。
「俺が居ない間、清八兄さんの云う事をちゃんと聞いて下さいね。勝手に出歩いたりして、心配かけ
ちゃダメですよ」
「うん」
 昔と変わらず、返事は良い。この「うん」に何度騙された事か。それでも構わないと思ってはいるけ
れど。
「ちぐさ、あのね」
「はい? 何です、若旦那」
 もじもじとする若旦那に首を傾げる。どうしたのだろう。具合でも悪いのだろうか。
「あのね、これね、かあちゃんといっしょにつくったの」
 そう云って懐を探り出したのは、一枚の紙と巾着――いや、お守り袋。女将の古着で作られただろ
うそれを目にして、胸が詰まった。
 明日から村を出るガキの為に、貴重な布を使ってくれるだなんて。
 実の息子でもなければ、元から村の住人でもないこんな俺のために。
「あのね、だいじなひとのなまえをね、だいじなひとをおもいながらかくとおまもりになるんだって」
「そうなのですか?」
「うん。だからね、ぼく、ちぐさのなまえかいたんだよ。ちゃんとかんじでかいたんだよ。えらい?」
「素晴らしいです、若旦那!」
 手習いが苦手な若旦那が、俺の為に漢字を書いて下さるとは。感動のあまり、泣けてきた。
 褒められて嬉しいのか、にこにこ笑いながら若旦那は紙を広げた。
 そこに書かれた文字に、目を瞬く。
 だが直ぐに、そう云えば自分の名前を漢字で書いて見せた事が無かったなぁ、と苦笑した。
「? ちぐさ? どうしたの?」
「いえ、何でもありません。……お上手に書けましたね、若旦那」
 頭を撫でる代わりに、頬をぐりぐりと擦りつければ、きゃっきゃと楽しげな声が上がった。
「これもって、おでかけしてね」
「はい。宝物にします」



 − 失われたもの



 そして、手に入れたもの。
(親に付けられた名に、若旦那に与えられた字。此れ以上良い物はない)



 加藤千種 改め 加藤千草(十歳)



「あの子が忍者になりたいなんて云い出したんですどうしてでしょうだってまだあんなに小さいのにど
うして忍者なんてなったってどうするって云うんです戦場に出て人を欺いて殺して殺して殺してどうし
ようもなくなるのに何で私はあの子に普通の人生を歩んで欲しくてそれで頑張って稼いでいたのに私
が忍者だったからですか伝蔵さん達が忍者だったからですか誰が悪いのですかやっぱりあいつが忍
者だったからあの子も忍者になるのですか厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だあの子が忍者になるなんて
私は厭だ怖い怖い怖いっ!」
 育ててくれた恩人ではあるが、家族ではない人が泣いている。
 貴方が泣くのは悲しい。笑って居て欲しい。
 そう思っているのに、俺はいつも貴方を泣かせていた。
「落ち着きなさい、半助。大治郎が起きる」
「起きませんあの子は一度寝付いたら朝まで目が覚めないんですから!」
 仰る通り。でも、今日の俺は貴方が帰るまではと、布団の中で起きている。無事を確認したら寝よ
うと思っていたけれど、そうも行かなくなってしまった。
「厭だ怖いあの子も私から大事な物を奪うかも知れない」
「そんな事はないさ。大治郎が優しい子だと云う事は、お前が一番良く知ってるだろう?」
「分かってますでも怖いんですだって年々あいつに似て来るんですそれが恐ろしくて堪らないんです
外見だけでなく内面まであいつのようになってしまったらどうしようってそればかり」
「大丈夫、大丈夫だ。家内も利吉も云ってただろ? 優しくて利発な子だと。あいつのようにはならな
いさ。大丈夫、私が保障するよ」
「でもでも毎年毎年似て来るんですあの子が十五になった時きっと恐ろしいくらいそっくりになってる
んですそんなあの子を前に冷静で居られる自信がないんです怖いんですきっと恐れ戦いてあの子
を傷付けてしまう!」
 優しい貴方。俺の事など、気にかけてくれなくて良いのに。
 ぼろぼろに傷付けて、棄ててくれたっていいのに。
 殺してくれたっていいのに。
 貴方が望むなら、俺の身などどうだっていい。
「厭だあの子は優しいのに愛しいのにどうしてこんなに怖くてたまらなくてそんな自分が厭なんです怯
えたくないあの子は優しいのに優しいのに優しいのに優しいのに!」
「うん、うん、そうだな。大治郎は優しい子だ。お前さんに似て、とてもいい子だよ」
「なのに忍者になりたいだなんてッッ!」
 わっと泣き出した声を聞き、起き上り駆け寄りたくなる衝動を押さえる。今俺が近づけば、ますます
錯乱する事は目に見えていた。
 やはり云うべきでは無かったのだろうか。奥様は「貴方の口から云いなさい」と仰ったけれど、云っ
た瞬間の絶望に満ちた顔が忘れられない。云うべきではなかった。そもそも、願うべきでも無かった
のかも知れない。
 忍びになりたい、などと。
「半助、あの子はな、お前の役に立ちたいと云ったんだ。私達に守られてばかりでは厭だと、自分も
守りたいのだと云ったんだよ。大丈夫、あいつのように人を殺めるためだけに学ぶのではないよ」
「でも」
「疲れてるんだ、もう寝なさい。よく休んだら、気分も落ち着く。それから、もう一度考えてやんなさい」
「……あの子の」
 ずずと、鼻をすする音。

「あの子の傍で寝るのは厭です」

 嗚呼。
 自分の体に流れる血が、疎ましい。



 − 英雄の系譜



 この血脈さえ無ければ、俺は、
(誰を憎めば良いか分からず、己の血を憎む)



 下関大治郎(七歳)



 遠い遠い昔のお話です。
 海の向こうの大陸に、九つの首を持つ、とても強くとても怖い龍の神様が居りました。
 龍の神様は他の神様達を追い出して、大陸を喰い荒し、大暴れをしていました。
 ある日龍の神様は、海の向こう――つまり、私達の国を気にするようになりました。
『この海の向こうにある国には、何があるのだろう。どんな神が住まうのだろう』
 思い立った龍の神様は、海を越え、私達の国へやって来たのです。
『さぁこの国でも暴れ回ろう、他の神々を追い出して、土地を喰い荒してやろう』
 そう思っていた龍の神様は、私達の国を守る太陽の神様に体を焼かれてしまいました。
 どんな刃も通さない鱗も、太陽の前には無力だったのです。
 死に掛けた龍の神様はふらふらと飛び回り、とてもとても美しい湖に辿り着きました。
 そこで傷を癒さんとした龍の神様でしたが、先に水浴びをしていた人間が居たのです。
 夜の闇より暗い瞳と、鴉の羽より黒い髪を持った、とても美しい女の人でした。
 龍の神様は一目で、人間如きに恋をしてしまったのです。
 死に掛けながらも龍の神様は、女の人に愛を囁きました。
 死ぬ前に一度、契っては貰えまいかと乞いました。
 女の人は一度だけ頷いて、龍の神様を受け入れたのです。
 契った後龍の神様は死んでしまいました。
 女の人は死んだ龍の神様の為に二日間泣いて、目玉を一つ刳り貫いて、牙を一本折りました。
 するとどうでしょう。
 目玉はするすると女の人の腹の中へ入り、牙は一振りの刀となりました。
 目玉は生まれて来る子を守る力となり、牙は女の人を守る刃となったのです。
 女の人は龍の神様の亡骸を湖に沈め、その傍で暮らすようになりました。
 長い長い年月が流れ、女の人は一人の赤ん坊を産みました。
 女の人にそっくりな黒い髪と、まるで御空のように綺麗な青い目をした、球のような赤ん坊でした。
 女の人はその子を愛し、慈しみ、守りました。
 そしてその子が大きくなると、今度はその子との間で契りました。
 次に生まれてきたのは、男の子と女の子の双子です。
 その子達は大きくなると、双子の間で契りました。
 それを何度も何度も繰り返し、龍の神様の血が色濃く残るように子孫を繋げ。
 今のわたくし達があるのです。



 − お伽噺をききながら



 いっそ途絶えてしまえば良かったのにと思った事は、いけない事でしょうか。
(いっそ僕など、生まれなければ良かったと、思ったのは、)



 鳴瀧晴継(幼少)