――ううううう……。
「は、ぁ……はぁ……」
「ガイ? ガーイ?」
「ぅ……? あ……、は、い……?」
 ――ガイィィィィィ……。
「父上から呼び出し来たから、俺行くぞ」
「え? あ、はい! お供を……!」
「いらん。後始末して仕事に戻れ」
「……はい」
 ――……なんでお前ってさぁ、キツイ云い方するわけ? ガイが可哀想だろ!
(俺の一言に一々シュンとするガイが可愛いんじゃねぇか。わかってねぇな)
 ――鬼! 鬼! 鬼がいる! 赤い鬼が!



 − 自意識過剰の我らが師よ。



「父上。ルーク、参りました」
「来たか」
「おお、よく来ましたねルーク」
 公爵子息らしく、折り目正しく礼を取る。その姿に父が満足げに頷き、席に着くように促した。同
席している母にも礼をしてから晴佳は己の席に歩み寄った。
 名目上師であるヴァンにも視線を向けたが、応接室にいる限りは師弟ではなくファブレ公爵子息と
神託の盾の主席総長だ。親し気に声をかけるのではなく、敬意を払って礼を取った。……別に尊敬な
ど欠片もしていないけれど。
 ――ヴァン師匠だ! なぁ、早く代われよ!
(多分真面目な話があるだろうから、また後で)
 ――えー?!
「どうしたルーク。難しい顔をしているな」
 他人に聞こえない会話をしている晴佳に、ヴァンが親しげに声をかけてきた。それは師から弟子へ
の親愛に満ちた言葉であったが、ヴァンの本性を知っている晴佳には上っ面だけの不愉快な言葉にし
か聞こえず、ルークにとっては剣術や自己の主導権に繋がらない言葉なのでどうでも良かった。
 晴佳は器用にピクリと片眉を上げ、横目でヴァンを見る。
「グランツ謡将。確かに貴殿と私は剣を通しての師弟ですが、場を弁えるべきではありませんか?」
「……っ。……これは失礼をした。本日はルーク”様”の方で御座いましたか」
「えぇ。私の師と名乗っておられる以上、最初に気付いて頂きたいものですね」
 にっこり笑顔で云ってやれば、ヴァンの口元が一ミリほど引き攣った。勿論、気付いたのは晴佳だ
けであり、他の人間からは困った苦笑のままに見えただろう。
(面の皮が厚いこと……。いつかその髭毟ってやる)
 ――可哀想だろ。やめろよ。師匠ご自慢の髭だぞ!
(じゃぁシモの毛を)
 ――や・め・ろ!
「ルーク。謡将は本日、ダアトに帰国される」
 ――え? ……えー!? 先生帰っちまうのかよ!
 毛の話をしていたところに、父の声。しかもその内容が師の帰国だった事で、ルークが思い切り不
満の声を上げた。
「急なお話ですね。予定では来週までバチカルに滞在されるはずだったのでは?」
 別にヴァンが帰る事が不満なのではない。むしろ「もう二度と来ないで下さいね」の言葉と共に笑
顔で見送りたいくらいだった。しかし予定を知っていた身としては聞くべき事だろう。
「ダアトより至急戻るようにと連絡が入りましてね」
「……主席総長であるグランツ謡将が呼び戻されるとは……よほどの事態なのですね」
「うむ。導師イオンが行方不明になられたそうでな」
「なるほど……。導師が行方不明とは一大事です」
「それで私に捜索するように命令がありましてな。しばらくは此処に来られないかと……」
 その言葉を聞いた途端。ルークが一瞬の隙をついて主導権をもぎ取った。
 ――わ! この馬鹿……!
「じゃぁ俺の稽古は誰がつけてくれるんだよ!」
 椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がったルークに、両親もヴァンも、警備の騎士も目を見張る。当然だ。
普段のルークであるなら決して両親の前で、このように乱暴な行動をとる事はないのだから。
「師匠がいなくなったら俺が主導権持てな――馬鹿! お前は黙ってろ……! ……失礼しました」
 乱暴な言葉遣いが一転して元通りの丁寧な口調になり、静かに着席した『ルーク』に誰もが言葉を
失った。
 晴佳とルーク。二つの魂が宿る『ルーク』は多重人格と認識されている。いつもは晴佳が握ってい
る主導権を隙を突いてルークがもぎ取る事がたまにあるからだ。
 周りの認識としては――七年前誘拐されたショックで、それまでの『ルーク』が奥に引っ込んでし
まい、代わりに赤子のようなルークの人格が作り出された。そして赤子のルークが周囲の対応に苦し
み生み出したのが、公爵子息然としたルーク――つまり晴佳であると思われているのだ。
 まぁ一人の人間の身体に、魂が二つ宿っていると云うより説得力があるかもしれない。晴佳たちも
自分たちの状況を説明するのは面倒臭いので、この多重人格説を通していた。
 ファブレ公爵邸では「公爵子息のルークは多重人格である」と認識しているし慣れているはずなの
だが、「人格交代」が目の前で行われるとどうしても硬直してしまうようだった。
 最も、母であるシュザンヌはあまりこだわっていないようなので、「人格交代」に驚いても、すぐ
穏やかな笑みを浮かべてくれる。
「うふふ……。今日もルーは元気なようですね」
「お騒がせしました母上。……元気すぎて困りものですよ」
 ――なんだとー!
 ルーとはルークの事だ。晴佳が自分の名前を名乗っていないため、ファブレ公爵邸では「ルーク」
は晴佳を、「ルー」はルークの事を示している。客人であるヴァンは、晴佳を様付けで、ルークを呼
び捨てにすると云う方法を取っているけれど。
「話を中断させて申し訳ありません、父上、グランツ謡将」
「いや、構わん。ルーのした事だからな」
 そう云った父の顔は苦笑気味だ。
 父はどちらかと云えば公爵子息然とした晴佳の方を贔屓しているが、ルークの事も可愛がっている
のだ。むしろ甘さで云うなら、ルークに対しての方が甘い。仮に晴佳がルークのような行動をとれば、
みっともないと雷の一つや二つ落とすに違いないのだから。
「部下を派遣致しますので、私が留守の間は彼らを稽古相手にしてください」
「わかりました。ルーにもよく云い聞かせておきます」
 ――ヴァン師匠じゃなきゃ駄目なのに……。
(……わかったわかった。謡将相手じゃなくても、稽古の時には譲ってやるから。な?)
 ――本当か?! やったぜ!
 先ほどまでぶちぶちと文句を垂れていたと云うのに、もうご機嫌だ。即物的と云うか、刹那的と云
うか。
 育ち方間違えたかなぁと思いながら、ルークのそう云う所が嫌いではない晴佳は大人しく稽古を受
けるべく中庭へ向かった。
(……うーん。自国の最高指導者が行方不明なのに、のんびりと他国のお坊ちゃんに稽古つけててい
いんかねー)
 ――別にいんじゃね? 師匠が稽古してやるって云い出したんだし。
(……そだな)
 怪我をしないようにと心配する母に「只の稽古ですから」と笑顔で返し、礼を取って応接室から出
た。

 *** ***

 中庭に出、さて主導権を譲ろうかとしたのだが。
(謡将と――ガイか)
 先に中庭へ出たヴァンと、どうやら後始末を済ませ仕事に戻っていたガイが何やら話をしていた。
 ――何話してんだろ?
(ファブレ家への復讐についてだな。……これから稽古だっつーのに、わざわざ中庭で話すなよ。不
用意にもほどがあるだろうがよ主席総長!)
 ガックリと肩を落とし、ついでに額を押さえる。
 見晴らしの良くそれなりの広さがある中庭での密談はある意味有効だ。仲間以外のものが近づけば
すぐに気付く事が出来る。しかし、これから稽古――すぐにでも『ルーク』がやってくると云う状況
でわざわざ話す事もないだろうが。
 現に、耳の良い晴佳には二人の会話が聞こえているのだから。
 ――て云うかさー。師匠、気付かないのかな。
(あ? ガイの事か?)
 ――そう。晴佳のせいで超目ぇ虚ろじゃん。復讐する気もないじゃん?
(復讐する気はまだあると思うが……。まぁ、謡将なんて高い地位にいるお方が、自分の元主人の精
神状態に気付けないのは痛いな。気付いててあの態度なら拍手ものだけど……)
 と自分で云っておきながら、晴佳は首を左右に振った。駄目だ。あの人気付いてない。
(なんでこう……高い地位にいる人間って自意識過剰気味なんだろうな。何でもかんでも、自分の思
い通りになってるって云う勘違いも甚だしい思い込み、どうにかしろよ。まぁそこが滑稽で見ていて
楽しいからいいけどさ)
 ――よくわかんないけど……。俺稽古したいから早く代われってくれ。
(……お前のそう云う我が道を行くマイペースな所……好きだぜ?)
 己を取り巻く環境に対してどこまでも無関心な所を本気で好ましく思っている晴佳は、思いっきり
いい笑顔をしてから主導権を譲ってやった。



 了


 修正 2010/06/06