とてもとても久方ぶりに、女は”此処”に訪れた。最早時間の感覚が分からないルークだったが、
女は「一か月ぶりだなぁ」と呟いていた。
 一月。五十八日。ローレライデーカンなら六十日。
 昔、家庭教師に習った事を思い出す。何度の何度も声に出して、下手な字で書いて覚えた。お手
本を見ずに全て云えるようになった時には、家庭教師もガイも手放しで褒めてくれた。
 あの家庭教師、名は何と云っただろう。極初期の頃だけ屋敷に出入りしていて、ルークが読み書
きを覚えると同時に居なくなってしまったように思う。
 穏やかな笑顔と、甘い声と、柔らかな物腰が印象的な、年配の女だった。
「世界は美しい物で溢れてる、世界は醜い物で創られている――」
「……何、それ」
 突然女が、詠うようにそう云った。
「俺のお師匠様が云ってた言葉だよ。何となく、思い出してさ」
「……」
 お師匠様――師匠(せんせい)の事か。女にも、自分にとってヴァンのような存在が居たのかと、
少し驚いた。何でも知っているから、師匠なんていらないんじゃないかと思った。
 その事を伝えれば、女は小さく噴き出した。
「最初から何もかも知ってた訳じゃないさ。学んで知って、覚えたんだよ」
「ふぅん……? じゃぁ、オレといっしょか」
「……そうだな。何も知らないから教えを乞うて、教わったら興味が湧いて、もっともっと知りたいと
欲が出て、気付いたら――」
 女が、遠い目をする。どこを見ているのか。この世界は真っ黒で、何もないのに。
「『神様』に一番近い所まで来ちまってた」
「かみさま……」
「そう、『神様』」
 ぽんと、ルークの頭に手が乗せられる。乗せられた手はそのままで、撫でるような動きは無かった。
別に、期待などしていなかったが、少し残念に思う。
「『真理を知れば、後戻り出来ないぞ』、って忠告されてたのになぁ。あの頃の俺ぁ馬鹿だったからな、
何も考えずひたすら知識を欲したんだ。”何もかも知れば、何でも出来る”って思い込んでた」
 その言葉に、ルークはどきりとした。
 女と接するうちにルークは色々な事を学んだ。自分がちっぽけな存在である事。世界は屋敷だけ
ではない事。親しい人々の思惑。自分の未来。世界の行く末。
 学ぶうち、今のままでは駄目だと思い知った。女を憎み嫌うだけではどうにもならないと悟った。従
順になり、”情報”を引き出せば自分の利になると学んだ。
 そうすれば、何もかも知る事が出来ると知った。何でも出来るようになると思ったのだ。
 そしていつかは、『ルーク』を取り戻せるのだと信じていた。
「……逆に縛り付けられてちゃぁ、意味ないよなぁ……」
「え?」
 呟かれた言葉に顔を上げれば、何でもないと首を横に振られた。
「……俺が只の人間なら”知識馬鹿”で終わっただろうに。生憎と只の人間じゃなかったせいで、行
き着いちまった。そして知り得た物は、”神の真意”と”世界の全”だ」
「かみのしんいと、せかいのぜん……?」
 分からないと声音に乗せれば、女は笑った。少し寂しげに、少し意地悪に。
「分からないならそのままでいい。俺みたいな馬鹿をするな。お前の後ろにも”世界の意思”が付い
ちまってんだ」
「せかいのいし……」
「迂闊に知りたいなんて思うなよ。俺みたいになっちまうぜ?」
 馬鹿にするように云って、女は「時間だな」と呟いて戻って行った。
 また一人きりになった世界で、ルークは女の言葉を思い起こす。分からない事を沢山云われた。ど
れも理解出来なくて、それが酷くもどかしい。
 それを、理解出来るようになったら。
 自分は女と、肩を並べられるようになるのだろうか。
「世界は、うつくしい物であふれてる、世界は、みにくい物でつくられている――」
 ふと、口にしてみる。意味が分からない、言葉の羅列。
 これが”せかいのぜん”ではないのかと、ルークはなんとなく思った。



 − ただのおんなのこ。



「我が軍カーティス大佐の不敬の数々、誠に申し訳ありません……!」
 そう悲痛な声と共に土下座をしたのは、超大型陸上装甲艦『タルタロス』艦長・ゼノビス中将と、二
人を『タルタロス』に”招待”したフィリン中佐だ。
「あー、まぁ。何だ。そこまでしなくていいよ。美味しい紅茶も淹れて貰ったしよ」
 そう云ってハルは優雅にティーカップを傾けた。
 念の為ティアに毒見させたその紅茶は、花と緑の街『セントビナー』産高級茶葉「花の女王」を使っ
て淹れられた物だ。ハルが最も好む茶葉は「蒼の紳士」だったが、この爽やかな甘みを持つ女王美
味だった。
 目の前のティーテーブルには、キムラスカ式ティーセットが用意されている。紅茶だけでなく、三段
式のプレートスタンドがあり、一番上の皿にクリームをふんだんに使ったプチケーキが乗り、、二段
目にはプレーン・チョコチップ・カボチャと三タイプのスコーン(御供はクロテッドクリームとリンゴジャ
ム)、そして三段目が一口サイズのサンドウィッチ数種となっている。
 ――うまそー。なぁなぁ、パンプキンスコーンにクロテッド乗っけてくれよ!
(馬鹿。ジャムも乗った方が断然うめぇよ)
 美味しそうな茶菓子を前にワクワク感を隠しもしないルーに、人知れず笑う。
 焼き立てらしいカボチャのスコーンを手に取り上下二つに割ってから、クロテッドクリームとリンゴジャ
ムを塗り、片方をティアへ渡した。
 マナーが分からないのか紅茶以外に手を付けていなかったティアが恐縮しながら受け取り、小さな
口でぱく付いた。
 それを見届けてから、もう片方を自分の口に入れれば、ルーから歓声が上がった。
 ――うわうっめぇ! 香ばしいって云うか、サクサク感が滅茶苦茶いい! てか、生地自体うめぇ!
クリームもケチってねぇし、つかカボチャとリンゴって合うんだなぁ。超うめぇ!
(少ない語彙力でご苦労さん。でも、確かに美味いなこりゃ)
 ご機嫌取りだと云ってしまえばそれまでだが、此れを用意するのに乗船していたコックらは相当神
経を使っただろうなと思うと、素直に嬉しい。
 本来は導師イオンの食事係として乗船しただろうに、突然キムラスカ王族のためのティーセットを用
意しろと云われた彼らの心情はいかばかりか。失敗したら物理的に首が飛ぶ、程度は思っていただ
ろうと考えると、同情心も湧き上がった。
 隣を見ればティアも目を輝かせている。肩の力が抜けたようだ。ルークの断わりを入れてから、笑
顔でチョコレートケーキを皿に取っている。ケーキと女の子の組み合わせは目の保養だ。
「あの馬鹿は、まぁ、俺の正体に気付いてなかったみたいだしな。奴を理由に無用な諍いを起こすの
も馬鹿らしい。今後態度が改まれば不問にしてやるよ」
「ご慈悲を有難うございます……! カーティス大佐には厳しく指導致します!」
「まぁ、とにかく顔を上げてくれ。茶が不味くなる」
 そう云えば、彼らは慌てて顔を上げた。勿論跪いたままではあるが。
 ゼノビス中将は四十代半ばのロマンスグレー、フィリン中佐は二十代後半の精悍な顔付きをした青
年佐官。二人そろって目の保養になる見目をしている為、ハルはにっこりと微笑んだ。美人系より美
形好きなハルとしては嬉しい限りの人選である。
 と云うか、マルクト軍に入るには顔も必要なのだろうか。この艦に乗っている軍人らは、皆美形だっ
たように思う。
(うちも王室近衛騎士と白光騎士の入団審査には、見目麗しい事も条件に入ってるけどさぁ)
 ――え?! そうだっけ?!
(そうだよ。麗しのロイヤル・ファミリーに仕える騎士だぜ? 不細工じゃ格好付かないだろ)
 普段は体の全てを甲冑に覆われてるため見えないが、式典などでさらす顔は皆美しく、凛々しい。
王室の華やかさに、箔を付けているのだ。
 彼らの凄い所は、顔がよいだけで無く、文武両道であると云うところだ。
 罷り間違っても先程の馬鹿のように、顔だけが良いと云う訳ではない。キムラスカが誇る最強の騎
士たちである。
「幾つか聞きたい事があるんだが、いいか」
 スコーンを嚥下してからハルが云えば、ゼノビスが「我々でお答え出来る事ならば」と慇懃に答えた。
「まず一つ目。あんたら、いつから俺の正体に気付いていた?」
「昨日、部下より「赤い御髪と緑の瞳をお持ちになった貴人にお目にかかりました」と報告がありまし
て。何でも、不届きな村人を罰して下さったとか……」
 ――……歪曲してね?
(……まぁ、暴行してましたとは云えなかったんだろうな。うん)
 あれは正当防衛と云うか、神罰と云うか。今さら掘り返してもどうしようもない気がしたので、そのま
ま黙っておいた。
「その場で俺の身柄を押さえなかったのは何故だ」
「貴方様の身分を思えば、何故エンゲーブなどにいらっしゃったのか説明がつかず、半信半疑でした
物で……。急ぎ帝都に指示を仰いでおりました」
「で、帝都からの返答は?」
「キムラスカ・ランバルディア王国より、王位継承者であらせられるルーク・フォン・ファブレ様が、擬似
超振動による”事故”でマルクトへ入国してしまった事が知らせられておりました。賓客として丁重に我
らが『タルタロス』へお招きし、キムラスカ・ランバルディアへお連れするようにと、勅命を頂きました」
「おや、一度帝都へ顔を出さなければいけないと思ったのだが」
「ルーク様のお立場を思いますれば、帝都へお招きしお時間を取らせては、キムラスカ国内に無用な
混乱を招くと、陛下はお考えです」
「その通りだな。……お心遣い、感謝する。ピオニー陛下に、このご恩は『ルーク』の名に懸けて必ず
お返し致しますとお伝えしてくれ」
『ルーク』の言葉に、二人は「御意にござります」と云って頭を下げた。
 ――……ピオニー陛下っていい人?
(さぁて。噂では『希代未問の賢帝』とか云われてるけどな。”いい人”かどうかは別だろうし)
 そもそも彼が賢帝と呼ばれるのは、先代が余りにも恐ろしく、未曾有の混乱を世に振り撒いた御人
だからだろうとも思うが。
(『狂乱の炎帝』の息子だからな、油断はなんねぇだろ)
 ――きょーらんのえんてい?
(……お前、此れも、歴史の授業でやったぞ……?)
 ――え? ……あはははははー、えーっと、そうだっけ?
 ルーは笑って誤魔化そうとするが、ハルは許さない。家に戻ったらマルクト史と世界史を一から教
えなければ、固く心に誓った。
「それとだ、導師イオンがマルクトにいらっしゃる理由を聞きたい。ついでに、戦争中でも無いのに『タ
ルタロス』が動かされている事もな」
 イオンの名前に、ティアが反応した。ケーキを口に含み至福の顔をしていたのを、真顔に戻す。
 やはり元教団員、導師については気にかかるのだろう。……もっと自分の処遇についても興味を持
てと云いたい所だが、此れも駄目ッ娘故か。
「それについては……我々には緘口令(かんこうれい)が敷かれております。カーティス大佐にお聞き
頂くしか……」
「……ゼノビス中将、貴方の方が官位は上だろうに」
「この任務中はカーティス大佐が指揮官なのです。勅命故、私の独断では……」
「そうか……。ならば、カーティス大佐を呼んでくれ」
 云えば二人の軍人はぎょっと顔色を変えた。あれだけ不敬を働かれた王族が、よもやそのような痴
れ者を再び御前に呼び出せと云うとは思わなかったのだろう。精々、カーティスから許可を取って来
いとでも命令されると考えていたのか、目に見えて狼狽し出した。
「し、しかしカーティス大佐は……」
「緘口令が敷かれているのだろう? ならば直接本人に聞くさ。なぁに、奴もいい加減懲りただろう?」
 笑顔で云うが、二人はまだ戸惑っている。
 ――……おめ、何企んでる?
(企んでるとは失礼な。画策していると云え)
 ――同じようなもんじゃねぇか! あの野郎呼び出して何する気だ!
 ルーの言葉に、ニヤリと笑う。その笑みを見た二人が硬直した。
 陰険且つ、ドス黒く厭らしい、”特権階級特有”の笑みを見せたのだ。その反応は正しい。
「まぁ……少し騒がせるかも知れないが……――大丈夫だろう? ”君”らは至極優秀で物事の道理
も分かっているようだ。”私”とカーティス大佐の間に何かあっても――」
 そこで言葉を止め、またにっこりと笑んだ。
 ――ちょ、おま、なんか、悪い予感しかしねぇんだけど……?!
(ほー。お前の第六感も大分働くようになったじゃねぇか)
 二人はガクガクと震えながら、「御心のままに……!」と云って土下座した。ティアは理解出来てい
ないのか、怯える二人とハルを交互に見て首を傾げていた。
「では人払いを。このティーセットも片付けてくれ。あぁそれと……彼女は”私の大事な部下”だ。この
まま残しておいてくれ」
 その言葉を二人の軍人は了承し、ティアは残された。
 フィリンが部屋の外に出、入れ替わりに兵士らが入ってくる。彼らに指示を出しているゼノビスに、
ハルは声をかけた。
「伝言を頼まれてくれないか」
「はい。どちらへ何とお伝え致しましょう?」
「ティーセットを用意してくれた人たちに、紅茶とお菓子を有難う、美味しく頂きました、と伝えて置い
てくれ」
 その言葉に一瞬、ゼノビスは唖然とした。それから眉尻を下げ、瞳を潤ませると頭(こうべ)を垂
れ、「畏まりました」と若干震えた声で云った。

 *** ***

 ティアとホド伝統の手遊び「おちゃらか」をしながらカーティスの到着を待っていると、丁寧に扉が
叩かれた。
「どうした?」
 カーティスかとも思ったが、念のため外の兵士に問えば、「導師イオンがお見えになりました」と
返された。
 お互いの手を合わせた状態のまま、顔も見合わせる。何故導師イオンが此処に来る?
(何しに来たんだこのタイミングで……)
 ――さぁ? どうすんの。まさか、追い返すのか?
(する訳ねぇだろ。相手は導師様だぞ。……しゃーねぇ、適当に喋って帰って貰うか)
 やれやれ、とため息をつきながら、ティアにまた後で遊ぼうなと云う。はにかむティアの頭を一撫
でしてから、兵士に入室許可を出した。すぐに扉が開かれ、護衛のアニスを伴ったイオンが入って
くる。ハルとティアは立ち上がり、イオンに向かって礼を取った。ついでに、跪こうとするアニスを手
で制しておく。
「ようこそ導師イオン」
「突然すみません。僕も同席すべきだと思いまして……えっと……」
「あぁ、此れは申し訳ありません」
 帽子を被ったままだった事を思い出す。片手で外せば、纏め上げていた長髪がばさりと落ちた。
 イオンもアニスも警備に付いていた兵士も、目を見開いて落ちた髪へ注目する。
 鮮やかな朱色の髪。世には赤茶髪はあれど、これほど鮮やかな赤色は存在しない。
 艶やかな、見る者の目を容赦なく奪う赤色は、神聖なる蒼き血を継ぐ者らだけの特権。
「キムラスカ・ランバルディア王国ファブレ公爵家が嫡子、『ルーク』・フォン・ファブレに御座います。
こちらの都合で偽名を騙った事、お許し下さい」
「は、いえ、そんな……!」
 礼をとりながら云えば、イオンは慌てたように首を振る。
「何か事情が御有りなのでしょう? 咎める気などありません。頭を上げて下さい……」
「……恩赦、有難く頂きます」
 顔を上げにこりと微笑めば、イオンはぽっと顔を赤らめた。少女めいた容姿と相まって、本当に可
憐だ。
(……女じゃないのが惜しい)
 ――女だったらどうする気だ。
(とりあえず、導師の座から蹴り落として妾に貰う)
 ――お前本当に死ねばいいのにッッ!
 腹の底から本気で云われ、ハルは微妙に傷付いた。そこまで力いっぱい云わなくてもいいじゃな
いか。
 導師に椅子を勧め、ティアには立っておくようにと小声で告げる。導師が来たならば、名目上『ルー
ク』の部下である彼女を着席させる訳にはいかなかった。
 何故立っていろと云われたのか理解出来ていない顔をしていたが、ティアは素直に「はい」と返事を
して、ハルが座っていた椅子の斜め後ろへと回った。素直な所はティアの美徳だ。
 アニスもまた、イオンが座る椅子の斜め後ろへと立つ。背筋をピンと伸ばした堂々とした立ち姿に、
思わず感嘆のため息が出た。
 いくら軍人とは云え、彼女は十二、三歳と云った所だろう。その年若さで、これだけの達振る舞いは
早々出来まい。<導師守護役>を任されている事からも窺えるが、相当優秀な子だ。
 悪い癖が出てしまいそうだなぁと思いながら、ハルも席に座る。
「それで導師、どう云ったご用件で? 私はこれからカーティス大佐と会談があるのですが……」
「はい。その件については僕も関わっていますから、同席させて頂きたくて」
「はぁ……」
 ちらりとアニスを見れば、薄く頷き返された。彼女が了承するなら、まぁいいだろうと納得する。
 ――……変じゃね。
(何が)
 ――だってお前、イオンじゃなくてアニスの方信用してるっぽい。
(ぽいっつーか、アニスの方が確実に信用してるよ。導師の判断は甘そうだが、彼女は厳しそうだか
らな)
 チーグルの森で二人を見ていて思った事だ。アニスは年齢に似合わず冷静に判断が下せるし、導
師に対しても厳しいように見受けられた。彼女が善いと云うなら、ハルは了承する。
 アニスが少しでも否の態度を見せていたら、慇懃に導師を追い返していた所だったが。
 また扉が丁寧に叩かれた。何だと問いかければ、カーティスが来たと告げられる。
 さて、奴は一体どんな事を語るのか。半分楽しみ、半分うんざりしながら、ハルは入室許可を告げ
た。

 *** ***

 話を聞き終わって真っ先にハルとルーが思い浮かべた言葉は、「なんでじゃい」の一言だった。
(えーっと、ちょっと脳内整理しようか)
 ――うん。
(まず、マルクトはうちと和平を結びたがってる。これは分かるな。現皇帝は穏健派だから)
 ――うん。ナタリアも穏健派だから、これはいい話だよな。
(おう。俺としても賛同したいところだ。でも、そこで何でダアトを介入させる? 何で導師イオンに和
平の仲介をさせる?)
 確かにキムラスカは預言を重視してきた国だ。ダアトとも友好的な関係を築いている。逆にマルク
トはキムラスカ・ダアト両国と上手く行っていない。
 キムラスカといがみ合う理由は至極簡単。マルクトは元々キムラスカが治める一地方だったと云う
のに、独立したからだ。しかも多くの領地をぶんどって。
 近年になってようやくキムラスカに対し、「親」相手だと下手に出るようになったが、独立当初のマル
クトの破天荒ぶりと云ったら素晴らしい物だったと歴史書にある。親を親とも思わない。天下は俺の
物! 的な。

 それでもってマルクトは、独立する際にこう宣言しているのである。
 それがダアトと仲の悪い理由――即ち、「預言脱却」宣言だ。
 初代皇帝が「俺の歩く道は俺が作る!」と云う豪胆なタイプだったためか、自由奔放で縛られる事
を嫌う者が多いマルクト皇族。
 預言など必要とせず、明日の事は明日考える的な楽観的な考えを持つ人々が集まったのが、独立
戦争のそもそもの始まりだと云われるくらいだから、まぁ当然と云えば当然な宣言なのだが。
 二国ともほぼ敵に回しながら、それでもマルクトが生き残ってこれたのは、肥沃な大地の大半を奪っ
て行った事と、その時々の皇帝らの手腕によるものか。
 まぁ、とにかく、そんな孤立ッ子マルクト帝国が、「そろそろ仲良くしましょうよ」と云い出したのは、分
からないでもない。
 だが、そこで何故ダアトを介入させる? 先のホド戦争からこっち、さらに悪辣な関係になったと云っ
ても過言ではないと云うのに。
(和平交渉すんのに、導師イオン呼ぶとか意味わからないんだが。俺の頭が悪いのか?)
 ――いや、お前頭悪くないじゃん。悪知恵とかなるとナタリア以上に頭回るし。
(だよな。俺頭いーよな。じゃぁ目の前のコレがどうかしてんのか)
 うむ、と一人納得する。それから念のため、聞いておいた。
「カーティス大佐。導師イオンに仲介を頼んだのは、ピオニー皇帝陛下のご意思か?」
「いえ、私の独断です」
 その言葉に、ゼノビス、フィリンだけでなく、アニスの顔色もギョッと変わった。
 ―― 一国の指導者の力を借りるのに独断って!
(ははははは。マルクトの大佐殿は冗談がお上手だなー)
 ――おい、現実逃避すんな!
 ルーの必死な声に、おおいかんいかんと頭を左右に振る。あんまりにも現実離れした言葉を聞いて、
つい思考があらぬ方向へ逃走してしまった。
「……念の為に聞くが、貴様の独断で導師イオンにご助力願った事、皇帝陛下はご存じだな……?」
「さぁ、報告してませんからねぇ」
 云われた瞬間、ハルは頭を両手で押さえてのけ反った。驚いてこちらを凝視する、ティアの愛らし
い顔が見える。
 さぁ、報告してませんからねぇ、と云ったか、この男。
(どこまで無能……?!)
 一国の主、しかもキムラスカと友好関係にあるダアトの最高指導者を連れ出しておいて、その件に
ついて自分の主に報告してないとか。軍人としてとか以前に、人としてどうなのか!
 自分の家のお隣さんをちょっと連れ出すとかじゃないんだぞ。一国の主だぞ、一国の主! 助力を
願い連れ出すならば、それ相応の手続きを踏む必要がある訳で。自国の主に指示を仰ぎ、尚且つ達
成した後は報告する義務があるだろうに。
 通りでダアトの反応が曖昧だと思った。向こうも公務にすべきか私事にすべきか、相当悩んだので
はないだろうか。その結果、行方不明と云う誤認情報に繋がったんじゃないのか。
 何故って、大して仲良くもない国――むしろ、絶交状態の国の軍人が、皇帝の言葉も許可も無く自
国の指導者連れてくとか、有り得無さ過ぎる!
 ――じゃぁ、ヴァン師匠が帰国したのも、元をただせば……?
(こいつのせいに決まってんだろーが! おい、おいおい、まさか、まさか導師イオン、この馬鹿に請
われるままにホイホイ付いて来たんじゃないだろーなぁ?!)
 有り得る。凄い高確率で有り得る。魔物の浅知恵にあっさり引っ掛かるような純粋培養だ。この馬
鹿の言葉にだって特に何も考えず、「自分が力になれるなら」と頷いたんじゃなかろうな?!
 アニスが付いていながらそんなそんなと思いながらも、結局ダアトの最高権力者は導師。導師から
”勅命”を受けたのならば、例え大詠師と云えど、頷くしか出来ない。
 ぷるぷる震えながら姿勢を元に戻せば、顔面蒼白の中将、中佐両名と、どこか諦めた目で遠くを見
ているアニス、こちらを見てきょとりとしている導師イオンと、そして、「何をしているんだこいつは」と馬
鹿にしくさった顔をしている無能大佐がいた。
「……カーティス、最後に一つ聞こうか」
「何でしょう。手短にお願いしますよ」
 殴りたくなる衝動を必死に押さえ込みながら、ハルは口を開いた。
「何故、導師イオンを連れ出した? 和平の仲介に、導師イオンを選んだのは何故だ」
 すると今度こそ、馬鹿にしきった顔を、無能はした。
「貴方方キムラスカ人は、大層預言がお好きなようですからね。導師イオンが和平に賛成し、仲介を
して下されば、簡単に事が運ぶでしょう? まぁ我々マルクト人には預言を有難がるなんて事、よく分
かりませんが」
 使える物は使うべきでしょう、と云い、小馬鹿にした笑みを浮かべ、
「あぁ、そう云えば貴方はファブレ公爵家の御子息でしたね? ならば和平に協力して下さい。随分と
自由奔放で粗野なようですが、地位だけはあるようですから。貴方の地位を使えば、国王に謁見する
事も容易いでしょう?」
 そう、云われた瞬間、ハルは大口を開けて怒鳴った。
「――全員動くなッッ!」
 びくりと、イオンの体が大きく震え硬直した。
 腰の剣を抜き払おうとしたゼノビスもフィリンも、ダガーを手に飛びかかろうとしたアニスも、ハルの
背後に向かって譜術をぶつけようとしたジェイドも、――そして、ハルに右腕を掴まれたティアも、全
員が、硬直した。
 それを見届けてから、ハルは再度口を開いた。
「ティア。良い子だから、やめろ」
「……いや、です……!」
 掴んだ右腕が、ぶるぶると震えている。震えた右手は、隠し持っていたスローインダガーを掴んで
いる。
「私は……!」
 震えた、愛らしい声が云う。
「私は、常識知らずですし、弱いし、何をやっても駄目で、ハル様に、ご迷惑ばかり、かけていますけ
ど……!」
 ぎしりと、歯軋りをする音。
「この人が、ハル様を侮辱したのは、分かります。この人を、許しちゃいけない事も、分かります、私
にだって、それくらい、分かりますからぁ……!」
 ――ティア……。
 ほとんど、泣くような声だった。いや、実際、泣いているのだろう。
 ハルを侮辱された事が許せなくて、感情の高ぶりが押さえきれなくて、命令を聞けない自分も、目
の前の馬鹿を誅する事も出来ない自分も、情けなくて。
 ふぅと、ため息を一つ。
「……ゼノビス中将、フィリン中佐」
「……は、はっ!」「はっ!」
「話は分かった。そこの痴れ者を連れて下がれ」
 二人は完璧な敬礼を取ると、カーティスを半ば引きずるようにして退室した。その扱いに文句を云
おうとしただろう馬鹿の頭を、問答無用で殴りつけていた。
 それを見届けてから、導師に向き直る。一応笑みを浮かべておいたが、イオンの顔色は悪いまま
だ。
「導師イオンも、わざわざご足労有難うございました。どうぞ、お部屋でお休み下さい」
「え、えっと、あの……」
 おろおろと視線を彷徨わせる導師の耳元で、アニスが何事か囁く。するとしょんぼりと両肩を落と
し、「お邪魔しました……」の一言で退室した。その際アニスが、キムラスカ式敬礼を持って、ハルと
ティアに頭を下げた。
 二人きりになった室内に、ティアのしゃくり上げる声だけが響く。
「ティア」
「……っ、はい……っ」
「お前は本来、俺の部下じゃない。ただの家事手伝いのお嬢さんで、俺との関係は加害者と被害者
と云うだけだ」
 掴んだままの右腕に、最早力はこもっていない。攻撃対象がいないのだから、当たり前だけれど。
 でも、ハルはその手を、放さなかった。
「それでもお前は、俺の為に怒るのか。他人を、傷付けるのか」
 ――おい、そんな云い方ないだろ……っ。
 詰問とも取れる硬質な声に、ルーから非難の声が上がる。それを黙殺して、ハルはティアからの返
答を待った。
 ずずっと、鼻をすする音がした。
「私……私、分かりません」
「分からない?」
「私、もう、軍属じゃないし、ハル様に、お仕えしてる訳でも、ないです、……けど……」
 ぐすぐす、子供のように、ティアが泣く。
「ハル様が、馬鹿にされるのも、傷付けられるのも、厭、です……っ、わ、私の、せいで、は、ハル様、
が、そんな目に、遭うなら、私、頑張ります、から、頑張って、強くなり、ますからっ……」
「……」
「は、ハル、様、ハル様っ、ハル様ぁ……! う、ひっく、うぇ、うぇえ、ええぇ……」
 本格的に、泣き出してしまった。
 泣きながら、ごめんなさいと謝る。勝手な事してごめんなさい、命令聞けなくてごめんなさい、こんな
所に連れてきてごめんなさい、怒らないで下さい、嫌わないで下さいと云って、泣く。
 嗚呼、なんだか、家に置いて来た最愛の犬を思い出してしまった。
 ――……おい。
(……分かってるっつーの)
 促されるように云われ、ハルは掴んだままの腕をぐいと引き寄せた。バランスを崩し倒れたティアの
顔が、ハルの肩にぶつかる。そのまま頭を抱え込み、肩に目が当たるようにしてやった。ついでに、
よしよしと頭を撫でてやる。
「……お前が良い子なのは知ってるよ。怒ってもないし、嫌ったりもしないから」
 ぎゅぅと、遠慮がちな手が、しがみ付いて来た。
 亜麻色の髪がさらりと、ハルの体にそって流れた。
「ティアのせいじゃないんだから。……お前は、泣かなくていいよ」
「っふ、う、ううっ……ううううう……!」
 それでも、くぐもった状態で上がる嘆きの声に、ハルは小さくため息をついて。
 自分の顔のすぐ側にある頭に頬を寄せ、何度も何度も、頭を撫でてやった。
 ――……珍しく優しいじゃん。
(何だよ、冷たくした方が良かったか?)
 ――そーじゃねぇけど。むしろ、冷たくしたらオレが怒る。
(はは。いや何……、俺も修業が足りねぇなぁ、と思ってよ)
 自分の気まぐれのせいで、女の子を泣かせてしまうなんて。
(まぁ、とりあえず……)
 優しく優しく、ティアの頭を撫でながら。
 ハルは、
(……あの馬鹿には、責任の一端を取って貰おうじゃねぇか)
 怒気にまみれた邪悪な笑みを、浮かべた。



 了


 ティア、己の罪&ハルへの忠誠心自覚編。
 …………あれ? いつの間にかティアの話に……?
 いやまぁ、原因は分かってるんですけど。ジェイドの出番をごそっと削ったせいなんですけど。
 何かジェイドに申し訳なくなったので、一話ジェイド枠とります。
 あ、ジェイド此処で退場、とかなりませんから! ちゃんと最後まで出ますから! だって私ジェ
イドの事好きだし!(どの口がそれを云う)
 ただ、もしかしたら……フリングスさんの出番が、増えるかも?(おおおおおおい!)
 あ、後、どうしてイオンを仲介役にした事を、ハル達が「意味分からん」と云っていたのかも補完
しますので。あー、ゼノビスかフィリンの出番増えそう……。(いいのか此れ以上オリキャラ出張ら
せて……)


 執筆 2009/11/20