泣き声が響く。ルーク自身の泣き声だ。
こんな風に泣き喚いていると、世話役のガイやメイド達がすっ飛んで来て優しく慰めてくれるはず
なのに、此処には誰も来てくれない。
その事実に、また泣き声が大きくなった。
「……うるっせぇなぁ。おちおち昼寝も出来やしねぇ」
いいや。一人だけ、ルークの側に来る人間が居た。
だがこの人間はルークを慰めてくれない。頭も撫でてくれなければ、お菓子もくれない。
泣き喚くルークを蔑む目で見下ろし、五月蝿いと怒鳴り、時には頬を引っ叩くような酷い女だった。
「――かえせ! かえせよぉ!」
その女の存在を認めた瞬間、ルークは叫んでいた。溢れる涙をそのままに女を下から睨み付け、
出来うる限りの大声で怒鳴った。
腹の底から張り上げた声に、女はただ、嗤う。
「返してどうなるってんだ? また何も知らずに利用されるだけのお人形さんに逆戻りするだけだぜ?」
せせら哂いながら云われる人形と云う言葉を、ルークはまだ理解出来ていない。いや、正確に云う
ならば認めたくない。
嫌いな女の言葉だから。そして、自分を利用していると云われているのが、大事な大事な人達だか
ら。
信じたく無かった。受け入れたくも無かった。
「だから私に任せて置けばいい。悪いようにはしないからな」
そう云ってケラケラと哂う女に、ルークは深い憎悪を抱く。
何が悪いようにはしない、だ。今、ルークは救いようもないくらい悪い状況だ。
分かっているだろうに、それでもわざわざ口にする女の性悪さに、ルークの怒りは深くなる。
「『ルーク』の身体と名前さえあれば、中身なんてどうでもいいんだから、お前は此処で大人しくし
てればいいんだよ。また喚いて”俺”の安眠妨害すんじゃねぇぞ。……じゃぁな」
云いたい事だけ云って、女は消えた。
しばらくの間女の居た場所を睨みつけていたが、戻ってくる気配は無い。また大声で泣けば戻って
くるかも知れないが、今度は言葉の暴力だけでは済まないかも知れないと思うと、声が出なかった。
ルークは立てた膝を両手で抱え込み、そこに顔を埋めて泣いた。
声を殺して泣いたのは、初めての事だった。
− 自意識過剰の我らの師よ。
身支度を整えると同時に、寝室の扉が丁寧に三度叩かれた。何だと返事をすれば、扉越しに『ルー
ク』付きのメイドの声がする。
「ルーク様。旦那様がお呼びでございます」
「分かった。今出るから、ちょっと待ってろ」
「はい。畏まりました」
賢いメイドは、寝室の現状が分かっているのかも知れない。急かす言葉は云わなかった。
『ルーク』は足元に目を落とし、床に散った液体を舐めているガイの前に先ほどまで穿いていたズボ
ンを落とした。驚くガイをそのままに、ズボンを雑巾に汚れた床を清める。
「ル、ルーク様、そんな、お止め下さい……っ」
「黙れ」
少しばかり不機嫌な声で云えば、ガイは黙り込んだ。それでも、体はそわそわと落ち着きなく動き、
『ルーク』の行動をどうにか止められないかと思いあぐねているようだった。
――ど、どうしたんだよ。お前がそんな事するなんて……! 明日は大雨か?!
(残念。預言(スコア)には快晴と出てるんだなぁ、此れが)
脳内の声にふざけた言葉を返してから、『ルーク』は顔を上げた。ガイはびくびくと怯えた様を隠す
事もせず、こちらの顔色を伺っている。
全く持って、こいつは大馬鹿だと思いながら、細い顎を掴み強引に引き寄せた。
*** ***
部屋を出た『ルーク』は勝手知ったる我が家を、わざわざメイドの後に付いて歩いた。普段ならば
一人で向かうのだが、今回は”お客様”がおいでなのである。公爵子息として当然の振る舞いをしな
ければならない。
――別に一人でもいいじゃんか。なぁ?
(普段ならな。でも俺らはお貴族様ですから。扉だって本当は自分で開けちゃダメなんだぜ?)
自分の屋敷とは云え、常日頃一人で歩き回っている『ルーク』が異常なのだと教えるのだが、返っ
てくるのは不服そうな声ばかり。まぁ子供ならそう思っても仕方ないよなと『ルーク』は一人ごち、小
さく笑った。
応接室の前、ファブレ公爵家お抱えの白光騎士が控える扉の前に来ると、メイドは優雅な動作で
廊下の脇へ避ける。丁寧に頭を下げ、「旦那様、奥方様、グランツ揺将がお待ちにございます」と鈴
を転がすような声で云った。
御苦労とメイドに手を振り一歩前に出、立ち止まる。すぅと一呼吸吸い込み、
「――ファブレ家が子、ルーク。只今参じました!」
云い終わると同時に、両開きの扉が二人の騎士の手によって開かれた。中に入れば、見慣れた応
接室の重厚且つ大きなテーブルに、尊敬する両親と、”表向き”敬っている師が座して待っていた。
公爵家嫡男が入室したと云うのに立ちあがりもしない師に、軽く軽蔑の視線を向けてから――無論、
気付かれるようなドジは踏まない――両親に向かって折り目正しく礼を取る。
その姿に父は満足げに頷き、母は誇らしげに微笑んだ。
「突然呼び出してすまんな、ルーク。せっかくの休みだったと云うのに」
父クリムゾンから繰り出された軽いジャブ。当然『ルーク』に向けてではないので、にこりと笑う。
「お気遣いなく、父上。今日は珍しく時間を持て余していた所です」
「まぁルークったら……。さ、母の隣へいらっしゃいな」
楽しげにくすくすと笑いながら、母シュザンヌが手招きをする。招かれるまま母の傍まで行けば、従
僕(フットマン)が洗練された動作で椅子を引く。軽く礼を云えば小さな会釈と共に小声で勿体ないと
返された。
――ヴァン師匠だ! なぁ、早く代われって!
席に着くと同時に嬉々とした声が響く。当然『ルーク』にしか聞こえていない声に内心苦笑しながら、
駄目だと云っておく。
(わざわざ応接室に呼び出すって事は、重要な話があるんだろ。また後でな)
――えー。
「どうした、ルーク。難しい顔をしているな」
その声がした瞬間。応接室の空気が一瞬で張り詰めた。『ルーク』は軽く片眉を上げ、父はチラリと
横目で声の主を見、母は慈愛に満ちた微笑みを静かに停止させる。応接室の警護を担当している騎
士達は、普段は一切させない鎧の音をかすかに鳴らし、従僕は片目だけを伏せた。
部屋の空気を凍らせた事になど気付かず、師――ヴァン・グランツは親しげな笑みを『ルーク』へ
向けていた。
ため息を着きたいのを懸命に堪えながら、『ルーク』は口を開いた。
「グランツ謡将。貴殿と私は確かに剣術を通じての師弟です。が、場は弁えるべきです」
師弟としてならば、『ルーク』はグランツの下になる。だが、今はこの場では公爵家子息と他国の
騎士団総長として会見しているのだ。当然、立場は『ルーク』の方が上だ。
それを知識としては持っているくせに、実践出来ず醜態を晒すこの男を『ルーク』は嫌っていた。
今も当然のルークの言葉に、ヒクリと片頬引き攣らせている。
「……っ、これは失礼致しました。本日は”ルーク様”で御座いましたか」
「えぇ。私の師である以上、当然気付いておいでかと思いましたが……」
言外に「残念です」と云えば、グランツは苦笑を洩らした。だが目だけは語っている。
『――風情が何を云う』と。
(ふん。相変わらず分かりやすい御人だ事……。その御大層な髭、必ず毟ってやる」
――可哀想だろ、やめろよ! 師匠ご自慢の髭だぞ!
(じゃあシモの毛を)
――や・め・ろっつーに!
「ルーク。謡将は本日、ダアトへ帰国する」
――え? えぇ?! 師匠帰っちまうのか?!
余り人に聞かせたくない毛の会話をしていた所に、父の厳格な声。その内容が師の帰国だった事に、
思いきり不満気な声が上がった。
「おや……。ずいぶん急なお話ですね。当初の予定では、来週まで滞在されるおつもりだったのでは?」
『ルーク』としてはグランツの帰国に不満はない。むしろ、「目障りだからもう来るな」と云って尻を蹴り出
してやりたいくらいだ。
だが、こう見えてこの男、我が国と友好関係にある国ダアトの要人である。当初の予定を此処まで急
に変更されたと云う事は、ダアトに問題が起きたと云う事か。
「ダアトから至急戻るようにと連絡が入りましてね」
「左様で。ではこの様な所で油など売っていないで御帰りになられた方が」
完璧な貴族スマイルで、要約すれば「とっとと帰れよ」と云おうとした所で、
――はぁ?! ちょっと待てよ!
(うわ馬鹿!)
一瞬の隙を突かれ、”主導権”をもぎ取られた。
椅子を倒しかけるほど勢いよく、『ルーク』が立ちあがる。
「じゃあオレの稽古は誰がつけてくれるんだよ?!」
突然癇癪を起した『ルーク』に、両親、グランツ、警備の騎士や従僕までも目を見張り硬直した。
当然だろう。普段の『ルーク』ならば決してこのような乱暴な行動を取る事は無いのだから。
「師匠が来なくなったらオレが主導権持てな――……この阿呆! お前は黙ってろ! …………失礼
致しました」
乱暴な言葉遣いが一転し、元通りの丁寧な口調に戻った。軽く咳払いをしてから着席する。
誰もが言葉を失う中、ころころと鈴を転がすような笑い声がした。
「うふふ……。今日もルーは元気なようですね」
咄嗟の事態に直面した時、女の方が強いと云うのは本当だなと、軽やかに笑う母を見て『ルーク』
は思った。いや、『ルーク』が”こう”なってから早五年。慣れたと云うべきなのか。
「お騒がせしました。……元気過ぎて困りものですよ」
――何だとー!
軽く厭味をまぶした『ルーク』の言葉に、ルーと呼ばれた脳内の声が怒りを露わにする。
「父上、グランツ謡将、お話を中断させて申し訳ありませんでした」
「いや、構わん。ルーのした事だからな」
父が苦笑気味に云う。
息子の”病気”に対して此処まで寛容な貴族と云うのも珍しい物だと、『ルーク』は胸中で一人ご
ちる。
王国トップクラスの大貴族である父は公爵子息然とした『ルーク』をとても気に入っていた。だが、
まだまだ”お子様”で癇癪持ちのルーの事も可愛がっていた。可愛がっていると云うより、甘やかし
ていると云った方が正しいかも知れないが。
仮に『ルーク』がルーと同じような行動を取ろう物ならば、怒りの雷の一つや二つ軽く落とすに違
いないのだから。
「もう五年になりますが、今だに驚きますな。ルーク様とルー様の”人格交代”には」
「グランツ謡将は頻繁に当家を訪れて下さいますが、暮らしていらっしゃる訳ではありませんからね。
……ところで、ルーの云う通り、謡将不在の間私共の鍛錬はどうなります?」
「私の部下を派遣いたします。留守中は彼らを稽古相手にして下さい」
「分かりました。ルーにもよく云い聞かせておきましょう」
――師匠じゃなきゃ駄目なのに……。
(……分かった分かった。謡将相手じゃなくても、稽古の時には譲ってやるから。な?)
――本当かよ?! やったぜ!
つい数秒前までぶちぶちと文句を垂れていたと云うのに、もうご機嫌だ。即物的と云うか、刹那的
と云うか。こう云う時、育て方を間違えたかと『ルーク』は思う。
*** ***
”尊敬する師”を見送る為、『ルーク』は護衛を伴い屋敷を出た。見送るとは云っても、王城・公爵屋
敷街と貴族街を繋ぐ昇降機の所までだが。
「所でグランツ謡将。先程は聞きそびれましたが……、ダアトへ突然の帰国理由をお聞きしても?」
謡将の隣を歩きながら、『ルーク』は云った。その前を三人の白光騎士が歩き、斜め半歩後ろには
帯刀したガイが控え、さらにその後ろに『ルーク』専属の”騎士”三人とメイド四人が従う。
本来公爵子息の護衛ならば、最低一個小隊は付く物だが、王城・公爵屋敷街から出ない事と、『ルー
ク』自身が上位剣士兼上級譜術士であるためこの少人数護衛が許されていた。
「えぇ、構いません。……公爵閣下にはお伝えしてありますが、実は、導師イオンがダアトより御姿
を消されたようで」
「?! ……失踪、もしくは誘拐と取ってよろしいか?」
「いえ、それが分からないのですよ」
「?」
――? どーゆー事だよ、師匠?
意味が分からないと素直に顔に出す『ルーク』に向かって、グランツは苦笑を見せた。
「大詠師モースからは行方不明だと知らされたのですがね、本国に連絡を取ってみれば公務でお出か
けになられたと返されました」
「それはまた……。謡将直轄の部下は何と?」
「連絡が取れません。恐らく大詠師が先手を打ったものかと……」
「……」
通常の国家であれば、戦中でもないのに情報の錯綜、直轄の部下と連絡が取れないなどと云う事は
有り得ないし、あってはならない。まとまりの無い国など、自滅の道を歩むだけだ。
だが、今現在、<ダアト>と云う国はそれが許されてしまう。
「派閥争いも大変ですね、謡将」
「御心遣い、感謝致します。……我ら教団員は他に為すべき事があるでしょうに。お恥ずかしい」
(……そのあんたが云う”為すべき事”も、正直どうかと思うけどね)
心の中で舌を出す。
「それで、導師イオンは今どちらに?」
「……聞けば、本国も導師イオンの居場所を知らぬと云うのです」
「……」
「本国とて全てが導師イオンの味方ではありません。準備を整え、本格的な捜索をするために一度は
帰国する必要があると思いましてね」
「……ご武運をお祈りしていますよ、謡将。導師イオンは今の世界に必要なお方ですしね」
やれやれとため息交じりに云えば、グランツはまた苦笑と共に「お任せ下さい」と会釈した。
こうしていれば其れなりにマトモに見えるのだから、つくづくと、この男は勿体ないなと『ルーク』
は思った。
了
鍛錬はなし。自国の指導者が行方不明なのに、他国のお坊ちゃんにのんびり鍛錬する阿呆がどこに
居る。と云う、至極真っ当な理由により。←
加筆修正 2009/08/17
