夜の裏庭に、うわぁんうわぁんと、まるで幼い子供のような泣き声が響く。
 でも声は低く、下級生ではないと容易に知れた。

 上級生でこんな、子供のように泣く人は――七松先輩、かぁ。


 正直、七松先輩は苦手だ。
 好きではない、と云った方が正しいかも知れないが。

 何故なら七松先輩は、千草先輩にとって大切な人間の一人だからだ。

 千草先輩本人に云えば、「気色悪い事云うな」って否定するだろうけど、事実だ。
 あの人は友達とか仲間とかを、人一倍大事にする人だから。
 それで痛い目に何度も遭ってるのに、懲りる気配は一向になかった。
 ……俺も、人の事云えないけど。


 ちょっと千草先輩の寝顔を見て行こうと思ってただけなのに、面倒な事に遭遇してしまった。
 バレないうちに退散しよう。
 これでも侵入術は学年上位なんだ。
 六年生とは云え、あんなに取り乱してる相手に見つかる訳がない。

「ど、しよ、どー、しよ、ちょーじぃ……!」

 くるりと踵を返したと同時に、切れ切れの声が届いた。
 その声は普段の明るく張りのある声とは全く違い、哀れみを誘う。

 あぁ、そう云えば、七松先輩があんなに泣くなんて、どうしたのだろう。
 七松先輩が泣く時は、大抵、体育委員会の後輩か、同輩の方々が関わってて――


「ちーちゃん、わた、したち、より、ゆめさん、好きに、なっちゃった、んだ……!」


 ぴたりと、足が止まる。
 七松先輩の言葉を頭が理解するより先に、体が理解して、歩みを止めた。


 今、なんて?
 七松先輩、今、なんと仰いましたか?
 千草先輩が、貴方たちより、花都を好きになったと、云いましたか?

 そんな、馬鹿な、事。

 だって、千草先輩と七松先輩、中在家先輩はもう五年以上の付き合いになって、背中を預け合う
ような仲で、自他共に認めるガチ友で、以心伝心な間柄で。
 俺がどれだけ望んでも立てない場所に、七松先輩と中在家先輩はずっと前から居るのに。
 千草先輩の隣に、立ってるのに。


 それなのに、あの女に負けたって云うんですか?
 あの女の方が、千草先輩に愛されてるって、云うんですか!


 冷や汗が、背中を伝う。

 予想は、していた。
 千草先輩があの女に優しくしている所を見てから、俺なんかより、あの女を好きになってしまうん
じゃないかって、そんな予想をしていた。
 それくらい、俺の存在はあの人にとっては軽い。

 団蔵は、いい。
 孫兵だっていい。
 後輩の一年達だっていいし、本当は癪だけど、七松先輩や中在家先輩だって、いい。
 俺より愛されて、いいと思うし、当然だとも感じる。


 けれど。
 まさか。
 長年共に居た友人より、あの女を選ぶなんて―――ッ!

 あんな、女を。
 あんな、阿婆擦れなんかを!

 どうして!


「……っ」


 ぎちりと、握りしめた拳から、肉が軋む音がした。
 血が皮膚を伝う感触も、した。

 悔しさを、この惨めな思いを吐き散らかしたいのに、最後の理性がそれを止める。


 自分の存在が千草先輩にとって、毒にも薬にもならない存在だとは、知っていた。
 ただの、委員会の後輩。
 その他大勢、十把の一絡げ。

 けれど、先の事など分からない。明日はどうなるか、分からない。
 突然俺が、千草先輩の全てを理解出来るようになるかも知れない。
 先輩が俺の事を振り返って、見てくれるかも知れない。
 隣に立つ事を許されるかも知れない。
 背中を預けてくれるように、なるかも知れない。

 けれど、嗚呼、けれど。


 千草先輩の子供だけは、孕む事が出来ない。


 どれだけ望んでも、願っても、俺は男なのだから、孕めない。
 孕めないんだ。
 あの人の子供を、絶対に、孕めない、産めない。


 なぁ、それがどれくらいの絶望か、生まれながらの女であるお前に、分かるのか?


 俺が女であれば、俺に子宮があれば、孕めたかも知れない。
 千草先輩は大層女に甘く、優しい人だから、情に訴えて、貴方の子が欲しいのだと願えば、抱いて
貰えたかも知れない。
 子を、孕ませて、貰えたかも、知れな、くて。


 握りしめていた拳を解く。
 ぽたぽたと血が滴る手は、無骨な男の手。
 日に焼けて、傷だらけで、皮は厚い、男の手だ。
 千草先輩の手も、俺と同じ。
 俺よりも日に焼けていて、俺よりも傷が多くて、俺よりも皮が熱くて、俺より大きな男の手だ。
 あの手に握られる手は、同じような手ではなくて、きっと、白くて、細くて、柔らかく、傷一つな
い、美しい白魚のような、あの女の手の方が、似合うのだろう。


 涙が出て来た。
 七松先輩のように大声は上げないけれど、次から次へと流れ落ちて行く。

 なぁ、最初から、望みなんてないって知ってるよ。
 知ってたんだよ。
 俺が好きになった時にはもう、あの人には絶対があって、両隣には七松先輩と中在家先輩が居て、
背中には孫兵がくっ付いてて。
 それでも、せめて、その他大勢の人間よりは側に居たいと、同じ委員会に入ったんだ。
 孫兵や動物にばかり構っていて、俺には挨拶と伝達事項とお叱りの言葉くらいしかくれなかったけ
ど、凄く幸せだった。
 それ以上望むなんて、大それた事考えられなかったのに。


 気付かせて、くれるなよ。


 歩みを再開し、素早くその場から離れた。
 足音一つ立てない、布ずれの音だって、当然。
 二度目になるが、俺は侵入術学年上位者なんだから。



「それは大事すぎて贖う事すら赦せないモノだ」



 この上愛情まで奪っていくだなんて、そんな事、許せるはずもない。

(女と云うそれだけで、俺より優位に立てるあの阿婆擦れ! どうして生かしておけようか!)



 了


 ……あれ? 最初の予定と違ってしまったが……まぁいいか。(おい)
 落ち着け竹谷ー! このままじゃ千草、結婚も出来ん!(爆) まぁ最後は孫兵がかっさらうから
いいかも知れませんが。←

 まぁようするに。
 可愛い後輩達や認めてる先輩にならいくらでも持っていかれていいけど、あんな”女”と云う一点
でしか優れていない阿婆擦れに奪われるなんざ我慢できねぇ、って事でしょうね。
 竹谷、落ち着け。^^


 配布元:Abandon