「糞が……っ」
 ぜいぜい荒い呼吸を繰り返しながら、それでも俺は悪態をついた。
 ほとほと、自分の根性の悪さに呆れる。
 適当に応急処置を済ませたのが悪かったか、血がどんどん流れて行く。
 未だに動けるのが不思議なくらいだ。
 日頃肉を食っていたからだろうか。
 あぁ糞、今見つけられたら仕舞いだな、などと宜しくない想像をする。
 得物は一応握れるが、振り切れるか謎だ。
 だが手放す事はしないし、足を止める事も、膝を着く事もしない。
 それをやってしまえば、もういけなくなってしまうと、分かっていた。
「糞が……、死んで、たまるか、ぁ……!」
 己自身を叱責するように、悪態をつき続ける。
 静かにしろと理性が云うが、黙り込んでしまえば何だか負けた気になってしまう。
 誰に、と云われれば、当然、自分を置いて行った奴らにだ。
 思い出して、口の端が吊り上がる。
 あぁ本当に、あいつらは忍び向きだ。
 どうもうちの学校の連中と来たら、将来忍びになると云いながら、情を棄てきれない奴ばかりで。
 忍務中、こんな大怪我を負った馬鹿を、見捨てるなんて出来ない奴らばかり。
 は組の馬鹿夫婦は当然の事、うちの組の長次と小平太も俺を見捨てるなんて出来ねぇだろうし。い
組の文次郎、仙蔵に至っちゃあ、妙な所で甘ちゃんだからな。文句を云いながら見捨てるなんて選択
肢、最初から用意なんざしねぇんだろうよ。
 その点で云えば、あいつらは合格だ。とっとと俺を、見捨てて行きやがったからな。
 ったく、こちとらてめぇら二人庇ってやったっつーのによ。見捨てりゃ良かったか。
 だが、今回のテストの頭は備前のカマ野郎、密書を持ってたのは下関の馬鹿野郎と来たら、俺が体
張るしかねぇじゃねぇか。
「帰ったら、一発、ぶん殴ってやる……っ」
 本当に、忍び向きな奴ら。
 一言、「こうなっては使えぬな」と云い捨てて走り去った備前。
 一言、「じゃあな」と呟いて後を追った下関。
 本当なら此処で、恨み言を云うなり憎しみを抱くなりしなければならない所だが、生憎とそんな気分に
はならなかった。
 去って行く二つの背中を眺めて、込み上がった感情は、ただ一つ。
 喜びのそれだった。
 俺の周りはどいつもこいつも、情に溺れた馬鹿野郎ばっかりで。
 卒業したらすぐ死んじまうんじゃねぇかって、心配ばっかりさせやがって。
 俺ぁお前らと違って馬借になるんだからな。
 もう、背中守ってやれねぇんだぞ。
 そう何度も云おうと思って、それでも云えなかったのは、俺も甘かったからなのか。
 素直に背中を預けて来る馬鹿野郎共を、好いていたからなのか。
 それは分からないが、あっさり俺を見捨てた二人を見て喜んだのは確かだった。
 あぁ、あいつら、死なないなと、思った。
 卒業しても、生きていけると、易々と死にゃしねぇと、思った。
 そう思えば、浮かんでくるのは笑みばかり。
 口を突くのは天邪鬼な悪態ばかり。
「覚えてろよ、糞が……っ」
 死んでたまるか。
 俺が死んだら、若旦那がお嘆きになる。村の皆が泣いちまう。
 だから死ねない。俺は、死なない。
 若旦那を守り抜くまで、死ねないのだ。
 このテストが終わったら、春休みだ。
 帰ると約束した。帰ったら、沢山遊ぶと約束した。土産話を沢山持って帰ると、約束した。
「死ねるか……こんな所で、死ねるか糞野郎……!」
 草と湿った土を踏みしめ、ひたすら歩む。
 生きて帰ったらまず、あの馬鹿二人の顔殴ってやろうと思い、口の端を吊り上げて、笑った。



 − 忘れないよ



 あの喜びを、忘れはしない。
(帰れば案の定、泣き喚く同輩と後輩と、そして、しれっとした顔の馬鹿二人が居た)



 加藤千草(十四歳)



 テストの報告を終え、怪我をしていたから医務室へ訪れれば、
「……」「……」
 じっとり顰めっ面をした、食満と善法寺に迎えられた。
 何だ一体。
 まさか俺が先にテストを終わらせた事を、怒っている訳じゃないだろうな。
 それならば不可抗力だろう。
 六年生への進級テストは大規模になるため、一日一組ずつしか行われないのだから。
 その中でたまたま、俺と備前、加藤組が一番最初になっただけで。
「……大治郎」
「何だ」
 硬い善法寺の声に返事をしながら、中へ入り障子を閉め、どっかり座り込む。
 怪我をしたのはどこだったか。
 背中は見えないから分からないのだが。
「千草を、見捨てたそうだね」
 云われた言葉に、首を傾げた。
 もう伝わっているのかと云う純粋な疑問と、それがどうした、と云うこれまた純粋な疑問。
「見捨てたが、それが何だ?」
「何だって、お前なぁ!」
 突然食満が激高した。
 掴みかかろうとして、善法寺に止められている。
 何なんだ。
 なんだかんだ云いつつ長い付き合いになるが、未だに食満の沸点がよく分からない。
 忍務中、こちらが驚くくらい冷静で冷徹に対処しているかと思いきや、日常生活では突然怒り出し
たり喚きだしたりするから分からない。
「五年も付き合いのある奴だろうがッ! 何で見捨てやがった!」
「邪魔だったからな」
 答えてやれば、二人揃って硬直した。
 何故だろうと首を傾げて、続きを話す。
「足と腹に深い傷を負った。こちらの足には追いつけないだろうと判断したから、置いて来た」
 それが何か悪いのかと問えば、食満の顔が瞬く間に赤くなった。
 そして鼓膜が破れるかと思うほどの大音量で、「馬鹿野郎」と罵られた。
 またもや掴みかかって来ようとするのを、善法寺が必死になって止めている。
「留さん! 留さん、大治郎も怪我人なんだ! 落ち着いて!」
「……っ、でもなぁ!」
「ぼ、僕から始めておいてなんだけど、話は治療の後! いいね?!」
「う、……わ、分かった」
「じゃ、大治郎服脱いで。君、痛い所自分で分からないだろ?」
「うん」
 頷いて、薄汚れた忍び装束を脱ぐ。背中でバリバリと音がした。
 その音に、二人の顔色が変わる。
 やはり背中を怪我していたか。
 備前は何も云っていなかったが、結構酷いのではないだろうか。
 脱いだ忍び装束には、乾いた血がべっとりとこびり付いている。
 ……これ、もう着れないな。
「大治郎! 早く、背中見せて、早く!」
「うん?」
 云われ背中を向ければ、息を飲む気配が二つ分。
「留さん、そこの棚、右端上から二番目」
「おう」
 突如冷静さを取り戻した二人のやり取りを背中で聞きながら、白い障子を眺める。
 ぱちゃぱちゃと水音がして、かたりと引き出しを開ける音がした。
「血を拭き取るから、……痛かったら、云ってね」
「……ん」
 そもそも「痛い」とはどう云う事なのか知らないが、一応頷いておいた。
 なんとなく、何かが触れた感触。多分、濡れた布だ。
「……どうだ、伊作」
「うん……。出血は派手だけど、深くはないね。骨も臓器も無事」
「そうか」
 善法寺の言葉に、安堵の息を着く。
 もし骨まで届いていたら動く事など不可能だっただろうし、臓器に達していたら吐血していただろ
うから、そう深くはないと分かってはいたが、他人から言葉にされると安心感が湧いた。
 せっかく六年生への進級テストに合格したと云うのに、再起不能になどなったりしたら笑えまい。
 背後でよくわからない物音がする。薬でも出しているのだろうか。
「薬塗るから、動かないでね」
「うん」
 云われ頷く。こうして予告されれば、触れられても忌避感がわかなくなってから、大分経つ。
 最初その事に対して抱いた違和感も次第に薄れ、背中を見せる事にも戸惑いはなくなった。
 それを師範も善法寺も食満も喜んでいたけれど、俺はどうしようもない喪失感を覚えていた。
 あれだけ叩き込まれた忍びの教えが、薄れて行く感覚。
 きっと今奥様にお会いすれば、叱責を頂いてしまうに違いない。
 二人掛かりで包帯を巻かれ――大げさすぎやしないか、これは――、善法寺が穏やかな声で、「は
い、御仕舞い」と云った。
「……しばらくの間、仰向けで寝ちゃ駄目だよ。うつ伏せで寝てね」
「分かった。手間をかけさせたな」
 そう云いながら振り返れば、色素の薄い善法寺の目とかち合った。
「……何だ?」
「うん……」
 悲しげに微笑んで、善法寺は隣に座る食満の手を握った。
 労わるように、食満が名を呟く。
 ……どうでもいいが、男同士の乳繰り合いなど見せ付けないで欲しい。
「ねぇ、大治郎は……」
 悲しげで、それでいて何かを悼むような顔で、善法寺は口を開いた。
「怪我をしたのが僕でも、留さんでも、置いて行ったの?」
 その言葉に、はっきりと頷きを返す。
 忍務中に大怪我を負った奴など、置いて行くに決まっているだろう。
 なのに、食満は盛大に傷付いたような顔をして、善法寺は寂しげな笑みを浮かべた。
「そっか……。ふふ、そうだよね……」
「……?」
「そっか……、……そっかぁ……」
 同じ言葉を繰り返した後、善法寺は空いた手で己の顔を抑え俯いた。



 − 最後の約束を



 ――大治郎は、そうやって生き残ってね。生き抜いてね。
 懇願するように呟かれた言葉は、空(くう)に消えた。
(別に、泣かせたかった訳ではないのだと、云い訳は出来るのだろうかと、ふと思った)



 下関大治郎(十四歳)



 あー、腹立つ。
 何で私が叩かれにゃならんのじゃ。
 忍務は達成できた。
 敵と交戦する羽目になったが、何とか撃退し、密書を持ち帰った。
 途中で一人棄ててきたが、必要に駆られての事。
 減点対象にはならない。
 そもそも、腹と足を負傷した足手まといなど、置いて行くに決まっておるだろうに。
 それとも私と大治郎君にあの図体デカイ野蛮人を担いで帰って来い、とでも云う気か?
 へそで茶が沸くわ阿呆め。
 文次君め、覚えておれよ。
 後で百倍返ししてやるわ。
 むかむかと逆襲方法を考えていると、上からかこ、と間の抜けた音がした。
 顔を上げれば、雷蔵君――の顔をした三郎君がこちらを見下ろしていた。
「おお、三郎君。どうしたんじゃ、そんな所で」
「お鶴さんに会いに来たんですよ……っと」
 小さな掛け声と共に、音も無く降り立つ。
 相変わらず、見事な身のこなしよ。
 見てるこちらの気分も良い。
「お帰りなさい、お鶴さん。後、テスト合格、おめでとうございます」
「はいはい、有難う。わざわざ云いに来てくれるなんて、三郎君は良い子じゃのぅ」
 よしよしと頭を撫でてあげれば、気持ちよさそうに目を細めた。
 ちょいと猫っぽいの。そこも愛らしいが。
「お鶴さん、これからお話出来ます?」
「うん? もう報告は終わっておるから、構わんが」
「やった! じゃぁあっちでお話しましょう!」
 早く早くとぐいぐい引っ張られる。
 やれやれ、もうすぐ五年生になると云うのに、落ち着きのない。
 そんな幼い仕草も好きだから良いのだけれど、他の連中から何か云われてやしないかと心配にはなっ
た。
 まぁ三郎君に余計な事云う輩は、私が丁重にお引き取り願うが。
 縁側に並んで座り、三郎君が持って来たあられをつまみながらお喋りに興じる。
 話の内容はやはりと云うか、今回私が受けたテストの事。
 勿論、詳しい内容は話せないけれど。
「やっぱり、六年進級ってなると大変なんですね〜」
「まぁのぉ。五年の時よりかは難しかったぞ。三人一組で組まされたし」
「それって同じ組の人ですか?」
「うんにゃ。い、ろ、はで一人ずつじゃな。しかもくじ引き」
「それじゃぁ意思疎通とか難しそうですねー。同じ組ならまだ何とかなりそうなのに……」
「敢えて難易度を上げておるんじゃろうなぁ。まぁ、卒業すれば周りは知らぬ人間ばかり。よく知らぬ相
手とも上手く連携出来るかも見ておるんじゃろ」
 けれど、忍者は結果が物を云う。
 たとえ怪我を負おうと、一人欠けようと、目的さえ達していれば満点合格だ。
 だから私も大治郎君も、合格を頂き、進級を許された。
「お鶴さんは誰と組んだんですか?」
「大治郎君と千草君じゃ」
「うわぁ……」
 三郎君の顔が、「お気の毒様……」とでも云わんばかりに歪む。
 まぁ……私らの仲が悪いのは周知の事実じゃからの。
 くじ引きした直後の先生方の顔も、大層不安げに歪んでいた。
「それでよく合格出来ましたね」
「まぁ、不愉快な事に力量はある連中じゃからの」
 私ほどではないが、と云えば、三郎君はけらけらと笑い出した。
「じゃぁ、大治郎先輩と加藤先輩も合格なんですね」
 兵助とハチが喜ぶな〜と、三郎君が笑う。
 おやおや、三郎君ともあろう子が早合点とは。
「千草君は合格しておらんよ」
「え?」
「帰って来ておらんからなぁ」
 袂(たもと)から出した扇子で、はたはたと己を扇ぐ。
 香の柔らかな香りが辺りに漂った。
「足と腹を怪我しおってな。邪魔になったから置いてきた」
 ぱちぱちと、丸い目が瞬きを繰り返す。
 しばらく無言が続いたかと思うと、大きなため息。
「……ハチが大泣きするなぁ。どうやって慰めよう……」
 半眼になってぼやくものだから、つい笑ってしまった。
 おやおや、取り繕っていた言葉使いが聞くも無残になって。
「何笑ってんですか。俺がこれから苦労するって云うのに」
「いや何、死んだとは限らぬよ。あれはしぶといからの」
 ほほほほと笑えば、三郎君はまたため息。
「ほんと、仲がいいのか悪いのかわっかんないすよねぇ」
「良いわけなかろうが。大嫌いじゃ、あんな野蛮人」
「あはは。……でも、凄いなぁお鶴さんは」
「うん?」
「俺、見捨てるとか無理っぽいすから」
 両手を後ろに着いて、空を見ながら三郎君が云う。
「雷蔵もハチも、兵助も勘右衛門も、晴次も……皆皆、見捨てられないすよ」
「おやおや、忍者になると云うのに、しょうのない子じゃのぉ」
 よしよしと頭を撫でてやれば、照れたように笑った。
「お鶴さんの事も見捨てませんよ。大好きですから」
「そうか、そうか」
「でもお鶴さんは、俺の事見捨てるんだろうなぁ」



 − 過去と未来の境界線



 その言葉に返事はせず、ただ、曖昧な笑みを浮かべた。
 お鶴さんのそう云うトコ、好きですよと、微笑みながら三郎君が云った。
(そうだね、君は、私の人生に関係ないもの)



 備前鶴ノ丞(十四歳)



 ファンタジー風味な50音のお題 了