義姉上が泣いていらっしゃる。
 延々と、延々と、義兄上の名前を呼び、力のない手を握りながら、泣いていらっしゃる。
 僕はそれをしばし見つめてから、静かに、退室した。


 義兄上が大怪我をされた。
 お腹をぱっくりと、横に切られて。
 並外れた生命力が無かったら死んでいたと、新野先生がぽつりとこぼしていらした。


 沢山の血、鉄錆の匂いと、血肉の生臭さ。
 大声で泣く乱太郎達。
 歯を食いしばる左近先輩。
 泣きながら神仏に祈っていた三反田先輩と富松先輩。
 それを慰める二人の曲者さん。
 半狂乱になった義姉上と、必死に宥めながら、涙目になっていた五年生の先輩方。
 治療を終えてやつれた伊作先輩と、それを支える食満先輩。
 まるでお通夜のような空気の、くのたま教室と一年は組。

 僕はそれを、まるで、図絵を前にしているかのように、眺めていた。


 夢のように朧で、現実感のない出来事。
 義兄上が死にかけた事も、その理由が、曲者に斬られたからと云う事も。
 何もかも、嘘みたいで。
 涙一つ、出ない。


 そんな感情でその場に居る事が、とても不相応な気がして、僕はふらふらと学園を彷徨った。
 ぽつぽつと、皆が話している事が、耳に入る。


 ――曲者が。小松田さんが居ないから。それにしたって。五人も。五年生が斬られたって。誰。鳴
瀧晴次。あぁ、あいつ。死んだの。保健室凄い事になってるって。生きてるの。死んだの。死んだの。
何が狙いだった。天女様。天女様。天女様。花都夢さん。夢さんが。狙われた。嗚呼。嗚呼。


 夢さんがご無事で良かった―――


 みしりと、耳の奥で、何かが軋んだ。

 何が、良かった、って?
 義兄上が、斬られた。斬られて、生死の境を、彷徨われて。今だって、一命を取り留めただけで、
油断出来ない状態、で。
 良かった?
 何が、何が何が何が何が―――てんにょさまがぶじでよかった?


 そのてんにょさまをねらってしんにゅうしたくせものにあにうえはきられたのに。


 強く、肩を掴まれる。
 見上げれば、お世話になっているくのたまの先輩がいらした。

「冬菊先輩……?」
「よしな、金吾」

 一言そう云って、冬菊先輩は僕の肩を抱いたまま、強引に裏庭へ引っ張って行った。

 先輩、肩が痛いです。
 よせって、何をですか。何を、やめなくてはいけないのですか?


 どうして、あいつらを斬ってはいけないのですか。


「あんたが暴れた所で、何も変わりゃしないよ」
「でも」
「聞きわけな、良い子だから。……此れ以上、晴次の苦労を増やすんじゃないよ」


 義兄上のお名前を聞いて、視界がかすんだ。

 義兄上。
 後少し駆け付けるのが遅かったら、強いお体を持っていなかったら、亡くなっていらした。
 義兄上が大変な時、僕は、何も気付かないで、冬菊先輩と鍛錬をしてて。

 義兄弟なのに。
 お互いを守り合うって、誓ったのに、僕は。

 僕、は。


「……皆同じだよ。だから、自分ばっかり、そう責めるもんじゃない」
「だって、僕、義弟、なの、にっ……!」
「それならあたしは、六年生で、恋人なのに、何も出来なかったよ。責めるなら、あたしを責めな」
「無理、です……!」


 冬菊先輩だって、今にも死んでしまいそうなお顔を、してるじゃないですか。


 今さら、視界を霞めた理由を知る。
 僕、泣いてる。さっきまで、出なかったのに。
 手の甲でごしごしこすってたら、「そんなに強く擦るんじゃないよ」と云いながら、冬菊先輩が手
拭いで優しく涙を拭いてくれた。
 微かに香の薫る柔らかな布を、惜しみなく泣き喚く後輩の為に使ってくれる。
 その優しさに、また涙が出て来た。

 そのまま大声で泣き喚きそうになったけれど、聞こえた音に、呼吸すらも止まった。
 冬菊先輩も厳しい目を、音の方へ向けている。
 泣いてる姿、見られたくないなと思って息を殺していたけれど。
 聞こえて来た声に、今度は心臓が止まるかと思った。


「あーぁ……まさか、こんな事になっちゃうなんてぇ……」


 てんにょ、の、こえ。

 咄嗟に刀へ伸びた手は、冬菊先輩に押さえられた。
 静かに、と耳元で囁かれ、僕は震えながらそれに従う。

 向こうは、こちらに気付いていない。
 気付かれたら――あの顔を見たら、僕は斬りかかってしまうに違いない。
 だから、此処は、冬菊先輩の云う通り、大人しくしていよう。


「これもイベントの一つなのかなぁ? あ、看病イベント発生? だったら美味しいけどぉ……」


 ぶつぶつと、小声で独り言を云っている。
 いべんと? 一体、何の事だろう?


「皆が邪魔して近付けないじゃない、最悪」


 冬菊先輩が、小さく舌を打った。

「最悪なのはお前よ、阿婆擦れ」

 低く掠れた、小さな声でつかれた悪態に、あの女は気付かない。
 さらに意味の分からない言葉を幾つか呟いて――これで好感度が上がって、乙女ゲーならスチルが
残るわよ、美味しい場面よねぇ――、最後にぽつりと。

 許されない言葉を、吐いた。



「でも、曲者なんかに負けちゃうなんて……――晴次君って弱かったんだぁ。がっかり……」



 その瞬間――冬菊先輩は僕の体を抱きすくめ、口まで塞いだ。


 どうして。
 どうしてですか冬菊先輩!
 放して放して放して放して放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せッッ!


 あいつのせいで、あいつのせいで義兄上は死にかけたのに!
 あいつが居たから、あいつが居たせいで!
 なのに、あいつ、あいつ、義兄上を、弱いって! 弱かったって!
 侮辱した!
 僕の義兄上を侮辱した!
 此処で、此処で黙って見過ごしたら、武士の名折れだ!
 僕ら義兄弟の誇りを、あいつは穢したんだ!
 許せない許せない許せない許せない許せない!


 生かしておけない―――――ッッッ!


 散々暴れたのに、僕は押さえ込まれたまま。
 あいつが立ち去って行くのを、見送るしか、出来なかった。

 ようやく力を緩められ、手を振りほどいて冬菊先輩を見上げて――僕は、息を飲んだ。

 冬菊先輩が。
 今まで、見た事もないような、顔を、していた、から。


 あいつが去って行った方を見つめる目は、剃刀のように鋭く、それでいて、どろりと濁っている。
 口元は、まるで笑みを浮かべているかのように、歪んでいて。
 滲み出る威圧感に、肺を圧迫、された。


「……ねぇ、金吾」

 いつも通りの声が、逆に、恐ろしかった。

 返事をしない僕に、冬菊先輩は語り続ける。

「許せないわね、あの女。私達の晴次を侮辱したわ。許せないわ。ねぇ、でも……此処で私達が殺す
事は容易いけど――それは駄目よ。私達が手を汚すのはいけないわ。あいつを穢れない天女と信じ
てる馬鹿共に、攻撃の口実を与えてしまうもの。それはくの一としていけない選択よ。今すぐ殺してし
まいたい気持ちは分かるわ。痛いほど、分かる。でも、駄目なのよ。私達が手を下してはいけないの。
だから――だから、ね?」

 がらりと変わった口調。いつも、義兄上の前で話される時の、女らしい言葉使い。
 冬菊先輩の視線が、僕に向いた。
 そこには先程までの泥も澱も無く、澄みきった色があった。


「あいつを清らかな天女様と信じてる馬鹿共に、―――やらせましょう……?」


 綺麗な花を前にした、童女のように綺麗な瞳で、冬菊先輩は云った。
 その言葉の意味を理解して、僕は、にっこりと笑みを浮かべて、頷いた。



 − 許してくれるなら、手を取って。



 冬菊先輩と手を繋いで、一緒にくの一教室へ。
 さぁ、始めましょう、先輩。
 義兄上の為に、貴女の為に、僕の為に―――最高の逆襲を。

(その為ならば、何もかも利用してみせましょう。鬼になって、みせましょう)



 了


 前篇、終了です。後篇に続きます。

 天女さんが「曲者なんか」と云ったのは、忍たまや落乱では曲者の扱いが軽く、一種のギャグのよ
うに扱われていたからです。忍術学園の生徒は皆、曲者を撃退出来るくらい強いのだと云う思い込
みがあったのでした。
 それはあくまで、アニメや漫画の話。”現実”での曲者はとっても怖いもの。それを知らなかったが
故の暴言でした。
 それを許せるか許せないかは――人それぞれ、と云う事で。

 冬菊は得意武器が刀で、特技は居合抜きです。戸部先生から特別授業を受けている生徒の一人。
故に金吾と交流があります。金吾はくのたま上級生の中で、冬菊とは特別仲が良いです。(他のくの
たまにも「晴次の義弟」と云う事で優しくされてますが、冬菊ほど仲良しじゃない)
 冬菊の素は結構乱雑な言葉使いです。でも晴次の前ではしません。愛ゆえに。←


 執筆 〜10/03/08


 配布元:Abandon