女が歌っている声が聞こえた。姿は見えない。歌声だけが聞こえた。
ルークが聞いた事もない、不思議なテンポの歌だった。なんとなくではあったが、子守唄を連想さ
せる優しい曲調だった。
柔らかな歌声。
ここの所、冷たい低音か激しい怒りの声しか聞いていなかったから新鮮だった。
冷たい声も怒りの声も、ルークに向けられた物ではなかった。けれど、聞いているだけで辛くなる
言葉の羅列ばかりで、それが聞こえてくる度にルークは、耳を押さえしゃがみ込んでいた。
本当に、酷い事を云う女だった。ガイは何も悪くない――とは云えないけど、それでも、あそこま
で酷い仕打ちを受けていいとは思えなかった。
ガイの震えた声が聞こえてくる度に、ルークはひたすら謝った。自分が女を押さえられないから、
ガイが酷い目に遭うのだと思い、謝った。勿論、ガイにルークの声は届かない。それでも、謝らずに
はいられなかった。
そうやって、ここしばらくの間、ガイを虐めてばかりいる女が、歌っている。
(誰に歌ってるんだろ……)
ぼんやり、真っ黒い世界を眺めながら、ルークは思う。
自分自身にだろうか。ルークにだろうか。それとも、虐めていたガイのため?
分からないけれど、誰かを想っての歌なのは知れた。
声が、優しかったから。
けれど、優しい中に抑えきれない嘆きと悲しみが滲んでいて、ルークは胸が痛くなった。
酷い女なのに。残酷な女なのに。
どうして、そんな声でそんな歌を唄うのか。
ルークには分からなかった。
「……あれ?」
ふいに、歌声が途切れた。まだ続きがありそうな歌だったのに。
不思議に思っていると、突然目の前が明るくなった。驚いたが、すぐに気付く。
あぁ、いつものように女が、”視覚”をルークに繋いだのだ。またガイが傷付けられる所を見せら
れるのかと怯えていたが、様子が違った。
視界に広がるのは、窓から見える月(ルナ)だけ。女がベッドに腰掛け、月を見上げているのだと
知れる。
ルークは戸惑う。もしかして女は、ルークと繋がった事に気づいていないのではないだろうか。女
の意思で繋げたなら、何かしら言葉がよこされるはずなのに、それが無いのだから。
「……レイド」
女が、ルークの声で知らない名前を呼んだ。その名前を最初に、次々と聞き慣れない名前を呟く。
誰の名前だろう。女が前に云っていた、家族の名前だろうか。
覚えきれないくらい、沢山の名前。その一つ一つを、大事な宝物のように愛おしげに呼ぶ女に、ルー
クは混乱した。
また、声が途切れる。呼び切ったのだろうか。
そう思った途端、視界がまた黒くなった。視覚を切断されたのかと思ったが、どうも違うらしい。
女が目を閉じるか、俯いたかしたようだ。
ごそりと、布がずれる音。それから、鼻をすする音。
泣いているのだと気付いて動揺しかけ、
「――……ソル……っ」
最後の最後に呼ばれた名前を聞いて、ルークも涙が出てきてしまった。女の悲しい想いに当てられ
たのだろうか。
涙は次から次に溢れてきて、長い間止まらなかった。
− 続・動物愛護と人間虐待。
円陣を組み、ハル達は座り込んでいた。
ハルから右回りに、ティア、導師イオンと抱っこされた小動物、アニス、プリンセス、クイーンの順だ。
もの凄く不思議な顔ぶれだった。常識で考えれば、円陣を組むなど考えられない面子である。
ちなみに、ハルに思い切りぶん殴られた軍人は円陣からはぶられ、壁際で正座させられている。
奴にこの”話し合い”へ参加する資格はないからだ。
ハルに殴られた頬を痛々しく腫れ上がらせたまま、無表情で正座している姿は滑稽と云うか。いっ
そ哀れと云ってやってもいいかも知れないが、奴に掛けて良い同情はない。
奴は己の失態を無かった事にするために、森一つ焼き払うと云った人間なのだから。
「なるほど。それはチーグル族が悪いですね」
何故導師イオンがこんな所に来ているのか、その理由を聞いたハルは、真顔で頷きながら云った。
アニスもハルの言葉に、うんうんと頷いている。ティアもまた、遠慮がちに同意していた。
しかし導師イオンは、何故か傷付いた顔になった。
「そんな……」
「先に手を出したのはチーグル族なのでしょう? 子供の失敗とは云え、ライガ族の命を脅かした事
に間違いはないのですから。むしろ、クイーンが提示した条件は優しすぎるくらいです」
今度はクイーンとプリンセスがうんうんと頷く。同時に頷いている母娘の姿は、毛皮にもふりと顔を
埋めたくなるくらい愛らしかった。と云うかしたい。場の空気がシリアス一色でなかったら今すぐにで
もしたい。
頷いた後彼女らは、導師イオンの胸に抱かれた小動物へ視線を向けた。小動物は「みゅぅぅ……」
と鳴いて、只でさえ小さい体をさらに縮こまらせている。
この小動物こそ、今回の騒動の中心動物――チーグル族の幼獣だ。
水色の体毛に包まれた体は、両手の平に乗るくらいに小さい。耳と目が大きく、そのアンバランス
さ加減が小動物特有の愛らしさに繋がっていた。
彼は「ミュウ」と名乗った。そう名乗ったのだ。腹に付けた音律譜(キャパティシィ・コア)のお陰で人
語を操れるのである。
流石聖獣と呼ばれる魔物、凄い事をするとハルは思った。
「そもそもの始まりは、ミュウが悪戯に炎を吐いてライガ族の住まう森を燃やしてしまった事でしょう?
ならばその責任を取るのは当然の事です。本来ならば根絶やしにされていても仕方がないと云うの
に、住処と食糧の提供で許すと云われたのですから、破格の好条件ですよ」
「ですが、ライガは出来なければチーグル族を全て食べると云ったんですよ? 正しい食物連鎖の姿
ではありません」
「正しい食物連鎖の姿です。自然界の掟に従った、真っ当な行為ですよ。弱い者は駆逐されるのが魔
物社会における絶対唯一の法なのですから。貴方が行った事は、加害者を被害者に仕立て上げよう
とした悪徳弁護士と変わりありません」
「そんな……僕はただ、チーグルを守りたくて……」
「チーグル族がユリアに定められた教団の聖獣だと云う事は存じていますよ。貴方が庇いたくなる気
持ちも分かります。だからと云って、貴方の行為は褒められた物ではありません。事件の背景を見ず
ライガを一方的に悪役に仕立て、無条件の立ち退きを要求、さらに受け入れられなければ殺しにか
かるなど、私から見れば貴方の方が悪人だ」
云えば導師イオンは肩を落として落ち込んでしまった。だが、ハルは言葉を緩める気はない。あの
軍人にも腹が立つが、それと同じくらい”導師”の肩書きを持つこの少年が許せなかった。
「そもそも、チーグルの森はマルクトの領地です。導師である貴方がしゃしゃり出ていい問題ではあり
ません。越権行為ですよ」
越権行為と云えば、今のハル達のも当て嵌まる。ハルは身分を隠しているとは云えキムラスカ貴族、
アニスはダアトの≪導師守護役≫でティアに至っては家事手伝いのお嬢さんなのだ。
だが、今この場をマルクト軍籍を持つ大佐に任せれば最悪の事態を招くなど、駄目ッ娘ティアでも
分かる事だ。だからしゃしゃり出ているのである。
「ですが、チーグルは!」
「教団の聖獣だろうが、”此処”はマルクトです。マルクトに生息する魔物の管轄はマルクトに任せるの
が世の道理。……いくら教団員がキムラスカである程度自由が許されているとは云え、マルクトでは通
じませんよ。貴方がやるべき事は、他にあるのではありませんか?」
他に……と呟いて、導師イオンは考え込んでしまった。何故そこで考え込まれるのか、ハルには理解
出来ない。
「……食糧庫でチーグルの体毛を発見した貴方が、食糧盗難事件とチーグルを結びつけたのは分かり
ます。草食性であるチーグルが肉類などを盗んだ事に疑問を持つのも、当然でしょう。ならば尚更、それ
をマルクトに伝えて終わらせるべきだったのです。集団の頂点自ら動くなど、あってはならない事。頭で
ある貴方には手足が居るのです。使わなくてどうするのですか。……それともその頭はただのお飾りで
すか?」
――ちょ、云いすぎだろ! 止めてやれよ!
今まで空気を読み、黙っていたルーが声を上げた。性根の優しい彼は、一方的に責め立てられ顔色
をどんどんと悪くする導師を放っておけなかったらしい。
自分も厳しい事と云うか、もはや厭味の域に達している自覚はあったが、ハルは黙殺した。
「現に、貴方自ら動いた結果はどうですか。あの無能軍人はクイーンを殺そうとし、無自覚に自国の民
を危険にさらした。さらに貴方は、クイーンを殺そうとしたあれを止めませんでしたね? むしろ、自分の
言葉が受け入れられないなら仕方ないと云う態度だったようにお見受けします。どう云うおつもりだった
のかと、私はお聞きしたいですね」
「……すみません。僕が、考えなしでした……」
白くなった顔で、導師が頭を下げ謝罪する。答えにはなっていないが、”導師に”謝られてしまっては、
責める事は出来ない。本当に反省しているのかと難癖をつける事は出来るが、ハルの趣味では無かっ
た。
「……と、本人も反省してるようだし。お許しいただけないかな、クイーン?」
左隣に座るクイーンにお伺いを立てれば、彼女は不服そうな声を上げた。まぁ当然だろう。末端とは
云え一族を何頭も殺されているし、自分自身も娘も殺されかけたのである。
だが、とりあえず納得して貰わなければ話が進まない。ハル、ティア、プリンセスの二人と一頭がかり
で説得をし、なんとか許しを頂けた。
本来ならプリンセスもクイーン同様に怒って良い立場なのだが、彼女はハルの全面的味方になって
くれている。命を救われた事に、恩を感じてくれているのだろう。
律儀な子だと、ハルは思った。元はと云えば、”人間側”が悪いと云うのに。
「で、問題は安心して子育てできる場所と食糧か……」
そう、問題は”子育て”なのである。
故郷の森が燃やされる前から妊娠していたクイーンは、このチーグルの森で卵を産んでしまったの
だ。この卵があるから、彼女らは新しい住処を求めて旅をする事も出来ない。落ち着ける環境が必要
なのである。
――チーグルの森は駄目だもんなぁ。
(そうなんだよ。エンゲーブから近すぎるから討伐対象になっちまうし、ライガ族は雑食だけど幼少期は
タンパク質の多い肉類を好むんだ。この森、緑は豊富だけど、食える生き物はチーグルとアックスビー
クくらいだし……)
どう考えても、子育てには足りない。だからこそクイーンは、食糧の提出も条件に加えたのだろうが。
うーんと揃いも揃って唸る中、アニスが「あ」と声を上げた。
「どうかしましたか、アニス?」
「思い出しました! チーグルの森の背後って、キノコロードじゃありませんか? そこなら……」
云われ、ハルは脳内で地図を展開させる。
確かにチーグルの森の北方にはキノコロードと呼ばれる森がある。人間が行くには一苦労も二苦労
もしなければならない場所だ。そこならば人間もいないし、食糧もあろうだろうが。
「……いや、駄目だ。チーグルとキノコロードの間には北ルグニカ山脈がある。ライガ族ならば行けな
い事も無いだろうが、卵があるなら話は別だ」
「……ですよねぇ〜」
「俺たちが運んでやれればいいんだろうが、それも無理だろうしなぁ……」
何せ山脈を越えなければならないのである。割れやすい卵を無傷で運べる保障など出来ない。卵に
傷一つ付けた時点で、ライガ族の怒りを買う事は必至だ。
「やはり後腐れないように森を」
「黙れ生ゴミ野郎。石喰わせて川に沈めるぞ」
今まで黙っていた――正確には、黙らせておいた――軍人がまたアレな事を云い出したので、ハル
は思い切りドスの効いた声で云ってやった。不満そうな顔をして軍人は黙るが、ハルはため息を禁じ
えない。
「すみません……。彼にも悪気は……」
「あれで悪気がなかったら逆に困りますが、導師」
何だこのズレにズレた二人組は、と思いながら、ハルは導師イオンの言葉に鋭く切り返す。
(案外気ぃ合ってんじゃねぇの、ダアトとマルクトって)
――えー。でも、アニスの奴すっげぇ顔してるぜ?
(あ、本当だ)
導師イオンには見えないように、アニスは盛大に顔を歪めていた。それはもう、不敬罪確実の歪め
ようだ。「何云ってんだ馬鹿野郎」と云う感情を全く隠していない。
だが、ハルに見られている事に気付いたのか、すぐさま元の愛らしい顔に戻した。その変わりようと
云ったら、人格交代でも起きたかと錯覚しそうなくらいだった。
中々どうして、本性が面白そうだとハルは人知れず笑う。
「どうしましょうハル様……。ライガ族に失礼な事は出来ませんし、かと云ってチーグルを捧げる訳に
も……」
「だなぁ……。うーん、どうするべきか……」
「私達で面倒見るわけにもいきませんよね……」
「!」
ふぅ、と困ったように細くため息を着くティアの言葉に、ハルは光明を見出した。
パチンと大きく、指を鳴らす。
「そうか! その手があったか!」
「え?!」「何々?」
「何の手ですか?」
「がぅ?」「みゅう?」
全員の目がハルに集まる。ハルはまぁ待てと手で制してから、クイーンを振り仰いだ。
「クイーン。生まれてくる子は兵士か?」
「ガウ、ガウウ」
「ミュウ! 通訳!」
「は、はいですの! 「娘の守護者が生まれてくる」って云ってますの!」
こちらの言葉は何故か通じるのだが――今さらならが、本当に何故だろう。普通、人間の言葉は魔
物に通じないのだが――、クイーンらの言葉は正確には分からない。その為に人語を解するミュウが
居た訳だ。
「プリンスって事は、生まれてくるのは一頭だけだな?」
ハルの言葉に、一度だけクイーンは頷いた。この程度の意思疎通なら通訳無しでも出来るので便利
だった。
「ならこうしよう。兵士諸君には申し訳ないが、彼らには先にキノコロードへ向かって貰う。クイーンは俺
と一緒に我が家へ来てくれ。山道でないなら卵を傷付けずに運べる方法もあるし。プリンスが大きくな
るまで、俺が貴女ごとまとめて面倒みるから」
「ええええええええええええ?!」
「そんな……!」
「みゅ?!」
「ほ、本気ですかハル様?!」
「正気ですか貴方」
「てめぇは黙ってろクソたわけ。声帯抉られてぇのか」
口を挟んで来た軍人にだけ厳しい目と言葉を向けてから、ハルはどうだろうとクイーンを仰いだ。
クイーンは低く唸っていたが、怒っている訳ではないようだ。悩むような顔をしている。
「これでもそこそこ金あるから、ポーク、チキン、ビーフ選び放題だぜ? 道中はまぁ、食べれる魔物と
か野盗で我慢して貰う事になるけど」
「人間を食べさせる気ですかハル様?!」
「野盗ならいいだろー? 連中なら殺した後放置してもいいし。まぁ、その放置された死体が魔物に食
べられるのも珍しい事でなし」
けひひひひひと怪しげな笑い声を上げるハルに、ティアとイオンの顔が揃って青くなった。逆にア
ニスは「あ、そっかぁ、治安も守れて一石二鳥かぁ……」などとシビアな事を云っていたが。
――オ、オレ達が殺すのか……?
(へ? まぁそうなるかも知れないが)
――……そ、そうか……。殺すのか……。そっか……。
怯えたような声を出すルーに、ハルは内心小首を傾げた。何故怯えられるのか分からない。
だがそこで、ふと気付いた。ハルは殺人など今さら過ぎて屁でも無いが――そう育ってしまったのだ
からどうしようもない。今さらだ――、ルーは人どころか魔物だって殺した事が無いのだ。いつも鍛錬
は譜業人形相手で、生き物と対峙した事など一度もない。
タタル渓谷は弱い魔物ばかりだからこちらが殺気を放てば寄ってこなかったし、エンゲーブまでは辻
馬車に乗っていた。チーグルの森には走って来たので魔物は追いついて来なかった。また森の中では
ハルがホーリーボトルを使い、効果が切れた後はプリンセスと一緒に走っていた為、魔物に襲われる
事はなかった。
他者を傷つけた事の無い子供に、酷な事を云ってしまった。
慣れろ、とは云えない。耐えろ、とも云わない。ファブレは武門の家系とは云え、ルーはまだ”幼すぎる”。
こんな年から殺しなど覚えてしまっては、教育上宜しくない。
宜しくない教育の末、自分のような人間になってしまっては公爵夫妻に面目が立たない。
(……まぁ、他にも方法はあるさ。もしもの時の手段だと思ってればいい)
――そ、そっか! あ、べ、別に、怖い訳じゃねぇからな!
(はいはい。分かってますよっと)
別に意地を張らんでも、とは思うが、その元気があるならまぁいいかと思った。
*** ***
不機嫌な気分を包み隠さず、ハルは歩いていた。両腕を全て使ってライガの卵を抱え、右肩に仔チー
グル――ミュウを乗せた状態で。
先頭を歩く男はどうだか知らないが、隣を歩く導師イオンとティアは居心地が悪いのだろう。そわそわ
とこちらの顔色を窺っていた。
――……おい。無闇に怯えさせるなよ。可哀想じゃん。
(うるっせぇ。仕方ねぇだろ。……くぁー、ムカツク! 聖獣なんて碌なもんじゃねぇわ!)
思い出して、ギリギリギリギリと歯軋りをしてしまった。途端、両隣の小心者二名がビクリと大きく肩を
跳ね上げさせた。導師イオンはともかく、ティアにフォローの言葉くらいかけてやりたいとフェミニスト魂
は云うが、本体にその余裕はない。
思い出すのは数分前の事。
ライガ・クイーンと話を着け、余計な口出ししてきた脳無し軍人を再度拳で黙らせ、洞窟を出た後。
大人しく通訳に徹していたミュウが「一族にこの事を報告しなければいけない」と云い出した。
元々、導師イオンがこのように無茶な行いをしたのは、チーグル族から依頼されたのが原因だった。
ならば確かに、報告は義務だとハル達は了承した。
原因――とは云ったが、勿論、チーグル族だけが悪い訳ではない。「ライガ族と交渉して欲しい」など
と云う危険極まりない依頼を、何も考えず引き受けた導師も悪い。大方、相手が教団の聖獣だからと云
う甘っちょろい考えで引き受けただけなのだろうが。
ハルはその話を聞いた時、一つの懸念を抱いていた。
そしてソレは、チーグル族の長と対面した事で、真実だったと思い知らされたのだ。
「あんたが長か」
チーグル族の巣は魔物を寄せ付けない木の根元にあるため、クイーンらには外で待ってもらい、ハル
達人間とミュウだけで訪れた。
魔物を寄せ付けない木――ならば、「聖獣」の肩書きがあろうと”本質は魔物”であるチーグルも本来
は近づけない。だが、彼らはユリアの加護の”特権”により、魔物避けが効かない魔物であるため、こう
して外敵に襲われない快適な住処を手に入れていた。
長と対面した時ハルが思い出したのは、『御前会議』の際にチクリチクリと厭味を云ってくる老獪な貴
族の女の顔だった。勿論、そのババァとチーグルの長の姿形は似ても似つかない。
云うなれば、雰囲気がそっくりだったのだ。
胸糞悪くなるくらいに。
「そうだ。そなた……初めて見る顔だが、何者だ?」
ミュウからリングを返却された長は、大仰に云った。
ひくりと、ハルの顔が引き攣る。
「”獣風情”が。偉そうな口を叩くじゃねぇか」
「は、ハル様?」
ライガ族相手の時とは打って変わった傲慢な態度に、ティアがぱちくりと目を瞬かせた。背後でおやお
やと、馬鹿にした声が上がる。
「外見の愛らしい生き物は好きませんか? 素敵な審美眼をお持ちですね」
「厭味云うしか能のねぇ役立たずは黙ってろ。鬱陶しい」
振り向かずに云えば、男は黙り込んだ。
別に厳しい事を云われて萎縮したのではない。そんな可愛らしい性格はしていない。自分の”攻撃”が
効かなかったから一時身を引いただけだ。
「貴様如きに名乗ってやれる名は持ち合わせちゃいない。が、俺がライガ族と交渉し、お前らへの”正当
な要求”を撤回させてやった人間だ」
「……そうか。感謝する」
そう云いながら長は頭一つ下げない。周りのチーグル達は歓びの声を甲高く上げるだけだ。
「だが外に、ライガ・クイーンとその娘が居るようだが……?」
「交渉の末、俺と一緒に旅をする事になってね。お前らの希望通り、この森から出てくんだ。……満足だ
ろ?」
口の端を軽く吊り上げて云ってやれば、長は黙った。そう、”不満そうに”。
「……思い通りにならず、不愉快か?」
「え……?」
隣に黙って立っていた導師が、不思議そうな声を上げた。逆に長は黙り込んでいる。
「おかしいとは思ったよ。付けた通訳は事件を引き起こした仔共、巣に向かわせたのは軍人と子供が一
人ずつ。……お前ら、”本質は魔物”だ。ライガ族がどう云う種族なのか、厭と云うほど理解してたはず
だよなぁ……?」
「……」
「そもそもライガ族の”習性”のせいで、この」
ちらと、足元で体を縮ませているミュウを見る。
「仔チーグルだけじゃなく、チーグル族全体が”復讐”の対象になっちまったんだ。なるほどなるほど。獣
の浅知恵とは云え、よく考えたじゃねぇか」
「ハル殿……? いったい、何を……?」
導師イオンが不安げな表情でハルを見上げる。周りのチーグル達もさざめきながらハルを見上げて
いた。
「導師イオン。貴方は、チーグル族に利用されたんですよ」
「え……」
「チーグル族はライガ族の命を”脅かした”為に、住処と食糧の提供を求められた。それだけで破格の
条件だったのに、こいつらは聖獣として崇められて来たから我慢出来なかったんですよ。「自分達は聖
獣なのに、何故”魔物”の云い成りにならねばならない」「格下相手に命を脅かされるなど御免だ」……
とね」
「……?!」
慌てた様子で導師は長を見た。
長の顔色は分からない。目も長い体毛で隠れてしまっているから、感情も読めない。
「だから食糧を盗んだ。自分たちで食糧を集めると云う努力を放棄した。そして何とも好都合な事に、
”人間である貴方が来た”」
「人間……? 導師、ではなくてですか?」
ふいにティアが口を挟んだ。中々良い所に気付くと、ハルはニヤリと笑って頭を撫でてやった。
「そうだ。利用できる人間なら誰でも良かった。聖獣を庇護しようとする人間ならば尚更好都合」
「どう、云う事、ですか……?」
「”聖獣の”言葉なら人間は耳を貸すだろう? だからこいつらは考えた。身を守るついでに、「屈辱」
を受けた仕返しもしたかったんだ」
半眼にした目を向け、長を睨み付ける。
「ライガ族は誇り高い種族だ。”人間風情”が交渉した所で、怒りを買うのは必須。”最初から期待な
んてされてなかった”んですよ導師――」
「え? え?」
導師は困惑しきった顔だった。ただ、厭な雰囲気は察しているらしい。冷や汗を流し、眉毛を八の
字にしてハルを見ている。
「導師である貴方がライガ・クイーンに殺されたなら、確実に人間達は”ライガ討伐”に動く。万が一ク
イーンが殺される事になってもそれはそれで好都合。復讐の対象は間違いなく”チーグル族から人間
へ移行する”んだからな」
イオンとティアが、慌てて長を見た。長は沈黙を保っている。周囲のチーグル達は視線を地面に落
としていた。
たった一匹。
ミュウだけが、世界の全てに裏切られたような顔をしていた。
「人間を手に掛けたライガ族は、全て討伐されるからなぁ。お前らの屈辱はライガ族の死を持ってし
て返上されるって訳だ。――俺の言葉に、間違いはあるか」
「……無いな。お前の云った通りだ」
「そんな……!」
愕然とした表情でイオンが云う。守ろうと思っていた対象に裏切られたのだ、そんな顔もしたくなる
だろう。
だが、同情は出来ない。”獣の浅知恵”にまんまとハマったのは、彼なのだから。
「こいつらは自分たちの身の安全が保障されればそれで良かったんですよ。人間がどうなろうと関係
なかった。なんたって、”本質は魔物”ですからね」
「……っ」
「……てめぇらを聖獣として庇護し、此処まで地位を向上させたのは人間だってのになぁ。恩を仇で
返すたぁこの事だ」
パチパチと、周囲の音素が音を立てる。ハルの怒気に感応し、音素と空気が摩擦する。
――お、おい! ちょ、落ち着けって!
(落ち着いてる。あぁ、落ち着いてるさ。キレてたらこの場でチーグル全部殺してる所だ。――ミュウ
を除いてな)
――お、おま!
「……選択肢をくれてやるよ、”弱小生物”」
「……」
他のチーグルが壁際に集まりガタガタと震えている中、一匹だけその場から動かずハルと対峙し
ているその根性だけは認めてやってもいいだろう。
何の免罪にもなりはしないが。
「俺はお前らの望み通り、ライガ族をこの森から連れ出した。ならば、その見返りを貰うのは当然の
事だな?」
「……何が望みだ」
「事の張本人――ミュウとお前らの至宝、ソーサラーリングを寄こしな」
その言葉に、大きくチーグル達がざわめいた。中には怒りを露わにいている者もいる。だが、その
雑音も一睨みで黙らせた。
ソーサラーリング――先程まではミュウが、そして今は長が腹に身につけている金色の輪っか。ユ
リア・ジュエがチーグル族に与えた”音律譜(キャパシティコア)”。
それを身につければあらゆる生き物との対話を可能にし、魔力も増幅されると云う”古代遺産(ロ
スト・テクノロジー)”の一つ。
これほど利用価値の高い物を、”獣風情”にくれてやるのは惜しかった。
「……断れば、何とする」
「今の話をクイーンにするだけだな」
そんな事をすればどうなるか、想像に難くない。
間違いなくクイーンの怒りを買い、一晩も待たず”聖地”からチーグル族は消え失せるだろう。
「で、どうするよ? ”長様”?」
にっこり笑顔で云ってやった要求の答えは、表記するまでもない。
今肩に乗っているソーサラーリング付きのミュウが、言葉にせず全てを語っていた。
(あーそうだよそうだよ聖獣とか神獣とか呼ばれる奴に限って実際は碌でもなかったりすんだよ変
に知恵付けて小賢しくなってて人間見下したりしててよぉ悪獣だの魔獣だのの方がよっぽど純真だっ
たり可愛かったりすんだよ分かってんだよそんな事厭になるくらい知ってるっつーのそんな手合いい
くつも相手にしてきたってーんだよ畜生なのに厭な気分になるんだよあああああ畜生やっぱりあい
つら焼き殺せばよかったああああああああああ)
――なげーよ。落ちつけよ。てか怖ぇよ。
的確に突っ込まれ、ハルは一時無心になった。だがそれも長くは持たない。またギリギリギリと歯
軋りを始めてしまった。
人間より獣の方が好きと云う性質のせいなのか、小賢しい獣への嫌悪感は凄まじかった。人間の
ように他者を利用して保身を図るような獣には、いっそ憎悪まで抱いてしまう。
獣とは、愛らしく、気高く、強くあるべきなのだ。
そう。ライガ族の彼女らのように。
自分を護衛すると胸を張っていた、あの三人のように。
「……すいません、ハル殿」
「はい?」
突然、導師イオンが謝った。後ろを歩いていたアニスが「イオン様?」と不思議そうに呟く。
「僕のせいで、貴方に不快な思いをさせてしまって……」
「はぁ……」
どうやら、ハルの歯軋りの原因が先程のやり取りのせいだと気付いたらしい。
確かにハルがチーグルの長とあのように不愉快な会話をする羽目になったのは、導師イオンがほ
いほいと”獣の浅知恵”に乗ってしまったせいだが。だからと云って導師に謝罪されても、ハルにどう
しろと云うのか。
(歯軋りが耳障りだから止めろって事か?)
――……何でそう、うがった見方すんだよ。
(このタイミングじゃそうとしか思えないだろ。感じ悪いなー、導師)
――オレからすりゃお前の方が感じ悪ぃよ! ティアの時はそんな事云わなかったくせに!
(ティアと導師を一緒にするなよ。ティアは駄目ッ娘で萌えだが、俺にショタ萌えの気はない)
――何云ってんの?! オレそんな話してねぇよ?!
ちらと導師イオンを横目で見下ろす。
飾りを付けられたダークグリーンの髪。同じく緑色だが明るく透き通った瞳。雪のように白い肌。
善良そうな顔立ちは今、不安げにハルを見上げている。
(……まぁ顔立ちは好みではあるんだが)
――へばぁ?! ……あ、変な声出た。
(本当に変な声だな。つか、俺が穏やかそうな可愛い系好きなの知ってんだろ)
――し、知ってるけどさぁ。なんつーか……。
(安心しろ。顔が好みなだけで中身は全く持って好きじゃないタイプだ。手を出す気は一切湧か
ないな)
――あぁうん。それ聞いて安心した。っつか導師に手ぇ出すとか正気の沙汰じゃねぇだろ!
(あぁ全くだ。この顔で導師じゃなくてちょいと気が強く好戦的でツンデレだったら何をしてでも手
に入れたい逸材なんだが……)
――その性格じゃ穏やかそうな顔にならねぇよ。
それもそうだと、ハルはもっともな突っ込みに納得した。
もう一度、導師を見る。彼はまだハルを見上げていた。「はぁ」などと云う曖昧な言葉でなく、
確かな言葉を待っている。
それが、酷く不愉快だ。
立場上は当然だろう。彼は”導師”イオン。その存在を粗末に扱う者などいるはずもなく、彼に
言葉をかけられ返答をしない者もいない。
彼はダアトにおける絶対者。その力は当然、他国にも及ぶ。
それなのにハルにはその態度の全てが、顔面が引き攣りそうなほどに不愉快だった。
(……ふん。随分とまぁ変わったじゃないか。あの腹黒そうなクソガキが)
――はぁ? お前、会った事あんの?
(あぁ、お前は引っ込んでたから知らないか。導師イオンとは三年前に面会した事があるんだよ)
――え?! じゃ、じゃぁ、顔知られ……
(面会っつっても父上と陛下を間に挟んでだ。髪をさらしていたなら直ぐ分かるだろうが、この状
態じゃ分からねぇよ)
あの時会った導師イオンは間違いなく今隣に居る彼だ。三年の間で成長はしていたが、ダーク
グリーンの髪も、透き通る緑の瞳も、穏やかな顔立ちも、記憶の中の導師イオンと合致する。
だが、あの時会った導師イオンに感じた、底知れなさや邪悪さを、彼には感じない。隣にいる彼
は全くの無垢だ。腹に何も抱えていない、赤子だ。
此処まで人が変貌する理由はあるにはあるが、それにしても解せない。
まさか――
(……謡将の奴、まさか……)
――? 師匠がどうかしたのか?
きょとりとしたルーの声に、つと正気に戻った。これを話すのは、時期尚早と云うものか。
(……いんや。何でもない。あ、そうだ。大事な事忘れてた)
この話を通しておかないと、後でややこしい事になると導師イオンに声をかける。導師は何を思っ
たのか、至極嬉しそうな顔をして明るく返事をした。
「申し訳ないが、後ほど一筆書いていただけないだろうか?」
「? 何を書けばいいのですか?」
「……聖獣チーグルの飼育と、ソーサラーリング所持の許可証をお願いしたく思います」
云えば導師は、何故そんな事を頼まれるのか分からない顔をしていた。
(……おいおい。流石にそりゃねぇだろ)
――俺もわかんね。何で導師の許可証がいるんだ?
(チーグルはローレライ教団の聖獣だ。愛らしい外見のせいもあって、密猟が盛んだった時期があ
る。そのため、三カ国で決めた国際法の中に、「聖獣チーグル保護法」ってのがあるんだよ)
内容は至極簡単。チーグルを殺すべからず捕るべからず許可なき飼育をするべからず。破った
者にはそれ相応の罰がある。
(チーグルはあくまで教団の聖獣だから、導師一人の許可があれば飼育は可能だ)
――ふーん。ってお前、そいつ飼うの?
(飼うしかねぇだろ。群れから連れ出しちまったんだ。チーグルは弱い生き物だから、一匹じゃ生き
て行けねぇし)
ミュウの身を想っての行動とは云え、ハルの身勝手で連れ出したのは事実だ。群れから引き離し
ておいてはいさようならではあんまりだろう。
「我が侭は承知の上ですが……何とかお願いできませんか、導師?」
「僕で力になれるなら……。貴方には助けていただいた恩がありますから、お安いご用です」
にこりと笑って、導師は云った。その事にまた違和感を覚える。
(……おいおい。ソーサラーリングをそうもあっさり手放すかぁ?)
――……あ、そうか。ソーサラーリングってユリアが作った”古代遺産(ロスト・テクノロジー)だっけ。
(そうだ。教団が神の化身と崇め奉るユリア・ジュエが聖獣チーグルに託した物だぞ。チーグルだけ
ならともかく、ソーサラーリングは渡せません、って云われると思ってたのに)
云われたら云われたでそれなりの策を講じていたのだが、無駄になった。こうもあっさり許可を貰
えるとは。
こんな利用しやすいのが導師でいいのかと思いつつ、ハルの肩に乗ってから黙りこくっているミュ
ウに話かけた。
「……そう云う訳だから、お前は俺の家に連れて帰るぞ」
「みゅ……?」
突然の言葉に、思考が追いつかないらしい。ミュウは大きな丸い目をハルに向けて――その目が
少し虚ろだった事に、良心が痛んだ――、小さく声を上げた。
「……長の思惑を知った以上、あのまま群れで過ごすのは苦痛だろうと勝手に判断して連れて来ち
まった。お前も、思う所があったから抵抗しなかったんだろ?」
「……はいですの。ぼく、もう、あそこにいたくなかったですの……」
ぽたぽたと、涙をこぼす。服が濡れたが、不問にした。
ティアが気遣わしげにミュウの名を呼ぶ。確かに、幼獣が涙を流すなど心が痛む光景だ。
「だから俺の家で暮らせよ。まぁ、魔物のお前にゃ窮屈かも知れんが、飯と寝床には苦労させねぇし、
お前にその気があるなら一人前になった後野に帰してやるから」
「い――いやですの!」
「あ?」
突然大声を出され驚いた顔で見てみれば、ミュウは真摯な顔付きでハルを見上げていた。
「ぼ、ぼく、ハル様に一生お仕えするですの! 一生かけてご恩をお返しするですの! 絶対にお側
から離れませんの!」
「……そうか」
どうやら、こちらが思う以上の恩を売っていたらしい。ミュウは必死にハルの肩にしがみつき、決
して離れまいとしていた。
その必死さが微笑ましくもあり、柔らかな毛に包まれた頬に己の頬をすり付けた。本当は頭を撫で
てやるのが良いのだろうが、両手は今大事な卵を抱えて塞がっている。
頬をすり付けられたミュウは驚いたのか数秒硬直していたが、直ぐに嬉しげな声を上げぐりぐりと
首筋に顔を押し付けてきた。
(のああああああ……可愛いいいいいい……)
――あれ、お前小動物嫌いじゃなかったっけ?
(馬鹿云え! 俺はどんな動物も大好きだ! 気に食わないのは小賢しい浅知恵働かす動物モドキ
だよ! あー、可愛い可愛い。喋り方もモナティそっくりで超可愛い!)
――も、モナティって何だよ! 誰だよ!
知らない名前にルーが食いついてくるが、それをさらっと横に流した。ふと気付けば、ティアがキ
ラキラと輝いた目でハルとミュウを見つめながら、「此処に画像記録譜業(カメラ)があればぁ……」
と悶えていた。
どうやら年頃の少女らしく、愛らしいものを好んでいるようだ。
後でいくらでも抱っこさせてやるのに、と思いながら苦笑しつつ、気を引き締めた。
(……そろそろ来る頃か)
――? 誰が?
ルーの言葉に答えるまでもない。遠くからガチャガチャと鎧の揺れる音と複数の足音が聞こえてく
る。常人の視力ではまだ見えないだろうが、ハルの卓抜した視力は森の入口方面から駆けて来るマ
ルクト軍兵士達の姿が見えていた。
先頭を走っているのは、エンゲーブで会ったフィリン中佐だ。必死な形相の中に確かな怒りを滾ら
せているのを見て、安堵の念を抱いた。
上司はアレだが、部下はマトモなようだ、と。
「おや、あれは……」
こちらの先頭に立つ男がぽつりと呟く。眼鏡をかけている、と云う事は視力が低いのだろう。先頭
に立つ己の部下が怒り狂っている様が見えていないようだ。
兵士達はライガ・クイーンとプリンセスの姿を認め武器を構えようとした。だがハルが唇だけで「止
せ」と云い、首を左右に振れば、困惑しながらも腰に差した剣を抜く事は無かった。
「……イオン様! ご無事でしたか!」
開口一番はそれだった。まずは護衛対象の安否の確認。間違いではない。
導師は迷惑をかけた事を謝罪し――口先の謝罪で済む辺り、羨ましい立場だ――、ハルを示した。
「はい、この方々に助けていただいて……」
「……イオン様を守っていただき、お礼申し上げます。誠に有難う御座いました」
そう云ってフィリン中佐は驚いた事に、キムラスカ式の敬礼――L字に曲げた右手を胸の下にし、
手の平は真上に向け、頭を下げる――を取った。キムラスカでは公式の敬礼として貴族の間でも軍
人の間でも行われるが、マルクトでは王侯貴族相手の敬礼と決まっていた。
――……バレてるって事だよな?
(あー、まぁ。昨日マルクト軍の前で髪の毛さらしてたし、監視もついてたしなぁ)
その際『ルーク』に対して何もしなかったのは、何が目的なのか図っていたのかも知れないし、監
視をしつつ帝都へ指示を仰いでいたのかも知れない。
まかり間違っても、指示を仰いでいたのはこの駄目上司相手ではないだろう。
「……大佐」
「おや、やっと私ですかフィリン中佐。私が見えていないのかと思いましたよ」
(そりゃ出来れば視界から抹消したいだろうなぁ)
――だよなぁ……。
懲りずに厭味を云う男を胡乱な目で見つつ、脳内で二人は頷き合った。
「……何をしておいでだったのかは、ここでは問いません。此れ以上醜態をさらす訳には参りません
から」
「おやおや、聞き捨てなりませんね。何が醜態だと云うのです?」
――え、本気で云ってる?
(おめーの存在そのものが醜態だろーが。マトモなマルクト軍人に同情するわ)
流石に軍人同士の会話を邪魔するのも何かと思い口に出さずにいるが、本当は今すぐにでも殴り
つけてやりたい。
と云うか、ハルに渾身の力で殴られ、散々詰られておいてまだ懲りてないのか。いや、むしろ相手
が自分の部下だからと云う理由で、ハルに勝てない鬱憤をぶつけているのだろうか。
だとしたら相当の甘ったれだ。
「……まぁいいでしょう」
(何でそう偉そうなのか)
「丁度いい所に来てくれました。『タルタロス』も引っ張って来ましたよね、勿論?」
「……えぇ、イオン様方をお迎えに上がりましたので」
ちらりと、フィリンがハルを見る。”方”には当然、ハルとティアも含まれているのだろう。仕方ないか、
と小さくため息を着く。
フィリンの言葉に、男は「宜しい」と偉そうに頷いた。確かに官位は大佐で目の前に居るフィリンより
階級は上なのだろうが、その態度はまるで貴族のようだ。部下に対する心配りや信頼が全く見えない。
こりゃ中佐殿、相当苦労していらっしゃるなぁ、と同情しきった所で、
「では――この二人を連行しなさい。正体不明の第七音素を放出していたのは彼らです」
まるで鬼の首でも取ったかのような声音で、男が云った。この二人と云って示したのは当然のよう
に――ハルとティアである。
「……は?」
――……は?
「……え?」「……はい?」「……へ?」
ハルもルーもティアもフィリンも、アニスまでもが同時に間の抜けた声を上げた。もしこの世界が漫
画だったら背景が白一色になり、子供のらくがきのようなカラスが「あほー」と鳴きながら通り過ぎて
いるだろうと云う雰囲気で。
そんな間抜けな雰囲気の中、導師が悲痛な声を上げた。
「ジェイド! 二人に乱暴な事は――」
「ご安心ください、導師イオン。何も殺そうと云う訳ではありませんから。……二人が暴れなければ」
これは、あれだろうか。マルクト・ダアト間による小芝居なのだろうか。笑ってやるべきか、お上手
と拍手するべきか。シリアスになっているのは導師と男ばかりであるが。
ハルはふーと細くため息を着き、フィリンに目を向けた。フィリンは無言でこっくりと頷き、それから
とても良い笑顔で親指を立て、その指で首を切る真似をした。中々ノリの良い男である。
後ろを見ればアニスが笑顔でシャドーボクシングをしていた。笑顔とは云っても、青筋が立ちま
くりのため、幼い子供が見れば泣き出しそうな感じだったが。
つまり二人揃ってハルに示した訳である。
……「やっちゃって下さい」と。
うむ、と一度頷いて、ハルは男の肩に左手をぽんと軽く乗せた。
何ですかと厭そうに振り返る男に極上の笑みを向けて、
「くたばれダボハゼ野郎!」
洞窟で殴打した場所と同じ場所――すなわち顔を、またもや渾身の力でぶん殴ったのだった。
了
あれ、オチが同じに……。まぁ同じネタも繰り返せば様式美に……!(ならねぇよ)
影の薄い人たち(獣たち)が居りますが、まぁ後々目立ちますので。今回の主役はダアト陣(アニ
ス除く)とジェイドですよ。
ちなみに、”たわけ”ってのは関西方面(だったかな?)の方言。「”田”んぼを”分け”るなん
て簡単な事すら出来ないくらいの馬鹿」って意味だそうな。北の人には通じないって聞いたんですけ
ど、本当ですか? 北お住まいの方。(聞くなよ)
正しくは、
「親が多数の子どもに田んぼを分割して相続した結果、小さくなった田では生活が成り立たなかった」。
良かれと思ってした事が的外れ。
ちょっと考えればわかる事がわからない大馬鹿者と言う意味。
なのだそうです。拍手でお教えいただきましたv ありがとうございます!
それから、北にお住まいの方にも通じるのだそうです! ご報告ありがとうございます!
執筆 2009/09/30
