女が鼻で歌う。珍しく上機嫌のようだった。いつもルークの所へ来る時は不機嫌で、当たり散らす
ように怒鳴ったり厭味を云ったり叩いたりするのに。
ふいに、女はルークを見た。ルークは初めから女を見ていたので、当然、目が合った。ギクリと体
を強張らせるルークを、女は口だけで嘲笑う。
「そんなにビク付くなよ。何にもしねぇから、今日は」
気分いいしと云って、女はケラケラと笑った。
何故だろう。笑う女を前に、ルークは厭な感じがして堪らなかった。
自分は何もされていない。でも、こうして女の機嫌がいいと云う事は、何かあった訳で。それはきっ
と、自分にも関係ある事で。
機嫌が良い理由を、知りたいとは思う。けれど知れば、自分の何か、根本の部分が傷つくような気
がした。もう治せないくらい酷く、痛めつけられるような確信とも云える予感があった。
けれどその半面、知らないままで居たら、取り返しのつかない事になりそうな予感がした。後悔す
るに違いないと云う思いもあった。
だからルークは惑い、口を開く事が出来ない。
(しれば、くるしくなる……)
ガイや師匠の事を知った時のように、自分が何なのか知ってしまった時のように。どうしようもない
悲しさと苦しみを味わうのは、もう厭だった。
けれど、自分はもう、何も知らないまま喚いているだけは許されないのだと云う事を、ルークは理
解していた。
知らなければ。何もかも全て。そうでなければ。
(……こいつに、勝てない)
何も知らないままでは、何もかも知っているこの女に勝てない。両親も、幼馴染も、師匠も、自分
自身も取り戻せない。
だからルークは意を決した。このままでは居られないのだと、理解していたから。
「……何で、そんなに、きげんいーの」
云った瞬間。
女は、何とも艶めかしい愉悦の笑みを浮かべた。その笑顔を見て、ルークはぞわりと鳥肌を立てた。
「知りたい? 知りたいのか? 私がご機嫌の理由を? 知りたい? 本当に? ――知りたい?」
愉しむように問われ、ルークはゆっくりと首を縦に一度だけ振った。云い知れぬ恐怖に身を包み込
まれていたが、それでも頷いた。
ははははっと、高く女の笑い声が響く。
「いーぃ傾向だ、クソガキ。知りたいと思う事は真理への一歩だ。知りたいと口に出す事は世界への
一歩だ。――知識欲に従うのは、人間への一歩だ」
云いながら女は、ルークの頬を両手で包み込んだ。黒革の手袋に包まれた手の肌触りは御世辞
にも良いとは云えなかったが、ルークはふと、母を思い出した。
この女のようにルークの頬を包み、顔を覗き込んで、悲しげに笑っていた。
「教えてやるよ、聖なる焔。子供の疑問に答えてやるのは、大人の義務だからなぁ」
また女は高い笑い声を上げる。
ルークはただ、震え出しそうになる膝に力を入れ、立っている事しか出来なかった。
− 駄目っ娘力。
故郷、キムラスカ王国は首都・バチカルへ即刻帰る予定だったのだが。
「……おい、ちょっと待て。この橋……もしかして、ローテルロー橋か?」
山の中で一晩過ごし――降りる途中、渓谷だと気付いたのだが――、現在地が分からない状況で
あった『ルーク』らは、とりあえず街道を歩いた。行商人や辻馬車とすれ違うかも知れないし、街道を
道なりに行けばとりあえず街には辿り着けるだろうと考えたからだ。
太陽が真上辺りに来たため休憩を取る事にした際、本来なら使用人が――今の場合、ティアが――
準備を整えるのを待っている立場の『ルーク』だったが、仏心を出して手伝う事にした。基本、『ルー
ク』はフェミニストなのだった。いくら自分を個人の事情で巻き込みうっかり誘拐した駄目っ娘相手と
は云え、女の子一人に支度させるのも気が引けた。
自分が近くの小川で水を汲んで来る間、火を起こして置くようにと云い付けておいたのだが、その
間にティアは辻馬車を捉まえていた。自分が引き起こした事態への責任感もあったのか、必死になっ
て交渉したらしい。『ルーク』が帰って来た時交渉は終了しており、首都まで乗せて貰えるそうですと
嬉しそうに報告された。
そのはしゃぎように胸がキュンとしたのは、『ルーク』とルーだけの内緒だ。
乗車料については自分が払ったと云っていた。その際『ルーク』は、ティアの首に掛けられていた
はずのペンダントが消えていた事に気付いた。が、その時は何も云わずにおいた。
御者を交えた軽い昼食を終え――おにぎりと御者の持っていた干し肉、携帯パックで淹れられた
紅茶と云う、慎ましい食事だった――、いざ首都バチカルへと馬車に乗り込んだまでは良かった。
だが、馬車が長い長い橋を渡る際に、『ルーク』は違和感を感じたのだ。
「あぁ、もちろん。世界広しと云えど、これだけ長い橋はローテルロー橋だけさ」
「太陽の位置がこの時間帯であそこって事は……東に向かってるよな……?」
「……?」
――どうかしたのかよ?
窓から外を見、ぶつぶつ呟く『ルーク』に対し、ティアは不思議そうな顔をし、ルーは素直に何事
かと問うて来た。
それに答えず、『ルーク』は脳内で地図を展開させる。一度軍部で見せてもらった、緻密且つ正
確な地図だ。
「って事はあの渓谷はタタル渓谷になるから……、ああああああああああああッッ!」
突然大声を上げた『ルーク』に、全員が肩を跳ね上げさせた。何だ何だと御者が振り返る。『ルー
ク』は食い付くような勢いでと窓に取り付いた。
「おっさん! まさか、今向かってる首都って!」
「へ? そ、そりゃぁ、賢帝ピオニー陛下がおわす、水の都グランコクマさ」
御者が云って、一拍後。
「ティィィィィアアアアアアアアアアアアアアッッ!」
「きゃあああああああああああ! ごめんなさいごめんなさいッッ!」
『ルーク』のアイアンクロウがティアの小さな頭を鷲掴みにした。ついでにちょいとばかり力も
込めてやった。それでも相当の痛みなのか、ティアは半泣き状態になりながら謝罪の声を上げる。
――おわー! どうしたんだよ?! 落ち着けって!
「ど、どうした兄ちゃん?! 女の子に乱暴しちゃぁいけねぇよ?!」
「確かにその通りだがこれは教育的指導だ見逃せ!」
ルーと御者が必死になって止めるが、『ルーク』はティアの頭から手を離さない。
「お前って子は! 現在地も目的地も確認しないで交渉したのか! この駄目っ娘が!」
「ももも目的地が首都だって云われたから……!」
「首都は首都でも俺らの目的地はバチカルじゃボケー!」
「バチカル……? ……あんたら、まさかキムラスカ人かい?」
突然、御者の声が冷たくなった。『ルーク』は己の失態に小さく舌を打つ。
『ルーク』らが住まうキムラスカ王国と、グランコクマを首都に置くマルクト帝国は古くから敵対関係
にある。今は休戦状態とは云え、国境線での小競り合いも多く、国民は互いに良い感情を抱いて
いない。
「……いや、マルクト人だよ。出張でバチカルに行く予定だったんだが、部下の不手際で迷っちまっ
てね」
「はー、なるほど。それでねぇ……。こんなご時世に出張たぁ難儀なこった」
感心半分、哀れみ半分で御者が云う。そう、”こんなご時世”に敵国に出張など、難儀以外何物で
もあるまい。
「早いところ纏めないといけない商談でね。失敗すると会社に損失が出るんだ」
――……よく、そうやってぽんぽん嘘つけるな。
(嘘ばっかじゃねぇよ。俺らが長い事留守にしたら、ファブレ家に損失が出るのは事実だし)
キムラスカ貴族は税金で暮らしているものだが、領地を持つ公爵は違う。領民から税も徴収してい
るが、領地内で”商い”もしているのだ。
『ルーク』も父から二つほど事業を任されている。自分に付いている秘書らが有能なため、短期の不
在ならば問題ないが長期となると話も変わってくるのだ。
「なるほどなぁ……。じゃぁ戻ってケセドニアに行った方が早いね。あそこはバチカル行きの船を出し
てるからよ」
「……馬車ごと戻るってのは……」
「無しだよ。おれも急ぎなんだ」
「だよなぁ……」
ティアから手を離し肩を竦める『ルーク』に、御者が同情的な眼差しを向ける。
「……まぁ、そんな急ぎだってんなら、エンゲーブでケセドニア行きの馬車を捉まえちゃぁどうだい?」
「エンゲーブ……ってーと、「世界の食糧庫」か」
「あぁ。ケセドニアの商人も買い付けに来てるしな。補給ついでに寄るからよ、そこで降りるかい?」
「んー……、そうだな。俺達も補給しなきゃならないし。エンゲーブで降ろしてくれ」
「あいよ」
「んで、エンゲーブまでの料金、現金できっちり払ってやるから、部下のペンダント返してくれよ?」
云えば御者が「げ」と呟き、ティアは驚きの顔で『ルーク』を見てきた。
「タタル渓谷からエンゲーブなら、一人精々千ガルドって所だろ? あのペンダントが代金じゃぁ、
ちょいとぼったくりすぎだな」
「……やれやれ。しっかりした兄ちゃんだよ。分かった、返すよ。ただ、三千ガルド、きっちり払って
くれよ?」
「高くなってんじゃねぇか。……まぁいいや、その程度の色なら付けてやるよ」
――? ティアのペンダントって?
(お前気づいてなかったのか……。ティアが首から下げてただろ?)
――ん? んんー? ……そう云えば、きらきら光ってたような……?
(ありゃスタールビーって云う希少価値の高い宝石でな、あの大きさなら三十万ガルドは下らねぇっ
て代物だよ)
――さ、三十万ガルドぉ?!
(母上も指輪で小さいの持ってたけど、細工が細かかったから十五万ガルドはしたはず)
――す、すげぇ……。で、でも、何でティアがそんな凄いモン持ってんだ?
(さて? それは本人に聞いてみないとな)
ルーにそう云ってティアに視線を移せば、彼女は潤んだ瞳で『ルーク』を見上げていた。
「……どうした、ティア?」
「いえ、あの……。どうして、ペンダントの事……」
「そりゃ、無くなってたからな。気付くさ」
――……オレに対しての厭味かよ。
(おお、良く分かったな。お前も公爵子息なら、もうちょい女性に気を回しな。気配り出来ない男は
モテねぇぜ?)
――むぎっ……! 余計なお世話だこんにゃろー!
痛い所を突かれ――ルーは『ルーク』より女にモテない事がコンプレックスなのである――ルー
が声を荒げるが、『ルーク』はただ笑うだけだった。
「あ、あの……」
「ん?」
ティアが頬を赤くしながら、もじもじと両手を組み合わせている。
「あ、ありがとう、御座います……。このご恩は、一生忘れません……」
「そんな気にしなくとも……」
「……でも、母の、形見で……」
その言葉に驚くと同時に、ティアが本当に嬉しそうな笑顔を向けてきた。
「本当に、本当にありがとうございます、ルーク様」
年相応の花のような笑みを見て、『ルーク』は苦笑交じりのため息を一つ。それからごしごしとティ
アの頭を撫でてやった。
――……けっこー、可愛いよな、ティアって。
(そうだな……。……悪い子じゃぁないんだよ、悪い子じゃぁ……)
なんだかんだと云いつつ。この駄目っ娘に絆されていると『ルーク』は気付いていたが、悪い気は
していなかった。
(……この時点で公爵子息失格かねぇ?)
*** ***
飾りボタンを行商人に換金してもらい――五千ガルドになった――、御者へ乗車料を払った際。
「……兄ちゃん、とことん運ないね、あんた」
「……云ってくれるな」
心底同情しきった様子の御者に、そう云われた。御者の云う通り、全く持って運がない。
エンゲーブで補給しようと決め、そのまま馬車でローテルロー橋を越えた時、やたらと荒い運転を
する別の馬車と擦れ違った。あぶねーなと窓越しに見送り、御者の悲鳴で前を見れば何故かそこ
には超大型陸上装甲艦「タルタロス」。
何でこんな国境近くにタルタロスと驚いている間に、件の戦艦とも擦れ違い、程無くして爆音。驚
愕の思いで振り返れば、停止しているタルタロスと煙をもうもうと上げながら落ちているローテルロー
橋。それを見た時には、三人揃って声なき悲鳴を上げてしまったものだ。
「……まぁ、無くなっちまった物は仕方ねぇ。カイツール経由で行くよ……面倒だけど」
「何だか責任感じちまうなぁ。エンゲーブ寄れって云ったのはおれだしよぉ」
「いや、あんたが責任を感じる必要はない。悪いのは橋を落とした奴だからな」
「まぁそうだが……。おれは明日までエンゲーブに居るからさ、もし良ければ声かけてくれよ。流石
にカイツールには行けねぇが、セントビナーまでなら送ってやれっから」
「あんがと。考えとくよ」
あまり一緒に居てティアがぼろでも出したら大変だと思ったので、適当にお茶を濁しておいた。だ
が、気のいい御者ではあるので――油断はならないが――機会があればまた会いたいとも思う。
御者に別れを告げ、待たせていたティアの所に戻れば、彼女はずんどこに落ち込んでいた。
(……うわっちゃぁ)
――ずんどこに落ち込んでんなぁ。
(……まぁ、タタル渓谷からの方がケセドニアに近かったからなぁ)
云ってしまえば、ティアが御者を捉まえた際、現在地と目的地の明確な名前を確認しておけば良
かった話なのだ。そうすればローテルロー橋を渡りエンゲーブまで来なくとも、ケセドニアへすぐ向
かう事が出来た。
それを自覚しているのだろう。背中に闇を背負い、周囲に人魂まで飛ばすくらいに落ち込ん
でいる。道行く人々が何事かと振り返っている事にさえ気付いていない。
ふぅとため息をついて、肩を竦める。
「ティア」
「……あ、は、はい、ルーク様!」
声を掛ければ慌てて顔を上げた。その際に人魂は霧散したが、陰鬱な闇はまだ残っていた。
「ほら、これ」
「え、あっ……!」
先ほど、乗車料を引き換えに返してもらったペンダントを手渡せば、ティアの顔がぱっと輝いた。
それから、何度も何度も頭を下げ、何度も何度も感謝の言葉を述べる。
――……母上の形見だって、云ってたっけ。
ルーがぽつりと呟く。故郷の母シュザンヌを思い出しているのだろう。
――大事にしてたんだろうな……。
(そりゃぁな。宝物なんだろうさ、ティアの)
今までのティアの行動は、全てが裏目に出てばかりだ。だが、母親の形見を、宝物を手放してで
も、『ルーク』を無事に故郷へ帰らせたいと云う思いは本当なのだ。裏目に出た行動とて、『ルーク』
を想い、彼女なりに必死になってくれた物と思えば――
(いじらしいと云うか、何と云うか……)
今でも軍人をやっていてこのお粗末な行動なら、雷の十や二十落としてやる所だ。だが彼女の今
の肩書きは「家事手伝い」。只のお嬢さんである。
そう思えば、この駄目っ娘っぷりも、
(萌え?)
――何云ってんの? 馬鹿なの? 死ぬの?!
(おいおい、そこまで云うなよ。傷つくじゃねぇか)
必死なルーの突っ込みを軽く流しながら、『ルーク』はティアの頭を撫でた。
「そんなに大事なもんなら、二度と手放すんじゃねぇぞ」
「は、はい……。でも……」
「それと、俺の名前を大声で呼ばないように。この外見だし、見る人間が見れば身元が即バレだか
らな」
何か云い募ろうとしたティアの声を遮り、『ルーク』は云う。
『ルーク』はキムラスカ王族の特徴である、鮮やかな赤い髪と碧の瞳を持っている。エンゲーブは軍
の駐屯地も無い田舎街だからこうして平然と身を晒しているのだが、本来ならばこのような状況で
は髪も目も隠し、服も目立たない物を纏わなければならない。
髪と目を隠す変装用具や服は後で手に入れるとして、せめて名前だけでも隠しておかなければな
るまい。
『ルーク』と云う名は、マルクトでも有名なのだから。
「はい、ルー……じゃなかった。では、なんとお呼びすれば宜しいのでしょうか?」
「んー、そうだな……」
顎に右手をやりしばし考えてから、『ルーク』はにやりと笑った。
「ハルカ……いや、ハルと呼んでくれ」
了
ティアは原作でもこれくらい駄目っ娘でしたが、自覚がなかったのがアレでしたね。
これくらい謙虚な性格で可愛かったら最高の萌えキャラだったのに……。
きょぬうで外見も声も可愛いだけに勿体なかった……。
執筆 2009/08/26
