『異世界』と云う物の存在を、晴佳は知っては居た。
暗殺者などと云うキナ臭い仕事をしていると、一般市民がおいそれとは関わらない人間や存在に
お目にかかる事がある。
晴佳に『異世界』の存在を教えたのは、そんな、不思議な存在だった。
蝶々を華押にしていた、女性の姿をした存在。初めて会った時、「あぁ、これは、違うな」と晴佳は
漠然と感じた。
何が違うと問われれば、存在そのものと云うか、格と云うか、力と云うか、そう云った曖昧な物だ。
ただの人間である晴佳とは、根本から違うと云う事だけが分かった。
争ったら自分が負けるな、と即座に認められるくらいには。
彼女は妖しく微笑みながら、晴佳にあれやこれやと色々な事を教えてくれた。その中の一つに『異
世界』の話があったのだ。
人一人が知覚できる世界はとても狭く、少ない。けれど本当は、無限にあるのだと。それをある世
界では『多重世界』と呼び、ある世界では『百万世界』と呼び、ある世界では『アマラ』と呼び、ある世
界では『異世(とこよ)』と呼ぶ。
呼称は様々、けれど意味は同じ。自分達が存在し生きる世界とは別の世界が数多にある。同じよ
うな見た目をしている事もあれば、過度に発展した世界、原初の人が住まうような世界、そもそも人
間が存在しない世界もあると。
ならば此処は、その『異世界』とやらの一つなのだろうと、晴佳は認めるしかなかった。認めて、途
方に暮れるしかなかった。
巨大な岩の上に膝を抱えて座りながら、晴佳は白い城壁を眺めていた。
『異世界』に来てしまった。しなければいけない事は沢山ある。現状の確認は済んだ。次は帰る方法
の模索に入らねばならない。どれだけ時間がかかるか分からないから、衣食住も確保しなければな
らない。その為には、この世界で金銭を稼がなければなるまい。
しなければならない事は分かっていると云うのに、身に起きた事態があまりにも現実離れしすぎて
いて、行動を起こす気になれなかったのだ。
(……動けないなら、考えろ)
思考を止めるな、止めたら死ぬぞと、養父から叩き込まれていた。考える事をやめるな、常に考え
ろ、考え続けろ、疑問に思え、疑え、思索を放棄するな、する時は死ぬその瞬間だけで良いと。
だから晴佳は、考えた。
(俺が此処に来た原因は……間違いなくあの声に応えたからだろうな。そうなると、今の俺は自業自
得と云う訳だが)
応えなかった所で、回避出来たとも思えない。だが、応えると決めたのは晴佳自身であったため、
あの声の持ち主を責める気にはなれなかった。今にも泣きそうなほど悲痛な声を出していた少年を
罵倒するのも、趣味ではない。
(助けてと云っていたな……。何を、とは云って無かった……いや、聴き取れなかったけど。あの声
の子が原因だって云うなら、その子を助ければ帰れる可能性もあるって事か……)
ならば、自分が最初に目覚めた場所――クレーターに一度戻ってみた方が良いかも知れない。だ
が、それをするのが怖かった。
あの死体の山の中に少年が居たら、また絶望を味わう羽目になってしまう。
事実から目を逸らすのは賢いとは云えないが、絶望感に足元を囚われ動けなくなるよりかマシだと、
晴佳は思っていた。
(……確認するのは、まだいいや。それよりもまず、あの中へ入る方法だな……)
遠目に確認して分かったのだが、あの城壁の中に入るためには身一つでは無理そうなのだ。
街道を歩いて来る人々が、門番に何かしらの書類やカードらしき物を提示していた。恐らく、通行証
とかパスポートとか、そう云った類の物なのだろう。中にはそれを提示しながらも、荷物を検められて
いる人間も居た。随分厳重なのだなと感心した物だが。
それと同時に気付いたのが、城壁の中へ出入りする人々の身成りだ。
大きな荷物を抱えていたり、馬や牛のような動物に荷台を引かせていたりしていた。行商人、とでも
云うのだろうか。観光目的のような姿をした者はいなかった。
晴佳の荷物と云えば、学生鞄一つ。服装は旅とは縁遠い学生服だ。この学生服は晴佳にとっては
一般的で何ら変な部分はないが、行商人らと比べると明らかに浮いていた。彼らの服装は、ファンタ
ジー系RPGに出て来るキャラクターのような、独特な物だったのだ。
晴佳があそこへ行っても、不審人物として捕まるのがオチのような気がする。中に入れるならば良
いかも知れないが、捕まった後どうなるかがさっぱり分からない状態でそれは無謀すぎる。不審人物
は即監獄行き死刑、と云う可能性も少なからずある。
(……どっかから、忍び込む、とか……?)
それこそ、忍びこむ瞬間に見つかったら終わりと云う気がした。中に入る事が出来ればこっちの物、
とは思うが、安全な侵入方法を確保出来ない以上、やはり無謀だろう。
八方塞な思考に、頭をガシガシと乱暴に掻く。いっそ別の街を探すかと云う事も考えたが、此処か
らどれくらい距離があるのかも分からないし、あそこと似たような状況だったら無駄骨と云う事に成り
かねない。
いっそ商人襲って身ぐるみ剥いでやろうかと、思考が危険な方向へ行った時だった。
街道から外れ、こちらへ近づいて来る人間が見えた。まだ大分遠いが、方向的に真っ直ぐ晴佳へ
向かっている事は容易に知れた。
(……見つかった、か?)
岩の上にぽつんと座ってる姿は、確かに、少々目立ったかも知れない。距離があるからと油断して
いたかと、軽く舌を打つ。
逃げようと思えば逃げられたが――何せ、かなり距離がある――、動く事が億劫になっていた晴佳
はそのまま待つ事にした。敵意や害意を持つ物だったらと当然考えたが、逃げてばかりいても仕方な
いだろうと腹を括った。
これであの人間がこちらを害するもので、尚且つ己より強者であったら、運が悪かっただけの話。そ
う考えて、晴佳は覚悟を決めたのだ。
だが、その覚悟に反して、近づいて来る人間はぱっと見た所、悪人では無さそうだった。
真っ白な髪は腰に届くほど長く、それに比例するかのように肌も白い。異様に整った、どこか儚さを
感じさせる顔に、淡い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
悪人には見えない。見えない、が。
(……衣装が、かなり、独特、だな……)
簡潔に云えば、ビジュアル系と云う奴だろうか。胸元が大きめに開いた上着は、ハートの模様が幾
重にも絡まったような不思議な衣装で、下は紫のスカートに此れまた独特な文様が描かれている。腰
に巻いた黄色い布が、全体的に紫色な服にアクセントを加えているが、何故か鎖まで一緒に巻かれ
ていた。
手には大きなハープを持っているが、武器らしきものは見当たらない。それでも警戒は解かずに居
た晴佳に、彼は――そう、恐ろしく綺麗な顔立ちをしているが、男性である――にこりと微笑んだ。
「こんにちは、お嬢さん。お隣宜しいですか?」
「どうぞ」
巨大な岩の上からと、その下からの会話である。このまま会話するのは相手の首が痛んでしまいそ
うでもあり、かと云って自分が降りるのも面倒くさい晴佳はあっさりと許可を出した。
岩の横に自然と作られたであろう段差を上って来た男は、「失礼」と断りを入れ、晴佳の隣に腰を降
ろした。その際長い髪が岩に着いたが、本人は気にしていないようだった。
「私はレイムと申します。吟遊詩人を生業としている、流れ者です」
「詩人さんですか」
云われ、納得する。確かに、この成りで「百姓です」とか云われても違和感があるが、吟遊詩人と云
われれば感じない。
レイム、と云う名を聞いて、晴佳はこの世界には漢字が無いのかも知れないな、と思った。それに苗
字も名乗らなかったと云う事は、かつての日本のように、姓は位の高い者しか持たないのかも知れな
いとも推測した。
「俺は晴佳と云います」
「ハルカさんですか、綺麗なお名前ですね。それで……此処で一体何を?」
「えーっと……」
正直に話すのは戸惑われる。世界を越える事は、基本的に有り得ない事だ。この世界での一般常識
が分からない以上、己の常識に合わせて会話するのが得策だ。
幸い言葉も通じるようだし、誤魔化そう。
「途方に暮れてまして」
「途方に……?」
「えぇ、その、此処に来る途中、荷物の大半を無くしてしまいましてね。あそこに入れないんですよ」
「それはお気の毒に……。商人さん、には見えませんが……冒険者の方で?」
「まぁ、そんな所です」
正直、冒険者がどう云った存在なのか分からないが、否定しても仕方あるまいと肯定するような言葉
を返した。
するとレイムはふむふむと納得したように頷いた後、まるで悪戯を思い付いた子供のように目を輝か
せた。
「ハルカさん。あそこに入るなら、良い方法がありますよ」
「……へぇ、どんな方法です?」
その笑顔からして、正規の方法ではないだろうなと見当がつく。もしや冒険者と云うのは、そう云う碌
でもない事をやらかす連中を云うのだろうか。だとしたら失敗したなと、晴佳は相手に悟られないように
思った。
「あの街は、あまり治安維持に熱心な方ではないのです。ですから驚いた事に、城壁に穴が開いている
場所があるのですよ」
「何だって?」
思わず、耳を疑った。あれだけ城門で厳重な警備をしておきながら、壁に穴が開いている?
「此処から左に向かえば、その穴が見えてきます。掘りに簡易ながら橋も架けられていますから、入り
込むのは簡単ですよ。ただ……」
「ただ?」
「入ってすぐの場所は貧民街になっていて、大変治安がよくありません。スリやら強盗やらの溜まり場で
すからね」
「なるほど……」
普通の人間ならば、壁に穴が開いた場所など住みたくないだろう。それゆえに、貧民街が出来ている。
この街の生活水準は低い、と云う予想は当たっていたと云う事か。
例え貧民街であれ、街の人間が住む場所の安全を守らないとは、どんな低能な人間が治めているの
か。それならばそれで、やりやすいと云う事になるが。
治安が悪いなら、自分のような人間でも、金銭を稼ぐ方法が幾らでもある、と云う事だ。
「冒険者である貴方ならば、何とかなるのではありませんか? とても腕が立つようにお見受けしますし」
「はは。買い被りですよ、それは。……ですが、貴重な情報を有難うございます」
礼を云って晴佳は立ち上がった。おや、とレイムが器用に片方の眉毛だけを上げる。
「もう行かれるのですか?」
「日が暮れる前に今日の宿をどうにかしたいんですよ。……不躾ですが、この辺りで。このご恩は、いつ
かお返しします」
「ふふ、期待して待っていますよ。それでは、またいつか……」
「えぇ、またいつか、お会いしましょう」
晴佳はぺこりと頭を下げ、足早にレイム曰く、穴のある場所へと向かった。
だが、レイムに背中を向けた瞬間、背筋を悪寒が駆けあがった。慌てて背後を見たが、そこにはにこ
やかに笑い晴佳を見送るレイムが居るだけである。
晴佳は小首を傾げたが、もう一度レイムに頭を下げ、今度こそ目的地へ向かって走り出した。
*** ***
去って行く背中を見つめながら、レイムはうっとりと眼を細めた。
懐かしい気配がしたから来て見れば、何と云う僥倖。
「あぁ、でもまだ、その時ではないのですね」
己の出番はまだまだ後だと、レイムは自覚していた。だから、本の少し手助けをするだけに留めた。
大丈夫だと云う、妙な確信が胸にある。彼女と会話した事の安心感だろうか。
遠く遠くに離れて行く背中に、再度微笑みを。
「時が来たら、必ずお迎えに上がります――」
そう云ってレイムは深々と頭を下げ、その場から立ち去った。
自分達の事を観察していた人間が、彼女の後を追った事を知ってはいたが、敢えて放置した。
きっとあの人間は、これから必要な人材になるのだからと、妖しげな笑みを浮かべながら。
*** ***
あっさりと入り込めた事に、肩透かしを食らったような、安心したような、そんな微妙な気持ちになり
ながら、晴佳は周囲を観察していた。
レイムから聞いた通り、穴から入り込んだ先は貧民街――所謂スラムだった。
昼間だと云うのに薄暗く、廃屋やあばら家が立ち並んでいる。足元は一応舗装されているが、汚れ
過ぎて元の色が分からなくなっているし、汚れた水溜まりが多く、塵も散乱していた。生ゴミの臭いに
気分が悪くなる。
不法侵入をした身としては、こう云った場所で寝床を探すのが最適だと理解している。だが、この悪
臭の中眠るのは苦痛だろうなと、容易に想像がついた。無論、どんな場所でも眠れるよう訓練はされ
ていたが、厭なものは厭である。
最も、スラムを出た所で正規のホテルや旅館に泊る金も無ければ身の証もない。諦める他ないので
あった。
ふと、晴佳は素早く二回、瞬きをした。反応を示したのはそれだけの事で、傍から見ても分からなかっ
ただろう。
晴佳は当てどなく動かしていた足を、ふいに止めた。そして止まった場所から二歩ほど先に、カツリと
音を立ててナイフが刺さった。柄が小さい独特の形をしたそれは、投げナイフの一種だろう。
あのまま歩いていれば、晴佳の目の前――それこそ、目と鼻の先に現れたであろうナイフは、少々間
抜けな事に間を置いてそこにあった。物陰から息を飲む気配と、驚きの声がした。
あぁ、厄介事だなと、晴佳は冷静な頭で判断を下す。
「……随分なご挨拶じゃねぇの」
云えば、気配がごそりと動いた。建物の影から二つ、人影が出て来る。
「いい勘してんじゃねぇか、あんた」
そう云ったのは、壁に突き刺さった物と同型のナイフを指先で弄んでいる少年だ。
濃い紫色の髪はベリーショート。髪と同じ色の目は吊り上がり気味で、剣呑な色を光らせている。顔
の造詣に幼さが目立つが、後五年もすれば良い男になるのではないかと楽しい想像をさせられた。
服装は晴佳からすれば少々変わっている。装飾品の多いクリーム色の上着は胸元がほぼ全開だと
云うのに、腹は革製らしき防具で覆われている。ズボンはふくらみがありゆったりとした物で、上着と同
じ色。ブーツは髪と目の色と合わせているのか、紫色だ。
チンピラよりも不良、と云う言葉を連想させる少年である。
「ついでに、ワシらの目的も分かってもらえると良いんだがなぁ」
少年と一緒に出て来たのは、筋骨隆々の巨漢であった。
茶色の髪を少年以上に短くしているが、刈り上げ、とまでは行かないと云ったところか。醸し出す雰囲
気は不穏だと云うのに、茶色い目はどこか穏健そうな空気を持っている。
男は、服装……と呼べるか疑問に思う恰好をしていた。上半身は裸、下は黒いズボンに赤い腰布と
云った簡素な物。恐らく、逞しい筋肉を敢えて見せる事で、相手を威嚇しているのだろう。確かに、この
ような巨漢にいきなり出て来られたら怯えが生まれるだろう。普通は。
生憎、可愛げのない事に、晴佳は普通の基準から大分逸脱している少女であった。だから彼女の反
応は至極冷静且つ簡素な物で、相手にとってはこの上なく生意気な物となる。
「さぁ? 想像もつかねぇな。あ、もしかしてナンパ?」
「舐めてんのかテメェ!」
「舐めちゃぁいない。おちょくっちゃいるが」
にやにや笑いながら云ってやれば、少年の顔があっと云う間に赤くなった。随分と沸点が低く、短気
な性格のようだ。此処まで分かりやすいと、逆に微笑ましいと晴佳の笑みが深くなる。
今にも飛び掛かりそうな少年を押さえ、巨漢が前へ出て来た。怯えはしないが、威圧感は感じる。
「お前さんのような綺麗所に声をかけておいて、色気のない話だがな。ワシらの目的はお前さんの財布
だよ」
「本当に色気ねぇな〜。つーか、この美形を捕まえてナンパじゃなくて金寄こせとか、空気読めないにも
程があんだろ」
などと嘯いてみせるが、実際の所、晴佳はナンパされた経験があまりない。
友人ら曰く、「黙ってると凄い美人だし、背筋も伸びてて隙がないから、見ず知らずの人は声がかけ辛
いと思う」との事。褒められているようだが、黙ってるとと云う一言が気になる。喋ると台無しとでも云い
たいのか。云われた所でその通りなのだから、反論出来ないが。
云われた男が苦笑した。人に金銭をたかってる癖に、随分と人の良さそうな苦笑だった。
「まぁ、な。だが、ワシらが必要なのは楽しみじゃなくて、明日のパンでな。お前さんほどの美人なら、貢
ぐ男も山ほどいるだろう? ちょいとばかし、施して貰いたいだけさ」
「施し、ねぇ……」
物は云いようだと、呆れ半分でため息をつく。
中学生の頃とは変わり、無用な喧嘩はしなくなった晴佳だが、やはり相手の言葉通りにするのは癪
に障った。それも、ナイフを投げて威嚇し、相手を怯えさせ自分達の良いようにしようとする輩に従うな
ど、それなりに高いプライドが許さない。
既に犯罪者の身の上、騒ぎを起こすのは得策でないと分かってはいるが、理解と納得は違う。晴佳
は極力理性的であろうと努力しているが、結局本質は感情型の本能優先体質だ。プライベートでは、
例え理不尽であろうが傲慢であろうが、己の我を通す事を信条としている。勿論、仕事や学校となった
ら話は別だ。公私は分けるべきである。
今この場は完全なプライベート。そして相手も「金をよこせ」と云う我を通すつもり。
ならば、遠慮はいるまい。
首に右手をやって、コキコキと音を鳴らし、肩をほぐす。その仕草にピンと来たのか、巨漢の顔が険
しくなった。
「……お前さん一人で、ワシらとやり合う気か?」
「当然。……人は見かけで判断しない方がいいぜぇ?」
そう云って笑った瞬間。晴佳は男の腹に、渾身の力で膝蹴りを入れた。
くぐもった声を上げ、男の体が宙に浮く。背中から落ちた男は、そのまま二メートルほど地面を擦っ
た。
少年が、ぽかんとした顔で男を見ている。あまりにも隙だらけだったため、首に踵落としを喰らわせ
れば、少年はあっさりと意識を失い倒れ込んだ。
「……何だ。つまんねぇの」
呟いて、ぼりぼりと後頭部を掻く。悪ぶっているからそれなりに強いかと思っていたのに、こうも簡単
に終わってしまうとは。場数をそれなりにこなしてきた晴佳としては、かなり物足りなかった。
さて、逆にこいつらの有り金奪ってやろうかと思い、少年の脇にしゃがみ込もうとしたが、ぴたりと動
きを止める。次いで、吹っ飛ばした男の方を横目に見た。
「いちち……。やれやれ、いきなり仕掛けて来るとはなぁ」
「喧嘩は先手必勝だろ? それにしても驚いた。見た目通り頑丈だなぁ、あんた」
痛いと云いつつ、あっさりと立ち上がった男を見ながら、九割の感心と一割の呆れを持って、晴佳は
ため息をついた。
「全力で蹴り上げてやったのに……」
「確かに凄い力だったなぁ。今ほど体を鍛えておいて良かったと思った事はないぞ」
「そりゃ光栄だ。さて……」
先程は先制攻撃をすべく構えも何もなかった晴佳だが、今度は僅かに腰を落とし、左足を斜め半歩
ほど下げ、緩く握りしめた両拳を胸の辺りまで上げた。
「終わりにするか? それとも続行?」
「終わりにしたい所だが……ワシだけでなくガゼルにまで手を出されちゃぁなぁ。黙って行かせる訳に
はいかんよ」
男が両手の骨を大げさに鳴らす。本来この場面では警戒や緊張をすべきなのだが、晴佳は呑気に
昏倒させた少年を見、ガゼルと云う名前なのかと思っていた。
「ワシの名前はエドスと云う。お前さんは?」
「晴佳だよ」
「そうか。ではハルカよ。……覚悟を決めるといい」
「そいつぁこっちの台詞だぜ!」
またもや先手必勝とばかりに、晴佳は煉瓦製の地面を蹴り飛ばし、エドスへと飛び掛かった。
面倒事だと云うのに、晴佳は胸に溢れる高揚感を押さえる事が出来なかった。
*** ***
「つぅ……いてて、あの女ぁ……!」
意識を取り戻したガゼルは、首に手をやり、頭を振りつつ起き上った。
油断をした。相手は女一人と侮った。そう云った慢心は危機へと繋がる物だと知っていたはずだと
云うのに、エドスと一緒だったと云う甘えがあったのだ。己の未熟さに、歯を食いしばった。
エドスは自分より先に倒されたと云う事は、あの女はもう逃げたのだろうと思った。だが顔を上げれ
ば、驚いた事にエドスが女と戦っていたのだ。その事にも驚いたが、どう見ても女の方が有利な事に
もガゼルは驚いた。
エドスは見かけ倒しではない。見かけ通り強いのだ。後見人の元騎士には流石に負けるが、それで
も、この辺りのごろつきの中では一番強い。
それなのに女の方が押している。女一人と侮っていたが、むしろ逆であった事をガゼルは痛感した。
このような治安の悪い場所で、平然と一人歩き出来るほどの強者だったのだ、あの女は。
舌打ちと共に視線を落とせば、見慣れない鞄が無造作に置かれていた。あの女の持ち物だと気付い
たガゼルは、それをそっと引き寄せた。
こちらが勝てないならばそれでもいい。金さえ手に入れば構わないのだ。
誇りなど、当の昔に棄てている。今さら卑怯な真似をした所で、何だと云うのだ。女をエドスが引き受
けているうちに、とっとと用件を済ませてしまおう。
ガゼルはそう考えて鞄の蓋を開けて、
「……な、に……?」
その中にあった物を見て、硬直した。
視線が釘付けになる。鞄の中でもきらきらと光る、沢山の石。それを遠目に見た事が、ガゼルには
何度かあった。
そうだ、これは、憎いあの連中が、自慢げに持っていた――
目の奥が焼け付くように熱い。喉が渇いて来た。
(そうか……あの、女ぁ……!)
見慣れない服を着ていると思っていた。けれども、連中がこんな場所に居るはずがないと、思ってい
た。
自分の認識の甘さに反吐を吐きそうになりながら、ガゼルは投げナイフの柄をしっかりと握りしめた
のだった。
*** ***
久々の楽しい喧嘩に笑みさえ浮かべていた晴佳は、突如として膨れ上がった殺意に身を翻した。今
まで晴佳が立っていた場所をナイフが通過し、壁へ音を立てて突き刺さる。
避けていなかった場合を想像し、高揚していた血が冷えた。それはエドスも同じだったらしい。拳を構
えたまま、ぽかんとしていた。
「ガゼル……?」
晴佳から視線を外し、今まで倒れていたガゼルの方を見て、その名を呼ぶ。エドスを警戒しつつ振り
返り、晴佳はギクリと硬直した。
目が。
先程までには無かった、深い憎悪の色を宿して、晴佳を睨みつけていた。親の仇と云うのも生ぬるい、
濁りすぎて底が見えない憎悪を湛えた眼に、ぞくりと背筋が粟立つ。
「何やっとるんだガゼル! 流石に殺すのは……」
「てめぇ! 『召喚師』だったんだな?!」
「はぁ?」
エドスの言葉を遮り叫ばれた言葉に、晴佳は素っ頓狂な声を上げた。何故いきなり、そのような特殊
な職業扱いされるのか、理解が出来ない。
しかしそれと同時に、この世界には『召喚師』と云うファンタジーのような存在が居るのか? と冷静な
部分で考えていた。
「とぼけるんじゃねぇ! この『サモナイト石』は、お前らが化け物を呼ぶ道具だろうが!」
そう怒鳴りながらガゼルが突き出したのは、鞄の中に入れておいたあの石だった。
クレーターの中で拾った、きらきら光る綺麗な石。インテリアにしようと拾った物だ。
「おい、人の鞄勝手に漁ってんじゃねぇぞ」
「うるせぇ! 日頃の恨みだ! ぶっ殺してやるッ!」
「どんな短絡思考だ! って、危ねッ!」
投げナイフではない別のナイフを握りしめて、ガゼルが突然躍りかかって来た。咄嗟に避けるが、反
撃を許さない怒涛の勢いで攻撃が続けられる。その全てを紙一重で避けながら、晴佳は反撃の糸口を
探した。
幸いなのは、ガゼルの豹変に驚いたエドスが攻撃に参加していない事だろうか。それでも危険な事に
変わりはないが。
「……っ! 何だっつーんだよ! 俺は召喚師とか云う妖しい職業じゃねぇぞ!」
「許さねぇ……! お前らだけは許せねぇッ!」
「人の話聞きやがれ!」
会話の余地なしかと、半ばヤケになりながらナイフを持つ手を掴みに掛かる。とにかく、滅茶苦茶に振
られながらも、冷静にこちらの急所を狙う刃をどうにかしなければ、反撃のしようが無かった。
しかし、掴みに掛かった手は避けられ、逆に体当たりを食らわされた。相手の方が体は小さいが力は
予想外に強く、そのまま晴佳はバランスを崩し壁に激突した。堪らず尻餅をついてしまい、しまったと思っ
た時には遅く。
こちらの肩を掴んだガゼルが、高くナイフを振り上げていた。確実に胸を狙っている刃の煌めきに、目
を奪われる。エドスが叫ぶ静止の声が遠い。
殺されかけている現実に、またもや眩暈がした。
(何で、どうして、俺がこんな目に遭う?!)
人の命は儚い物だと、当の昔に知っている。何もしなくても人が不幸になる事も、知っている。瞬きした
その瞬間にでも、人は死ぬのだと知っている。世界の大部分が理不尽で構成され、納得できる事の方
が少ないのだと、晴佳は知っていた。
今まで沢山の人間を仕事の名目で殺めて来た。「法で裁けぬ悪を討つ」と云う御大層な御題目の元、
何人殺して来たかもう覚えてはいない。
いつか自分も殺されるのだと思っていた。人を殺した人間が、真っ当な死に方など出来ないと、分かっ
ていた。けれど、いざ目の前にその現実が来ると、あまりの”理不尽”さに怒りがこみ上げて来た。
時間にして一秒にも満たない。その一瞬に等しい時間で、晴佳の理性はぶっつりと途切れ、そして本
能の赴くままに、叫んだ。
「―――ふざ、け、んなアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!」
腹の底からの怒りを口に出した途端、体の奥が熱くなった。それと同時に、目の前が白い光に埋め尽
くされる。
「な……ッ?!」
「まずいッ!」
白い世界の中、裏返ったガゼルの声と、顔面を蒼白にしているだろうと予想出来るような焦ったエドス
の声が聞こえた。
白い光が弾け、それに伴い、鼓膜を激しく叩く爆発音が響いた。
至近距離での光の爆発。だと云うのに、晴佳は自身が熱も風圧も感じておらず、光に目が焼かれてい
ない事に対して、驚いていた。
「ぐわあああァッ!」
野太い叫び声がした。その後、ずしんと大きく重い物が倒れる音もした。
光が消え去った後の、目の前には気を失い倒れているエドスが居た。見た所、外傷はない。胸も上下
に動いてるから、死んでもいない。光の爆発による何らかの衝撃で昏倒したのだろう。
その傍へ、ガゼルが血相を変えて駆け寄った。恐らく、エドスが彼を突き飛ばすか何かして庇ったのだ
ろう。得体の知れない光から庇われると云う事は、このガゼルと云う少年、よほど大切にされているらし
い。
「……エドス! エドスッ! ……よくもやりやがったな! 絶対に許さねえッッ!」
またもやナイフが振り上げられた。だが晴佳の体は謎の虚脱感に包まれており、動く事が出来ない。
それでもせめて、目を閉じまいとしていた所に、
「そこまでだ、ガゼル!」
視界の端より伸びて来た手が、ガゼルの手を強く掴んだ。驚いたのは晴佳だけではないらしい。ガゼ
ルも大きく目を見開き、手の主を見ていた。
「レ、レイド……?! 何でだよ! こいつは『召喚師』で……、しかもエドスを!」
「……黙認していた事がアダになったな」
レイドを呼ばれた男は、陰鬱気味なため息をついた。それから力を入れた、硬質な声を出す。
「お前こそどう云うつもりだ、ガゼル! 女性を標的にした挙句、こんな騒ぎを起こして! いくら此処が
下層とは云え、騎士団が来るだろう! 捕まりたいのか?!」
「ぐっ……!」
「それに、エドスならばちゃんと生きている。勘違いで人殺しをするつもりか?」
「……」
ガゼルは完全に黙った。俯いて、体の力を一気に抜く。それを見たレイドは掴んでいた手を解放する
と、事の成り行きを見守っていた晴佳に手を差し伸べた。
「……君、すまなかったね。立てるかい?」
「あ、はい……」
警戒心一つ持たず、晴佳はその手を取っていた。
レイドは、精悍な顔立ちの美丈夫だった。漆黒の髪と瞳、意思の強さを表すようなキリリとした眉毛、
すぅと通った高い鼻梁。鍛え上げられた隙のない体は、金をあしらった黒い鎧に包まれている。
腰に重たそうな剣を下げているが暴力性とは程遠く、紳士的な雰囲気と相まって、まるで騎士のよう
だ男だと晴佳に思わせた。
「……」
レイドは手を取ったまま晴佳を凝視していたが、ふいに視線を逸らすとガゼルを睨みつけた。
「とにかく、話も説教も後回しだ。急いで此処から離れよう。……君もついて来てくれ」
「え、でも……」
「おいレイド! 何云って……!」
「ガゼル。早くエドスを起こしなさい。多少乱暴にしても構わないから」
「ちっ……! くそ、分かったよ!」
悪態をつきながら、ガゼルはレイドの指示通りに動き出す。それを何となく見ていた晴佳に、再度レ
イドが話かけてきた。
「私の名前はレイドと云う。君の名前は?」
「晴佳、です」
「そうか。……見かけない格好をしているが、君はどこから来たんだい?」
「……」
問われ、答える言葉がない事を思い知る。
別の世界から来ました、なんて云って、誰が信じると云うのか。右も左も上も下も分からない世界で、
妙な事を云って排除されたくない。そんな本能的な自己防衛の心が、晴佳の口を重くさせた。
先程ガゼルが『召喚師』と云う単語を出していたが、それがどう云った職業か理解出来ない以上、不
用意な発言は出来なかった。
だんまりを決め込んだ晴佳に対し、レイドは無理矢理口を割らせようとはしなかった。小さく苦笑を漏
らされる。
「色々と事情があるようだね。もし良かったら、話してくれないか? 私でも、力になれるかも知れない
から」
「……」
それでも晴佳は黙っていた。けれど、手を振り払う事はしなかった。
会ったばかりの他人。しかも、自分を殺そうとした人間の仲間。だと云うのに、この人は信じられるの
ではないかと云う、甘い考えが湧きあがったのだ。
何故かは晴佳自身にも分からない。云うなれば、”女の勘”だ。
女の勘。自分にはとても似合わない言葉だと、胸の内で自嘲する。
(女の自分が厭なくせに、都合のいい……)
そう思いはしたが結局晴佳は逃げる事を選ばず、黙ってレイドに手を引かれて行った。
逆らう、と云う気持ちが湧いて来なかったのは、この意味の分からない虚脱感のせいだと誰かへ向
けて云い訳をしながら。
