「会えるのは、此れで最後になりますね」
 鈴を転がすような凛とした声で、彼女は云った。どこか寂しげな音を滲ませているように聞こえた
が、それは錯覚かも知れない。
 彼女に、自分が居なくなる事を悲しんで欲しい。その望み故に、彼にだけそう聞こえているのかも
知れなかった。
「……悲しんでくれるか、姉さん」
「まさか。貴方は此れから名誉ある儀式を遂行するのです。誉れと思う事はあれ、悲しむなど有り得
ませんわ」
 屹然とした声で答えられ、彼は少し顔を俯かせる。
 部屋は暗かった。明かりは無く、外で鳴り響く雷が時おり部屋を白く照らすだけであった。
 広々とした部屋には、生活に必要な物が最低限揃っている。一人で眠るには広すぎるベッド、勉強
机、衣類が入った箪笥、背の高い本棚は三つ。どれもが壁際に寄せられ、部屋の中央に空間を作っ
ている。
 その中央に彼は立ち、彼女は窓辺に立ち外を眺めている。枯れた木々と荒れた大地を見るより、
自分の方を見てほしいと彼は思ったが、口にはしなかった。
「今回の儀式はセルボルト家始祖からの悲願。私達の代で実行出来るとは、光栄な事ですね」
「……あぁ」
「貴方はその儀式の執行者。次代の王となるのです。恐れるなど愚かな事……。誇りになさい」
「……分かってるよ、姉さん」
 唐突に彼女は振り返った。キルカ布のような艶を持つ長い藍色の髪が、風をはらんで舞った。髪と
同じ色の大きな瞳が、彼を見据える。
「貴方は私達を蹴落とし、その座を得たのです。今さら、何を惑うと云うのです」
「惑ってなどいない! ……ただ」
 強く、手を握りしめる。
 彼は惑ってはいない。儀式を実行するために生まれ、育て上げられたのだ。それ以外の事は何も
教えられてはいない。
 儀式を確実に成し遂げる。それだけが、彼の存在理由であった。そして、彼女にとっても。
「……まぁ、良いでしょう。貴方の心を疑うなど、私も愚かな事を思ったものです」
「……」
「……そろそろ出発の時間ですね。もう、お行きなさい」
「……あぁ」
 囁くような声で返事をし、彼は扉へと向かった。だがその途中、勉強机へと向かった。
「……何です?」
「いや、一つだけ忘れ物」
 一番上の引き出しを開き、羽ペンやインクに紛れていた小さな巾着を取り出した。それを見て、彼
女は軽く目を見開く。
「……まだ持っていたのですか。そんな物」
「俺にとっては、大事な物なんでね」
 そう云いながら、彼は無造作に巾着をズボンのポケットに突っ込んだ。
「此れがあれば、何でも上手く行きそうな気がするんだ。……お守りってやつかな」
「……」
「それじゃぁ、行ってくるよクラレット姉さん。キール兄さんとカシス姉さんにも宜しく云っといてくれ」
 彼女は何も云わなかった。彼は苦笑すると、そのまま部屋を出た。
 これが今生の別れだと、彼も彼女も、信じていた。決められた道が違える事などないのだと、信じ
込んでいたのだ。
 だから、彼には分からない。
 これから出会う”パートナー”の存在が、彼の救い主であったのか、それとも、奈落の底へ誘う悪魔
であったのか。
 長きに渡り、彼は悩み続ける事になる。長く長く、――終わりの、直前まで。



 第0話 プロローグ − Who's Calling me? −



 お決まりのチャイムが鳴る。聞き慣れ過ぎたそれの後に、感情を込めない女性の声が続く。
『下校時刻になりました。用の無い生徒は速やかに帰宅して下さい――』
 その声を聞きながら、少年――いや、少女は一人、夕陽の色に染まった教室に居た。己の席に腰
掛け、机の上には荷物を纏めた革の鞄を置いて、ぼんやり窓の外を眺めている。
 少年と見紛うほど中性的な雰囲気を持つ、恐ろしく顔立ちの整った、十六、七の少女であった。
 短く切り揃えられた髪は緑がかった黒色。重たそうな色をしているが、窓から風が入る度に、さらさ
らと絹のように揺れていた。女性にしては太く凛々しい眉毛と、その下にある鋭い瞳が、彼女の気の
強さを表している。肌は健康的に焼けているが、荒れた所は見当たらない。瑞々しい、若い娘の肌に、
見る者は触れたいと云う衝動に駆られるだろう。
 豊満な体を包む制服は何故か男子生徒が着るような詰襟であったが、腰の辺りが絞られていた。ま
るで、彼女のために拵えたかのようだ。
 ぱっと見れば、日本人だと云う事がすぐに分かる。美しい顔立ちも、肌や髪の色も和を連想させる物
だからだ。
 だが、目の色だけが違っていた。純日本人だろうにも関わらず、彼女の眼は鮮やかな青色をしてい
る。夕陽にキラキラと光る眼球は、まるで大粒の宝石のようだった。
 ふと、少女が顔を窓から逸らした。見つめる先は、教室の前方にある出入り口である。
 彼女が見つめる事十秒後、からからと引き戸が開き、男女一組の生徒が入って来た。
「あれ? 晴佳さん?」
「鳴瀧君、まだ帰ってなかったのかい?」
 豊かな黒髪に清楚な顔立ちの少女――樋口綾が小首を傾げて云い、詰襟のよく似合う精悍な顔立
ちの少年――深崎籐矢がにこりと笑みを浮かべて問うた。
 どちらも絵の中から出て来たのかと錯覚してしまうほど、整った顔をしていた。
 鳴瀧晴佳と呼ばれた少女は、口の端を僅かに吊り上げ、シニカルな笑みを浮かべる。
「あぁ、ちょっとね。二人は生徒会かな?」
「そうなんです。今度の球技大会についての話し合いがあって……」
「ソフトボールを無くすか否かで、先輩方が熱くなってしまってね」
「それは大変だったな」
 わざわざ側へと来る二人に、晴佳は少なからず苦い思い噛み締めた。出来る事ならば、放っておい
て欲しかったと思うが、人が来る所に居たのは晴佳の方である。二人を責めるのはお門違いと云った
ところだろう。冷静に考え、晴佳はしばし我慢する事を選んだ。いつものように、穏やかな声で喋る。
「あ、晴佳さんはどうですか? ソフトボール、無い方がいいのでしょうか?」
「んー。俺は見てる分には好きだからなぁ。あった方がいいや」
「見てる分には?」
「そ。女の子たちが頑張ってプレイしてる姿を見るのが好き」
 云えば深崎が、「またそう云う事云って」と苦笑した。逆に樋口は「晴佳さんらしいです」と云いながら、
くすくすと鈴を転がすような声で笑った。
「籐矢君はそう思わないか? 例えば、綾ちゃんが必死になってボール追いかけてる姿とか、可愛い
と思うだろ?」
「そうだね……。僕も頑張ってる姿を見るのは好きだな」
 そう云って深崎は人好きする笑み浮かべた。その隣で樋口が、頬をぽっと赤らめた。
 分かりやすい構図に、晴佳は目を細める。傍から見れば、笑みを浮かべているような表情だった。
「そう云う訳で、俺はソフトボール存続に清き一票だ。先輩方に伝えておいてくれよ」
 鞄を手に立ち上がれば、聡い二人は引き留めた事を謝罪して来る。それに気にするなと笑って、晴
佳は深崎の隣をすり抜けた。
「それじゃ、生徒会期待の新鋭さん方、我等の楽しい学園生活の為に頑張ってくれたまえ」
「はは、出来うる限りの事はさせて貰うよ」
「私も期待に応えられるよう、頑張りますね」
 ひらひらと手を振り合いながら、三人は別れた。晴佳は軽く口笛を吹きながら「青春だねぇ」などと嘯
く。
 赤い廊下を歩み、玄関を出、校庭を横切る。その途中、グラウンドを走っているクラスメイトを見つけ
た。
 バスケ部の新堂隼人と、バレー部の橋本夏美だ。
 新堂は高校生男子にしては小柄な体と幼い顔立ちの明るい少年で、橋本は短くした茶髪がボーイッ
シュな印象を与える愛らしい少女だ。
 夏の大会へ向けて体力を強化しているらしい。汗を流しながら走る姿を眺めていたら、あちらも晴佳
に気付いたらしい。周りに声をかけてから、走り寄って来た。
「よ、晴佳! 今帰りか?」
「おう。精が出るなぁ隼人」
「こんな遅くまで居るなんて珍しいね! 居残りでもさせられてたのー?」
「ははは。夏美ちゃんじゃないんだから」
「どう云う意味?!」
 ぷく、と両頬を膨らませる幼い仕草が愛らしい。真っ当に愛され、健やかに育っている証拠だ。
「そりゃ、俺はこう見えて成績優秀な模範生ですから」
「本当詐欺だよねー。校則は守らないで男子制服、授業中はしょっちゅう寝てるのに、二十位以下に
ならないんだもん!」
「また今度勉強見てくれよ! 今度の小テストで八十点取らないとやばいんだ俺〜!」
「ははは、了解。って、二人とも、そろそろ戻らないと不味いんじゃないか?」
 云えば二人揃って「ヤバ!」と云い、顔を見合わせた。雰囲気が似ているせいか、まるで兄弟のよう
だと晴佳は笑う。
「それじゃぁ、また明日な晴佳!」
「まったね〜晴佳君!」
「おー。二人とも頑張れよー」
 互いに手を振り合い、彼らとも別れる。仲間に合流し、小突かれたり叩かれたりしてじゃれ合ってい
る様を見てから、家路へと着く。
 橙色の世界、アスファルトを踏みしめる。背中を追って来る明るい笑い声を、少し前まで微笑ましく
思っていたはずなのに、今の晴佳には少しばかり忌々しく感じられた。

 *** ***

 自分は幸福である、と、晴佳は幾度も自分へ云い聞かせている。
 遺伝子の源である両親は既に無いが、養父は「親友の子だから」と云ってとても良くしてくれている。
 衣食住の心配などした事はなく、充分過ぎる教育も受けた。今通っている高校は養父が経営して
いる所だから、校則を破り男子の制服を着ても許される。
 そう、例え、養父――家の家業が「暗殺者」などと云う、漫画が映画で使われるような設定であって
も、物心つく頃には血反吐を吐くような鍛錬をさせられても、若い身空で人殺しなどさせられていても、
幸せであった。幸せだと思わなければならないのだ。
 後ろを振り向いてはいけない。周りを羨んでもいけない。道を踏み外し、立ち行かなくなってしまう。
 だから晴佳は、何度も自身へと云い聞かせる。自分は幸福である、自分は幸福である、自分は幸
福である、幸福なのだ、なんら不幸ではない、幸せだ、そう云い聞かせる。
 現に、今の生活に不満はない。
 高校入学から一人暮らしを許され、自由気侭に恋人たちと戯れ、学校では気の合う友人らと仲良く
やっている。
 上手にやっている。自分の人生は間違いなく勝ち組だと、理解している。
 けれど、時折どうしても、虚しくなるのだ。
 ――心底惚れ抜いた男一人、引き留められぬ自分は、本当に幸福なのだろうかと。
 棄てられて早三月経つが、未だに途切れぬ未練に深いため息が出る。あれほどまでに強く他人を
想った事など無かっただけに、後ろ髪をぐいぐいと引かれ続けるのだ。
 恐らく、あの男に恋人が出来ても、結婚し妻との間に子を成しても、この未練は途切れぬに違いな
い。そう考えて、晴佳はまた深いため息をついた。
 いっそ、今の幸福な人生を棄て、友を棄て、家を棄て――何もかも棄てて別の場所へ行ければ、こ
の未練も終わりを告げるだろうになと、出来もしない事を考えながら。

 *** ***

 気付けば晴佳は、近所の公園へと来ていた。幼い頃、年下の幼馴染と来ていた遊び場だ。今でも時
折来てはいたが、意識せずに辿りついたのは初めての事だった。
 それほどまでに、家に帰りたくないのだろうか。まだあの男の匂いが残るマンションの一室。彼が使っ
ていた物を後生大事に取っておくのがいけないのかも知れないと、肩を落とす。あまりの未練がましさ
に、自分自身に鳥肌が立った。
(……このままだと、ストーカーになるかも知れない)
 そう考えて、晴佳は身を震わせた。それは宜しくない。非常に宜しくない。そんな気持ち悪い自分、認
められない。
 首を左右に軽く振ってから、晴佳は公園隅のベンチへと腰を降ろした。最近ペンキを塗り替えたばか
りのそれは鮮やかな青色だったが、晴佳自身は前のくすんだ赤色の方が好きだった。幼い頃から見て
いたから、そちらの方が慣れていたのだろう。青色に変わると同時に、思い出も塗りつぶされたような
気分になったのだ。勿論、そんな事はないのだが。
 幼い頃、幼馴染と此処に来れた日はへとへとになるまで遊び、自分以上にくたびれた幼馴染をベン
チに寝かせ、膝枕をしてやったものだ。膝に甘えながら舌ったらずな声で「はるねぇ」と呼ぶ様が、とて
も好きだった。この年になってからはそうやって甘えてくれなくなったが、呼び名は変わらず、それを晴
佳は馬鹿みたいに喜んでいる。
(久々に顔が見たいなぁ……)
 この前中学生になったばかりのせいか、幼馴染は忙しいらしい。小学生の頃から通っていたサッカー
クラブにも力を入れていると云うし、呼び出すのも野暮な気がしていたが、今度の休みに一緒に遊ぼ
うと誘ってみようか。
 無邪気なあの子を見たら、このもやもやした気分も無くなるような気がしたのだ。
 そうと決まれば善は急げ、家に帰って電話をしようと立ち上がった所で、頭に軽い痛味を感じた。偏
頭痛だろうかと額に手をやる。当然、それで症状が良くなる事はなく、耳鳴りまでしてきた。
「いってぇ……何だってんだ……」
 健康には自信があったがため、苛立つ。せっかく気分転換を思い付いたと云うのに、ケチが付いて
しまった。
 とにかく家に帰って薬でもと考え、一歩踏み出した所で、
 ――助けて……。
 掠れた、少年の声が頭に響いた。
 助けを求める声に慌てて周囲を見回すが、公園には誰もいない。シンと静まり返ったままだ。
「……幻聴、か……?」
 それにしては生々しい声だったが、姿が見えない以上、現世(うつしよ)の声ではあるまいと晴佳は
見切りを付けた。けれど、それを引きとめるかの如く、再度声がした。
 ――誰か、助けて……。
 肩が大きく跳ね上がる。
 懸命に意識を逸らしていたが、これはもしや、幽霊などのオカルトの類ではないだろうか。その手
の連中とは縁がありすぎるため、私生活では関わらないようにしていたと云うのに。跳ね上がってい
た肩を今度は落として、晴佳はため息をついた。
 こう云うのは無視するのが一番だと思い、歩き出そうとした所で、頭蓋骨を直接金槌で殴り付けた
かのような痛みが襲って来た。
「ふ……ざけんなよ、畜生……っ!」
 何がなんでも引き留めるつもりらしい。腹立たしく思い、歯軋りをした。
 ――どうして……俺は……そんなつもりじゃ……っ!
 少年の声が上ずっている。どうやら、こちらを意識しての声ではないようだ。晴佳にではなく、他の
何かに感情を向けていた。
「迷惑な、奴だな……! 俺を、巻き込むな、ってんだ……!」
 精一杯吐き捨てて、一歩踏み出した所で、
 ――助けてくれ! 頼む、誰でもいい! 誰でもいいから!
 必死な声に、動きが止まる。まるで、自分へ助けを乞われたかのような錯覚が、全身を包んだ。
 痛む頭をそのままに、虚空を見上げる。
 橙色の空、淡く夕陽に染まった雲、視界の端には、静かな街並み。誰も居ない。きっと、声の主も
晴佳の存在を意識してなどいない。少年は誰でもいいと云った。それは、晴佳でなくとも良いと云う
事。今この声を聞いているのは晴佳だが、それは偶然に過ぎない。少年が助けを求めた声が、た
またま晴佳へと届いた。ただ、それだけの事。
 それなのに晴佳は、胸を焼くような感動を覚えていた。他人に必要とされる事。それは晴佳にとっ
て何より重要な事だったのだ。
 口を開く。唇も喉も渇いていた。けれど、声は、出た。
「……俺で、良いと云うのなら」
 虚空へ、手を差し伸べる。まるでそこに、声の主が居るかのように。
 正気の沙汰では無かった。恐らく、頭痛と耳鳴りに浮かされての事だった。けれど晴佳は残された
正気を持ってして手を差し伸べ、見えない相手へ微笑みかけた。
「君の、助けに、なるよ」
 一言一言区切りながら、はっきりと言葉にした。少年に届くように、悲しみに暮れる少年を勇気づ
けるがために。
 頭痛と耳鳴りが一層激しくなった。
 声が響く。少年の、悲痛な声。
 ――助けて……お願いだから……――を、……!
 突然、視界が真っ白になった。真正面からスポットライトを当てられた感覚とでも云おうか。橙色の
空も、淡く夕陽に染まった雲も、街並みも消え失せた。
 晴佳が最後に聞いたのは、
 ――助けて……――様……。
 悲しみに満ちた少年の声。今にも泣き出しそうな、哀れな声だった。
 晴佳はただひたすらに、少年の側に行きたいと願った。その瞬間、確かに晴佳は他の事など全て
忘れ、声の主の事ばかり考えていた。
(泣かないでくれよ。俺が、助けてみせるから)
 そこでぷっつり、意識が途切れた。

 *** ***

 彼は助けを求めた。
 巨大な力に押しつぶされそうになりながら、それでも手を伸ばし、救い手を求めた。
 願い、祈り。
 それはこの世界に置いて、何ら効力の無い物である。何故ならこの世界には「神様」が存在しない
のだから。遠い遠い昔に、この世界を見捨てて”帰って”しまったのだ。
 無意味な行為。それを彼は何よりも嫌っていた。
 けれどこの土壇場になって、彼は求めてしまった。願ってしまった。祈ってしまった。
 救いの手を。
 誰でも良いからと、助けてくれるのであれば、何でも良いのだと。それこそ、藁をもつかむ思いで、
祈り、願い、求めた。
 叶うはずのない無意味な物。けれど、嗚呼、けれど、「神様」は、彼の願いを叶えてくれたのかも知
れなかった。
 遠のく意識の中、男にしては高く、女にしては低い声が、耳に届いた。
 ――俺で、良いと云うのなら。
 霞む視界に、彼へと向かって手を差し伸べる人影を見た。やはり、男か女か分からない。
 その姿を見て彼は、ある本の一節に、「神とは無性別、または、両性である」と記されていた事を思
い出した。
 ――君の、助けに、なるよ。
 目を見開く。涙が溢れそうになった。
 届いたのだ。彼の願いが、祈りが、求める物が。
 救いが、彼の前に、舞い降りたのだ。
(助けて……お願いだから……姉さん達を、……!)
 歯を食いしばって、その人影へ向かって手を伸ばした。あの手を掴む事さえ出来れば、救われるの
だと約束されているかのように。
(助けて……)
 届くか、届かないか、その刹那に、
(神様……!)
 彼の意識はぷっつりと、途切れた。

 *** ***

 目覚めた時、晴佳は、
「……は?」
 巨大な穴の底に居た。
 穴と云うより、クレーターと云った方が良いかも知れない。口は広くて底は狭い、すり鉢のような形の
穴だったからだ。半径は優に五十メートルはあるだろうか。こんな巨大な穴が、東京の都心近くにあっ
て良いのだろうかと、混乱した頭で晴佳は考えた。
 まずは夢である事を疑った。何故なら晴佳は市民公園にいた訳で、その側にこのように巨大な穴は
無かった。無い、はずだ。あの辺りは住宅街で、こんな穴があったら間違いなく埋め立てられている。
 試しに、己の頬をつねってみた。
「……いてぇ」
 当たり前のように、痛かった。痛む頬を擦りながら周囲を見回し、土の壁以外見えない事を確認し
てから晴佳は立ち上がった。
 順を追って、思い出してみる。
 だらだらと校舎に残り、友人らと適当に会話をした後帰宅、その途中、市民公園へ寄りベンチに座っ
てぼんやりして、急に幼馴染に会いたくなったから電話しようと決意、帰る為に立ち上がった所で頭
痛を感じ、次いで耳鳴りがした後、声が――
「そうだ。あの子、大丈夫かな……」
 最早晴佳の中で、声の持ち主は現実の存在となっていた。それほどまでに、悲痛な声だったのだ。
 また周囲を見回し、足元にあった鞄を掴むと、勢いを付けて緩やかな坂を駆け上る。ブーツであっ
たため足が土に沈み込み、少し手古摺った。だが、そのお陰か、妙な物を見つけた。
「なんだ、これ。……宝石、か?」
 均一の大きさの石が、いくつも散らばり土を被っていた。人差し指の一関節分と云った大きさのそ
れは、日の光を浴びてキラキラと光っている。色はざっと見た所、白、黒、赤、紫、緑の五種類。
 女らしさには程遠い晴佳であったが、綺麗な物は好きだった。せっかく見つけたのだからと、幾つ
か石を拾い集め土を払い、鞄に放り込む。部屋のインテリアに使えるかも知れないと、呑気な事を
考えていた。
 その楽天的な考えは、長くは続かなかった。
「……は?」
 二度目の、間の抜けた声。だが、それ以外言葉が出なかった。
 上り切って見れば、周囲はだだっ広い荒野。どこまでもどこまでも、枯れた大地が続いている。大
小の岩とひ弱な植物がアクセントを加えているが、それだけの事。何の役にも立たない。此処は、
荒野以外の何物でもなかった。
「落ち着け……落ち着くんだ俺……! 落ち着いて素数を数えるんだ……!」
 そう思いはしたが、混乱のあまり素数自体が思い出せない。
 一度目を閉じ深呼吸をする。瞼を開けば、元の市民公園がある事を祈ってはみたが、景色は変わ
らない。荒野のままだった。
「……どうなってんだよ!」
 思わず、晴佳は怒鳴った。誰へ向けてでもないが、怒鳴らずにはいられなかったのだ。
 いくつか、理由をこじつける事は出来る。
 とても厭な想像だが、此処は東京葛飾区市民公園で、晴佳が気を失っている間に周囲の建物が
全て滅んだか、もしくは、誰かが気を失っているのを良い事に、この荒野へと連れて来たと云う二つ
の可能性だ。
 可能性としてゼロではない。ゼロではないが、その二つのどちらかであっても厭な事に変わりはな
かった。特に前者。滅んだとか、冗談ではない。東京の一部地域が壊滅するなど、世界的ニュース
になってしまうではないか。
 いや、それよりも、あの市民公園近くには知り合いが多々住んでいるのだ。仮に前者であったなら
ば、彼らの安否は絶望的ではないか。それに、建物を崩壊させるほどの出来事があって自分一人無
事だと云う事も解せない。と云う訳で前者はなしだ。有り得ないと、晴佳は結論付けた。
 だが後者だったとしても、妙な話だ。鳴瀧家の人間である晴佳を誘拐したいだろう連中は大勢いる
だろうが、荒野に放り出して行く事が理解出来ない。連中にとって晴佳は、金の卵を産むガチョウの
ような存在なのだ。利用価値はいくらでもある。上手い事誘拐出来たのならば、どこぞへ監禁する方
が自然だ。
 では何故なのか。自分の身に、一体何が起きたと云うのか。
 己の想像を絶する事態に眩暈を感じ、ふらりと半歩下がった。途端、踵に何かがあたった。石、で
はない。柔らかなそれに驚いて振り向き、晴佳は息を飲んだ。
 人間の死体が、そこにあった。
 うつ伏せになっている上、全身を濃紺の布で包んでいるため顔は分からない。だが、死んでいる事
はわかった。晴佳でなくとも、小学生でも理解出来ただろう。
 その人間は腹から大量の臓物を溢れださせたいたからだ。まるで、強引に引き千切られたかのよ
うに体が裂け、肉片や血を惜しみなく晒している。
 そうなると、先ほど踏んだのはこの人間の内臓だったのかと、晴佳は頭の冷めた部分で考えた。胸
糞悪くなる考えに、顔が歪んだ。
 死んでいるのは一人ではない。周囲には点々と死体が転がっていた。ある者は頭が潰れ、あるも
のは四肢が千切れ、どう考えても死んでいるだろう姿でそこにあった。
 途端、悪臭を感じた。血と、臓物と、排泄物と、死体の臭い。何故か今の今まで、少しも嗅ぎ取れな
かった。五感は生まれつき鋭く、訓練もしているから常人とは比べ物にならないくらい良いと云うのに。
それほどまでに、混乱していたのだろうか。
 胃袋が、キュウと引き絞られた。嘔吐感がせり上がる。だが晴佳は、気合いを持ってしてそれを封
じ込めた。
 暗殺者として教育され、既にプロとなっていた職業意識が、死体を見た事で嘔吐すると云う行為を
本能から拒絶したのだ。
「……」
 胸元を握り絞め、晴佳はぐっと息を詰める。それからおもむろにしゃがみ込み、数多の死体へ向かっ
て手を合わせた。
 数秒の黙祷を捧げ立ち上がった時、晴佳の頭はすっかり切り替わっていた。
「……行くか」
 理解は追いついていない。何故自分が此処に居るのかも、知らない。何も分からない事だけが分かっ
ている、そんな状態だった。
 けれど此処に居るのは宜しくないと、その程度の事は知れた。彼らが何故死んだのか、どうして凄惨
な様で死んでいるのか、わからない。だが、このまま此処に居て、彼らを殺したと疑われる事が厭だっ
た。自分の預かり知らぬ所で死んだ連中の死まで背負ってやれるほど、晴佳は強くなかった。優しくも
なかった。
 だから、見過ごす事を選んだ。墓を作ってやる義理もない、死を知らせる義務もない、生存者が居る
か確認する余裕も無い。
 こんな場所へ突然放り出された憤りだけが、胸にあった。
「……っ」
 下唇を噛みしめ、死体らへ背中を向けて走り出す。
 何もしていない。した記憶もない。それを自覚していると云うのに、その姿は、逃亡者の其れだった。

 *** ***

 目を覚ました時、一番最初に見えた物は青空だった。
(生きて、る)
 彼はまず、己が生きていた事に驚いた。
(……自我が、ある……?)
 次いで、自分が自分である事に、驚いた。儀式が成功すれば、彼と云う人間は全て押し潰され、塗
り潰され、存在する事は許されないのだ。
 だから彼は至極冷静に、儀式の失敗を痛感したのだ。
 その瞬間胸に湧き上がった感情は、絶望の其れだった。
 確かにあの時、救いを求めた。だが、”失敗したい”と思った訳でもなかった。そう思うには、施され
た教育が強すぎたのだ。
 この儀式を成功させるためだけに、彼は存在していると云うのに。
(あぁ、でも、失敗して、当然、だったの、か……)
 迷った己が悪いのだと、彼は悟った。迷いは失敗へ直結するものなのだから。
 一度目を閉じ、深い呼吸を三度繰り返して、彼はしっかりと目を開いた。視界いっぱいに広がる青
空に、世界が壊れていない事を再度知る。
 失敗したで終われない。再度儀式を行えるようにしなくてはならない。それが許されるかどうか彼に
は分からないが、何もせずこのままで居る訳には行かなかった。
「……?」
 起き上がろうとして、己の上に何か重い物が乗っている事に彼は気付いた。緩慢な動作で腹の上を
見れば、死体が一つ、乗っている。砕けた岩の破片が背中に刺さっており、それが死因だと容易に知
れた。
 彼にとって幸いだったのは、その死体からあまり血が出ていない事だった。服が汚れていない事に
安堵する。儀式用に誂えた物で、それなりに値が張るのだ。
 今は死んでいる人物のお陰で命拾いした事は理解していたが、死者に感謝する気にはなれない。荒
い動作で死体を落とし、ようやっと上半身を起こせば、遠くに人影が見えた。
 こちらに背を向けて走り去って行く姿に、何故か心臓が軋むような痛みを覚える。
 錯覚だと頭を振り、もう一度人影を見るが、儀式の参加者なのかも只の通りすがりなのかも分から
ない。
(あの方角は……工業都市、サイジェント、か……)
 この周辺にある唯一の街である。儀式の場所から遠くはないが、近くも無い。そもそも、この辺りは
枯れた土ばかりがある荒野。野盗や”はぐれ”も出る為、サイジェントの住民はまず近寄らない。街周
辺の治安維持に熱心ではない領主のせいで、騎士団もこちらへ出向く事はまず無いのだ。
 ならばあの人影は何者なのか、今の彼には判断出来ない。だが、見過ごす事も出来なかった。
 彼はおもむろに立ち上がると、すぐ様人影と同じ方向へ走り出した。

 *** ***

 永遠に続くかと思われた荒野は、唐突に終わりを告げた。大地にくっきりと、茶色と緑色の境界線
が出来ている。
 だが、晴佳の目を奪っていたのはその境界線では無く、目の前に現れた巨大な建造物であった。
「城壁……だよなぁ?」
 見上げながら、茫然としたように呟く。
 円柱状の高い高い”見張り台”の間に、これまた高い壁が嵌め込まれている其れは、どう考えても
中世ヨーロッパに見られた城壁だった。現在のヨーロッパでもあるにはあるだろうが、少なくとも、現
代日本にはない。
(……人、いるよな……とりあえず、現在地を確認しなきゃなんねぇ訳だし……どっか、入れる場所
ねぇかな……)
 とりあえず晴佳は、自身から見て右側へ向かって歩き出した。壁に沿って、と云うより、城壁を囲
む掘りに沿ってだ。
 歩いている途中、下水管らしき物から直接汚水が掘りに流されているのを見て、眉間に皺を作る。
(下水道の管理がなってねぇな。生活水準は低そうだ)
 冷静に、そのような事を考えた。そのまま歩いて行くと堀が途切れ、舗装された道、幅の広い線路
が見えて来た。その向こうには大きな門が構えられており、詰め所らしき建物があった。その側には、
白い甲冑に身を包んだ男たちがいる。
 大きな門――城門とでも云うべきか――を木陰から観察していた晴佳は、ひやりと汗を掻いた。
(あんな格好した現代人が居るか!)
 その手のテーマパークや、ヨーロッパの観光地では有り得るかも知れない。だが、あそこまで硬い
雰囲気を醸し出し、強い表情で道を歩いて来る人々を睨み回すなど、ある訳がない。ヴァチカンじゃ
あるまいし。客商売なのだから、笑顔は必須なはずだ。
 手にしている物も、槍や剣などと云う古めかしい武器だ。刃の輝きを見る限り、イミテーションには
見えない。
 そもそも観光地であるならば、あのように杜撰な下水管理などする訳がないのだ。
 懸命に目を逸らして来た。
 だが此処に来て、それは許されない事を、晴佳は思い知る。
(此処……日本、どころか、地球でも、ねぇだろ……)
 大きな絶望感を胸に、晴佳は愕然としたのだった。