「なぁ、取引をしないか」
 どこまでも真っ黒な空間の中で、女は云った。
 美しい女だった。人間の顔の美醜などよく理解出来ていないルークにさえ、美しいと思わせるほど
整った顔立ちだった。
 一見作り物のような印象を与える美しさ。けれど浮かべられた笑みのせいか、厭に生々しいむっと
するような色香が漂う、生者の美を感じさせられる。
 健康的な色の肌は瑞々しく、短めに整えられた黒い髪は艶やかで、風に吹かれればサラサラと音
がしそうだ。女性にしては太目の凛々しい眉と、その下にある切れ長でギラギラと輝く青い目は、彼
女の意思の強さを分かりやすく表わしている。
 ルークの周りに居る女性達とは違い、メリハリのあるしなやかな肢体は、少し趣味が悪く露出の多
い黒服に包まれていた。
「とりひき……?」
「そうだ。お前の世界はどこまでも残酷で醜く、幸福からはほど遠い。だから私が守ってやる」
「なんで? なんでおまえが、オレをまもるの?」
 この美しい女を、ルークは知らない。その見ず知らずの女が自分を守るなど、妙な話だ。
 だから素直に疑問を口にすれば、女は誰もが見惚れる顔を盛大に歪めた。それは女自身が、己の
美しさに無頓着で有る事を如実に示している。
「はん。私だってお前みたいな見ず知らずのガキ、守るなんて御免だよ。でもな、やらなきゃ家に帰れ
ないんだ。お前の守護霊だか浮かれ集合体だかのせいでな!」
 胸倉を掴み上げられ、ルークの体は宙に浮いた。今までこんな乱暴な真似をされた事の無いルーク
は、生まれ持った気の強さで女に放せと命令し暴れたが、返って来たのは侮蔑の笑みだけだった。
「止めだ止めだ。お前みたいなガキに取引なんて持ちかけた私が馬鹿だった」
「はなせ! なにすんだよ!」
「うるせぇクソガキ。お前らが私を手前勝手に使おうってんなら、私だってお前を利用して好き勝手
やってやるさ!」
「い、いみわかんねーよ! おまえなんかしるか! あっちいけ!」
「本当にガキってのは馬鹿だな。……この場でどちらが優位か、ちっとも理解してねぇ」
 そう云って女はニタリと粘っこい笑みを浮かべた。その不穏さに、さしものルークの心にも怯えが
生まれる。
 何だ”此れ”は。
”こんな物”、今まで自分の周りにはなかった。
「お前の態度次第では優しくしてやろうと思ったが、気が変わった。……テメェの全て、”俺”がブチ
壊してやんよ」
 空いている手がルークに向かって伸ばされる。
 迫り来る終わりの予感に、ルークは強く目を瞑った。



 − はじまりはじまり。



 ファブレ公爵家嫡男『ルーク・フォン・ファブレ』は、珍しく暇を持て余していた。
 座学の授業は家庭教師の急病により休み。公務は来週まで入っておらず、仕事は朝の内に済まし
てしまった。身分柄、散歩などと云う理由で屋敷の外へ出る事も憚られる。鍛錬をしようかとも思うが、
汗を流したいと云う気分でもない。
 いっそ予習・復習でもすれば良いのだろうが、生憎と気分が乗らない。
 だから『ルーク』は寝室の窓辺に佇み、ぼんやりと空を眺めていた。
 眺める空は雲一つない快晴。一般の主婦ならば洗濯物がよく乾くと喜ぶだろう天気も、『ルーク』に
とってはただただ不愉快だった。
 勉強する気にならないのも、この天気のせいだろうと『ルーク』は思う。
 少し長めの前髪をかき上げて、小さく舌を打つ。青空の中に浮かぶ透き通った石を見たせいだ。
『彼』にとってその石の存在は不快な物以外何物でも無かった。石さえなければ、まだ遠い故郷を想
い心だけでも飛ばす事が出来ると云うのに。
 頭をゆるく左右に振る。悪い事ばかり考えていては、本当に気が滅入る。ここは楽しい事を考えた
方がいいだろうと思い付いた。
 青空に関係する楽しい事と云えば。
「……青姦か
 ――うっぉおおおおおおおい! 真昼間っから何云っちゃってんだぁぁぁぁぁぁぁあっ!
 頭の奥の奥から轟き響く、怒声が上がった。
 鼓膜を叩くのではなく脳味噌を揺らす怒声に、片手で頭を押さえる。
(喧しい。馬鹿でけぇ声出すんじゃねぇよ)
 ――お前が出させてんだろうが!
(おいおい、何でも俺のせいにするなよ。酷い奴だな)
 ――まさかの被害者面! ホント厚かましいなオイ!
 あぁ云えばこう云う。叩けば返って来る好反応。ぽんぽんと脳内で飛び交う会話に、『ルーク』は小さ
く微笑んだ。
 糞が付くくらい気に食わない世界だが、こいつとの掛け合いは少し気に入っている。
 肩に掛かった赤く長い髪をさらりと後ろに流す。専属の使用人が日夜魂を込めて手入れしている髪
はまるでシルクの如く、さらさらと音を立てて背中に落ちた。
 ――オレ知ってるぞ。そう云うのコーガンムチって云うんだ。
(意味は知ってるが理解してねぇ発音だな。馬鹿丸出しだぞ)
 せせら笑いつつ云ってやれば、”相手”は直ぐに乗って来た。根が単純だから、こんな分かりやすい
挑発にも引っかかる。その反応を面白がっているのだと気付いてはいるものの、黙ってはいられな
いタチなのだと、『ルーク』はよく知っていた。
 脳内の声が何か云おうとしたのだが、ふいに黙った。それを不思議に思う間も無く、小さな耳鳴りと
軽い頭痛を感じた。
 頭を押さえ、眉間にシワを刻む。
「……今日も来るか」
 ――ウッゼェよなぁ……。
 耳鳴りと頭痛が治まってから、『ルーク』は一つ息を着いて寝室から出た。

 *** ***

 寝室を出ればそこはすぐ中庭に繋がっている。他の自室――仕事場兼用の書斎や、勉強部屋、娯
楽室――へ行くには必ず中庭を通らねばならず、初めこそ面倒臭いと思っていた。
 雨が降れば一々傘を差して貰わなければならないし、部屋の外と中では気温差が有りそれを鬱陶し
く思う。だが人とは面倒にも慣れる生き物である。慣れてからは面倒臭いと思うよりも、園丁(ガー
ドナー)達が丹精込めて育てた草花が育つ中庭に癒しを感じるようになった。面倒な移動も、気分転
換だと思えばいいだけの話だ。
 すぅと深く息を吸い込めば、花の優しい香りが肺を満たした。それに微笑んでから、近場に咲いてい
る橙色の花を撫でる。
(綺麗だなぁ)
 ――花なんか見たってつまんねぇよ。
(そっかぁ? この花なんてガイに似合いそうだ)
 ――……おい。何か悪い事考えてるだろ。
(失礼な奴め。尿道に差し込んで生け花なんて面白そうだと思っただけだ
 ――予想を超える最悪さ! どこまでガイの体いじくる気だコノヤロー!
(俺が満足するまで。……お、ペールだ)
 花を眺めながらのシモネタ会話を一方的に中断し、『ルーク』が中庭に来てからずっと頭を下げて
いただろう園丁長ペールへと歩み寄る。
「よぉ、ペール。今日も壮健そうで何よりだ」
「勿体無いお言葉に御座います、ルーク様」
 仕える家の若君からの言葉に、心優しい老僕は柔和な笑みを浮かべた。
「先ほど、レウィシアを眺めておいででしたが、お気に召しましたか?」
「ん? あぁ、あの花、レウィシアってのか。橙色が綺麗だな」
「橙色の他にも、桃色や白色もあるのですよ。高温多湿が苦手な花でしてね、このようにわざと乾い
た土で育てるのです」
「へぇ……」
「お気に召されたようですから、メイドに頼んでお部屋へお持ち致しましょう」
「いいのか?」
 ――ゲッ! やめろペール!
『ルーク』はぱっと顔を輝かせるが、脳内の声はペールには聞こえないと分かっていながら静止の言
葉を云う。
 あの会話の後では止めさせたくもなるだろうなと思いつつも、『ルーク』としては問題ない。喜んでそ
の好意を受け取る事にした。
「有難うペール。宜しく頼むよ」
「畏まりまして御座います、ルーク様」
 ――おあああああ……。お前の優しさが痛いよペール!
(ははははは! 今日のプレイは花使用の尿道弄りに決まりだな! 夜が楽しみだ!)
 ――ギャー!
 今夜実行されるであろうガイ虐めの内容を想像でもしてしまったのか、悲痛な悲鳴が上がる。だが
その悲鳴は、『ルーク』を楽しませるだけなのだった。

 *** ***

「ルーク様、こちらにおいででしたか」
 中庭から母屋に入ると同時に、執事(バトラー)が声を掛けてきた。
 基本、使用人及び守衛の騎士達は自分達から公爵一家に声を掛ける事は無い。一家を見ればそ
の場に立ち止まり深々と頭を下げるだけだ。
 階級が下の者から上の者に声を掛けるのは礼儀に反するため、一家から声を掛けられ許可を得ら
れない限り、彼らが言葉を発する事はない。
 だが、家令(ハウススチュワード)と執事は別だった。彼らは主人一家に声を掛けられる権限を持ち
合わせている。
「何だラムダス。俺に声を掛けるなんて珍しいじゃないか」
「は。少々、お耳を拝借したく……」
「……云ってみろ」
 執事がこうもったいぶった云い方をする時は大抵碌な話ではないのだが、聞かない訳にも行かない。
多少うんざりした顔になった事には目を瞑ってもらおう。
「……グランツ謡将がおいでになりました」
「何? ……今日は指導の日じゃ無いだろう? どう云う事だ」
「至急、旦那様へお伝えせねばならないご用件だとか」
「で、アポイントメント無しで強襲、か……。相変わらずの御人だ」
 やれやれと肩を竦める。ラムダスは感情を読ませぬ無表情であったが、この真面目な執事が無礼な
来訪者を快く思っていない事は分かった。
「後ほど、ルーク様にもお声が掛かるかも知れません。お部屋にてお待ちいただくよう、旦那様から言
付かっております」
「分かった。……んじゃ、寝室に居るからメイドでも寄越してくれ」
「ルーク様」
 ひらりと軽く手を振って来た道を戻ろうとする『ルーク』に、張り詰めた弦のように厳しい声がかかる。
何だと振り返れば、やはり無表情な執事が立っていた。
「いくら園丁長とは云え、ルーク様とペールでは身分が違いすぎます。軽々しくお声など掛けてはなり
ません」
 まるで出来の悪い生徒を叱責する教師のような声音で、ラムダスは云った。それに対して、『ルー
ク』は聞き分けの無い不良生徒のように舌打ちをする。
「喧しい。俺に命令するな」
「ルーク様……!」
「黙れよ、ラムダス。無駄口叩いてる暇があんなら仕事しな」
 話は終わりだと言外に言い放ち、『ルーク』は歩き出した。背後で細いため息を着く気配がしたが、
あえて気にしなかった。

 *** ***

 結局出歩けた時間は僅かな物で、寝室に戻るはめになった『ルーク』は軽く溜め息をついた。
(ったく、ついてねぇぜ)
 ――何でだよ。ヴァン師匠が来たんだぜ?!
(嬉しそうだねー、お前は。謡将の企み知ってるくせによ)
 ――だって師匠が来てる時にはオレに主導権譲ってくれんじゃん! 鍛錬も出来るしさ!
 はしゃぐ声に、『ルーク』は苦笑をもらす。
 いつも『ルーク』の横暴を特等席から眺めているだけの状態だから、当然ストレスは溜まるだろう。
そのストレスを鍛錬と云う至極真っ当で爽やかな物で発散してくれるのだからコレは可愛い。
 自分はなんとも手酷く、劣悪な方法でしかこの余り在るストレスを発散出来ないのだから。
 早いところ、自分も真っ当な生活に戻りたい物だと思った所で、
 ――うぁっ……!
「あー。……来やがった」
 激しい頭痛と耳鳴りに襲われた。寝室を出る直前に起きたものの比ではない。脳味噌の奥の奥か
らガツンガツンと鈍器で殴られるような痛みと、鼓膜を木っ端微塵に破壊されそうな音の奔流。
『ルーク』はうんざりした表情をさらし額を押さえ、背後の扉にもたれる程度で済まして居るが、他の
人間なら蹲るなり床を転げ回るなりしているだろう。それほどの衝撃だった。
 二十秒ほどだろうか。激しい頭痛と耳鳴りは声のような微かな音を最後に、唐突に消えた。
 ふぅと一息つき、ベッドへ乱暴に腰を下ろす。
「……チッ。うぜぇったらねぇ」
 ――此れのお陰でオレ達、頭おかしい奴みたいだよな。
(全くだ。あーぁ。早い所解放されてぇよ、ったく……)
 切実な想いと共に何度目かの溜め息を吐いたところで、扉が丁寧に叩かれた。父からの呼び出し
が来たかと思い、入れと来訪者に告げる。
「失礼致します、ルーク様」
「あれ?」
 ――ガイ!
 自分付きのメイドか白光騎士かと思いきや。入ってきたのは『ルーク』の従者(ヴァレット)であるガイ・
セシルだった。
 息子を呼び出すのにわざわざ従者を使う事は無いだろうと疑問に思っていたが、彼が手に持つ物を
見て合点が行った。
「あぁ、お前が持ってきたのか」
「はい。ペールからのお届け物です」
 そう云ってガイは柔らかな笑みを浮かべた。手にした橙色の花――レウィシアと相まって、可憐に見
える。二十一の男に激しく似合わない表現だが事実、可憐だった。
 その可憐な様を満足気に眺めてから、『ルーク』は花瓶に生けられた花を背の低い衣装箪笥の上に
置く様にと指示した。
 ――うあーん……。何でよりにもよってガイが持ってきちまうかなぁ……。
(ははははは。ウケるよな。何も知らず、今夜自分を苛む物をその手で持ってくるなんてよ)
 ――お前ほんと酷い。
(褒め言葉だな)
 肩に掛かった髪を背中に流しながら笑う。
『ルーク』の脳内で交わされる言葉など当然聞こえていないガイは、『ルーク』が不穏な笑みを浮かべて
いる事にも気付かず、花瓶をどの角度で置けば一番綺麗に見えるかを検討していた。
 使用人然としたその背中をうっとりと眺めながら、『ルーク』は口を開く。
「ガイ」
「はい、ルーク様」
 呼べばすぐさま作業を中断し、『ルーク』の前まで歩み寄りその足元に跪いた。
 ――おい。
(何だよ?)
 ――……何おっぱじめる気だこのやろー。
(ナニに決まってんだろ。時間無いからちゃちゃっと終わらすぞー)
 ――ぎゃー! やっぱりか! 逃げろ! 逃げるんだガイー!
 必死に叫び、ガイに逃亡を促す。が、悲しいかな、その声は『ルーク』にしか聞こえない。当然ガイは
跪いたまま、立ち上がる素振りすら見せない。
「顔を上げろ」
「はい」
 云われるままにガイは顔を上げた。その拍子に、首に巻きつけられた黒い首輪のドッグタグがしゃ
りんと涼しげな音を立てる。
 虚ろな青い目がただひたすら『ルーク』を見つめる。従順な犬が、主人の命令を待っている。
「可愛い可愛い。俺の―――”ガイラルディア”」
 その言葉に対し、ガイは安堵の笑みを浮かべた。心も体も全て、『ルーク』に預け安心しきっている
幼子の顔。
 両手を伸ばし頬を優しく包み込み、『ルーク』は艶然と微笑んだ。

「……精々泣き喚いてくれよ。”私”が楽しめるようにな」

 靴を履いたままの足が、荒々しく、ガイの股間を踏みつけた。
 ――お前、本当に……最悪。



 了


 以前とは大分設定変えます。多分。(え)

 加筆修正 2009/07/16