鬼遣らい。 序、「鬼と人の子。」



 彼は思い、考える。
 腕に赤子を抱いていると云うのに、普通の人間ならば思考の端にすら浮かべない言葉の羅列を、つ
らつらと紡ぎ出す。
(嗚呼、”コレ”は、生きていては、いけない、ものだ)
 赤子は穏やかな寝息を立てていて、己を抱いている存在が何を考えているのか知る由もない。とて
も恐ろしい事を彼が考えていると云うのに、赤子は起きる気配すら見せなかった。
(死ななければいけない)
 誰も赤子に死ねとは云っていない。彼が勝手に思っているだけだ。だが、それこそが絶対唯一の真
実であるかのように、彼は考える。
(死ぬべきだ。そうだ。死ななければ。死んでいなければ、いなければ)
 赤子を抱く腕へ、徐々に力がこもって行く。抱きつぶす事など彼の腕力では無理だが、窒息させるく
らいは容易いだろう。
(こんな、もの。簡単に、死ぬ。殺せる)
 ただでさえ陰鬱とした昏(くら)さばかりがあった彼の目に、徐々に深い殺意の色が染み渡って行く。
 その赤子には、何の罪もない。誰から見ても、その赤子は不幸な身の上に過ぎず、哀れまれる事は
あっても憎まれ、殺意を抱かれるような存在では無かった。
 だが彼は憎しみや恨み、悪意の全てを赤子へと向けていた。それが彼にとって正しい行いであった
からだ。
 今の彼には、誰の言葉も届きはしないだろう。どれだけ正しい道を説き、優しく諭し、強い怒りをぶ
つけようとも、彼の考えが変わる事は”有り得ない。”
 彼にとって紛れもなく、腕の中の赤子は悪だった。悪でしかなかった。悪でなければならなかったの
だ。
(これが、これが居たせいで。こんなものが、居るから)
 彼は何も、赤子を殺して悦ぶような異常者では無い。また、頭の箍(たが)が外れた狂人でも無い。
 至極、まともな人間だった。
 けれど彼は、真剣に腕の中の赤子を殺す事を考える。どう殺そうかと、考える。出来る限り酷い方
法で殺してしまいたいと考えて、周囲を見回したが、生憎――彼にとっては不幸で、赤子にとっては
幸運な事に、残酷に赤子を殺せるような道具は無かった。
 彼は舌を打つと、赤子へと目を落とした。
 柔らかな皮膚と肉、くしゃりと壊れてしまいそうな小さな体、赤子独特の甘ったるい香り。
 ほとんどの人間が愛情を抱かずにはいられない存在を、彼はただ、疎んだ。
(殺さ、なくては)
 そう、この赤子を殺さなくては、彼は目的が果たせなくなってしまう。赤子の存在に邪魔されて、彼
はいつまでも出口に辿りつけないまま、彷徨う破目になってしまうだろう。
 だから、殺さなくてはならない。
 この赤子は、生きていけてはいけない。
 死ぬべき存在なのだ。
 彼はそう考えて――倫理も論理も人間性も慈悲も何もかも棄てて、抱いたまま赤子を絞め殺そうと
して――

 背後で、ぱきりと、枝を踏み折る音が、した。


 *** ***


 時間は流れる。万人に等しく流れ、留まる事など有り得ない。
 彼にも、赤子にも、時間は蓄積されて。
 いつしか、変わるのだろう。
 明確な瞬間など誰にも分からない。
 ただ、変わるのだ。
 それは姿だけではない。中身も変わって行く。
 何も知らなかっただけの赤子が、己の境遇を理解する程度には――
 十五年と云う年月は――長く、長く。
 様々な人々へ、変化と云う名の成長をもたらすのだ。