鬼遣らい。 一、「朴念仁、青天の霹靂」



 そこは日当たりの悪い蔵の裏。湿気が空気ばかりか葉も木々も土さえも湿らせる、そんな場所だっ
た。
 ほとんどの人間がその湿り気を嫌悪し、訪れないだろう場所に彼は居た。この学園の現六年生が
纏う深緑色の忍び衣を、規定通りに着た黒髪の少年だ。
 酷い癖っ毛らしく、髷を結っているにも関わらず、髪は四方八方に飛び散って――そう表現するし
かないような、そんな髪をしている。かなり個性的な髪質なので、後ろ姿を見ただけでも他者と判別
が出来るに違いない。
 年齢は十五、六と云ったところだろう。顔立ちにはまだ幼さが見え隠れしているが、面を思わせる
無表情が、年齢からくる子供らしさを掻き消してしまっている。
 ぱっちり開いた大きな目に、小さな黒目が印象的で、人間と云うより猫科の動物を連想させられた。
いや、ほとんどの獣の目は、人間とは違い白眼が存在していない物なので、猫科と評するのは語弊
があるかも知れないが――それでも、人々は彼の目を見て、まずは猫を思い浮かべるだろう。
 ひょろりと細く長い体を腰から曲げて、彼はその大きな目で葉っぱの上を凝視している。あまりに
も熱心に見ているので、見られている対象に穴が開いてしまうのではないか、と云う有り得ない心配
をしてしまいそうになるくらいだ。
 彼が見ているのは何て事はない。多数の人々にとっては珍しくもなく、また、見ていて楽しくもない
ものだ。
(ナメクジだ)
 別名、なめくじりとも、なめくじらとも呼ばれる、陸生の巻貝だ。巻貝とは云うが、貝殻を背負ってい
る訳でもなければ引きずってもいない。なめくじはカタツムリと違い、貝の部分が退化し、消失してし
まった生き物を示すためだ。だからその生き物は、ぬらりとした体の全面を無防備に晒し、ゆったり
のったり草の上を這っていた。
 そんなナメクジを、彼は熱心に眺めていた。無表情であるにも関わらず、雰囲気と云うか、纏う空
気が少しばかり楽しげだが――それを感じられる人間は、ほとんど居ないだろう。
 その、お面のような無表情のせいで。
(ナメクジ……)
 当然ながら、派手な動きをする訳ではない。特別大きい訳でも、不可思議な色をしている訳でもな
い。極普通の小さなナメクジなのだが――それでも彼は、熱心に見詰めていた。いや、見ているだ
けでは無く、時折指先を伸ばしては、ぴこぴこと動くナメクジの角に触れ、引っ込む様を見ては――
微笑まなかった。
 彼はどこまでもどこまでも無表情であり続ける。顔の動きは瞬きだけで、眉も目元も口の端さえも
動かない。まるで石膏で固められたかのように、無表情のままだった。
 異常なまでの無表情。
 そこに誰か彼以外の人間が居れば、その様に寒気すら感じたかも知れない。それ程までに、顔の
皮膚も筋肉も動かなかった。
 それは、表情を忘れたと云うよりも――”作り方を元から知らない”ように思えた。


 そして事実――彼は、生まれてから今の今まで、一度たりとも、顔に表情を浮かべた事が無かった。
 感情の起伏はあった。喜怒哀楽だけでなく、複雑で様々な感情を彼は胸の内に育てている。だが、
表情に変化を起こした事は一切ない。
 彼の顔は笑顔も、泣き顔も、怒り顔も、愛しむ顔も――作った事が無かったのだ。
 作れた試しが、一度たりとも無かった。


 ふいに、彼は顔を上げた。蔵――焔硝蔵の表側から、誰かが走って来る音がしたのだ。
 気配も殺さず足音も消さないそれは、下級生―― 一年生の特徴だ。
 誰だろうかと、彼は素直に疑問に思った。焔硝蔵は学園防衛の要、重要施設の一つであるため、
学園案内図にも記載されておらず、下級生にはまず辿りつけない入り組んだ場所にある。上級生に
なれば一人で来る事も可能だが、下級生には一部の例外を除き、まず不可能だと云って良い。
 火薬関係の特待生だろうかと首を傾げた彼の前に、その子供は必死な表情で現れた。

「ナメ彦ー!」

 まず間違いなく、人名では無い名前を叫びながら。
 面を食らった彼――精神面の話であり、表情にはやはり一切の変化は無い――に気付いた子供
は、それまでの必死な表情を瞬時に引っ込めた。そして、へにゃりと――本当に、へにゃりと、柔軟
性に富んだ笑みを浮かべて見せた。
「こんにちは、しらないせんぱい!」
「……コンニチハ」
 妙な挨拶をされたが、彼は素直に言葉を返した。子供の明るく高く柔らかい声とは百八十度違う、
暗く低く硬い声でだ。
 学園の生徒らは、彼の砂粒程度にも動かない表情筋に恐れをなしてか、気安く接しては来ない。
明るく声を掛けて来る人間など極少数で、確かに居るには居るのだが――それらは全て現上級生
であり、下級生など彼の顔を見ただけで泣く事さえあるくらいだった。
 なのに目の前の子供は、笑いながら明るく彼へと関わって来た。驚愕に値する出来事だ。
 彼の驚きに気付かず、子供はきょときょとと周囲を見回している。それから小さな声で、独り言を
呟いた。
「うーん、ここにいるとおもうんだけどなぁ」
「……何がだ?」
 驚愕ついでに、己から関わってみた。それは彼にとって、久々の経験だった。
 普段ならば、憩いの場所に見知らぬ人間が来た時点で、彼はその場から離れるか相手を威嚇す
るかのどちらかしかしない。特に、騒がしい人間は好まず、全力で避けてしまうくらいだ。
 だと云うのに、明るく無邪気なその子供へ自ら声を掛けた。有り得そうで有り得なかったその行動
は、彼の性格を知る人間からすれば奇跡に等しい行いだ。
 子供がぱっと顔を輝かせ、彼を仰ぎ見た。
「ぼくのナメクジさんです! おさんぽに出てからかえってこなくて、だからじめじめしたばしょにいる
かなっておもったんです!」
 問いかけた彼に、子供は笑いながら答える。舌っ足らずな声と幼稚ながら目上相手の言葉を使う
子供を、彼は確かな興味を持ってまじまじと眺めた。
 ぼくの――と所有権を主張している。と、云う事は、どうやらこの子供、ナメクジを飼育しているらし
い。


 実のところ、彼もナメクジと云う生き物を好いている。そう云うと大抵の人間は驚くか怪訝な顔をす
るか小馬鹿にするのだが、彼は確かな好意を小さな軟体生物へ注いでいた。
 かたつむりと違い、己を守る殻一つ持たない、潔いまでに無防備なその姿と、外敵に遭遇した所で
逃れる術も抵抗する技術も一切持たない、そんな愚鈍な生態を好ましく思っていた。
 自分もいっそ、このくらいあからさまに堂々と、無能な様を晒せればどんなにいいだろうか――そん
な弱い心で、彼はナメクジと云う存在を好いていた。


 だが、そんな後ろ向きな理由で好きでいる事を云えば、軽蔑されるのは目に見えている。だから彼
はナメクジを好きだと云う事を隠す事はしないが――勿論、公言している訳でもない――その理由を
語った事はなかった。「何で好きなの?」と聞かれても、「云う必要が無い」と素っ気なく答えて強制的
に終わらせていた。
 思えば、初めての事である。自分と同じく、ナメクジを好きだと思う人間に会ったのは。それも、飼
育する程に好いている存在と。
 思わず、彼は問いかけていた。
「……ナメクジが、好きか?」
 低い呟きに、子供はぱああああと顔を輝かせた。本当に、光が放射されているのでは無いかと勘
違いしてしまいそうになるくらい、明るい顔だった。
 眩しさを錯覚してしまいそうになる彼に、子供は向日葵よりも大きな大輪の笑みを浮かべ、云う。
「はい! だいすきです!」
 遠慮も後ろめたさも何もない、純粋な愛情に満ちた言葉だった。余りにも真っ直ぐにこちらを見て
断言する物だから、彼は一瞬、己が云われたような気分になって心臓を二度三度高鳴らせる。
 それから、少し小首を傾げた。
 何故、初めて見る子供が愛情に満ちた言葉を発したからと云って――しかもその対象は、ナメク
ジである――自分の胸が高鳴ったのだろうかと。
 此処で表情筋がちゃんと生きている人間であれば、眉間にしわを寄せ、不思議だなぁとでも云わ
んばかりの表情になっただろう。だが、彼の顔は筋肉も皮膚もぴくりとも動かない。一切の変化も無
い、無表情のままだった。
 己の身に起きた事を不可解に思いつつ、彼はおもむろに踵を返した。先程まで眺めていたナメク
ジを指先で掬い上げ、そっと子供へと差し出す。
 途端、子供の顔が先程の三倍以上の輝きを放った。
「ナメ彦ッッ! やっぱりここにいたんだね!」
 ナメクジを優しく受け取った子供は――飼っているだけあり、扱いに慣れているのだろう――、頬
ずりせんばかりの勢いで喜んだ。
 実際に頬ずりはしなかったが。したらナメクジが潰れるだろう。
 子供は数秒の間ナメクジに――ナメ彦に夢中になっていたが、ふいに顔を上げると、また大輪の
笑みを彼へと向けた。
「ナメ彦を見つけてくれて、ありがとうございます、しらないせんぱい!」
「……」
 しらないせんぱい――確かにその通りなのだが、何故かその名称はチクチクと彼の心臓に突き刺
さる。
 そうして彼は、ぽろりと、言葉を零した。
「下関(しものせき)、だ」
「はにゃ?」
「……俺の名前は、下関 大治郎(だいじろう)、だ」
 例え子供相手とは云え、必要に駆られた訳でもないのに自ら名乗ったのは初めての事だった。今
まで有り得なかった己の行動に彼自身も違和感を感じていたが、不思議と、悪い気はしていない。
 彼――下関大治郎の名前を聞いて、子供はほんにゃりとした、先ほどとはまた違った柔らかな笑
みを浮かべた。
「ぼく、山村喜三太です」
「やまむら、きさんた」
「はい! 山村喜三太です!」
 何が楽しいのか、子供はにこにこと笑っている。それからふいに、いかにも「良い事を思い付いた!」
と云わんばかりの表情になった。
「下関せんぱいもナメさんがお好きなんですよね? これからなかよくしてください!」
 その言葉に、大治郎は肯定も否定も返す事が出来ず、ただ戸惑った。
 これまでの通り表情には一切の変化は無く、傍から見れば拒否しているように見えたのだが――

 山村喜三太は、嬉しそうに嬉しそうに、笑っていた。
 ナメクジを両手に、笑っていた。
 嬉しそうに、楽しそうに――心底、幸福そうに。