猪が高い高い雄叫びを上げて消えた。
他に云いようがない。
まるで空気に溶け込むかのように、猪は消えてしまった。その後、ちゃりんちゃりんと音を立てて
硬貨が地面に落ちる。
本島の常識内では有り得なかった光景だが、それは認識されず、本島はただ耳に響いた音律を
追っていた。
深遠へと誘う旋律。
それは。
「ユリ、ア、の、譜歌……」
ぽつりと呟いたそれは、今の戦闘について話し合っている二人の耳には届かなかったようだ。そ
れは本島にとって幸いであったと云える。
何故そんな言葉が口から出たのか、本島自身にもわからなかったのだ。
なんだそれはと問われても、答えられない。わからないと云っても、納得してはもらえないだろう。
問い詰められるのは、苦手だった――
− 楽園の道しるべ。5
「モトシマさん? 大丈夫ですか?」
口を押さえ黙り込んでいる本島を心配したのだろう。ティアが眉を八の字にして声をかけてきた。
思わず肩がびくりと跳ね上がってしまい、ティアがますます心配気な顔をする。
「あ……、え、えぇ。大丈夫ですよ」
慌てて笑みを浮かべ答えると、ティアは安心したように息を吐いた。そんな酷い顔でもしていたの
だろうか。見ればルークも、不安そうにこちらを見ている。
「ごめんね、ルーク君。ぼうっとしちゃって」
「そ、そーだぞ! 俺だって魔物なんて初めて見たのに、ちゃんと闘えたんだからな! お前もボサっ
とすんじゃねーよ!」
最もな言葉だったので、本島は頭を下げて謝罪した。
今回は猪――魔物とやらをルークとティアが倒してくれたから良かったものの。あんなものが他に
もいるのならば、ぼんやりしていては命を落としかねない。
「……あの、モトシマさんは武器を持っていないようですけれど……」
「ぶ、武器?」
そんな物騒なもの、生まれてこの方戦時中しか持った事がない。
「護身用の短剣も? 小銃も? 警棒も持ってないんですか?」
「も、持ってないですよ?」
ズイズイと問い詰められて、本島はずるずると後退して行く。問い詰められるのは本当に苦手なの
だ。
上目遣いに本島を睨んでいたティアが、「呆れた……」とため息をつく。
「いくらなんでも無防備すぎます。譜術士(フォニマー)でもないようだし、短剣くらい持っていて常識で
しょう? 彼でさえ、木刀とは云え剣を持ってるのに……」
「ご、ごめんなさい……」
そう云われると、本島は謝るしかない。自分が世間知らずなのは承知していたが、此処まで酷かっ
たのかとしょんぼりしてしまう。
まさか武器携帯が常識だったとは。
(そう云えば益田君も鞭持ってたなぁ……)
本島が知らないだけで、中禅寺たちも常備していたのかも知れない。
自分の無知加減にしょんぼりする本島の耳に、ルークの明るい声が聞こえてきた。
「別にいいんじゃねーの? モトシマが戦えなくたって、俺が代わりに戦ってやるし」
「ルーク君……」
その言葉を、本島は素直に嬉しいと思った。しょんぼりしている自分を庇ってくれた事がわかり、
ルークの優しさを嬉しく感じたのだ。
だが、ティアはそう思わなかったらしい。眉間にキュッとシワを寄せて、ルークを睨み付けた。
「調子に乗らないで。貴方、訓練は受けていたようだけど、実戦は今のが初めてだったのでしょう?
そんな人が他人を守って戦えると思っているの? ふざけないで」
「な……んだとぉ?!」
「本当の事よ」
「ちょ、ちょっと二人とも……!」
また本島のせいで喧嘩になってしまった。慌てて二人の間に入り、睨み合う二人を引き剥がす。
離されても二人は睨み合っていたが、しばらくするとティアの方がため息とともに視線を外した。
その態度にルークが顔を赤く染め上げ、怒鳴ろうとでもしたのか、大きく口を開いたが。それより先
に本島が云った。
「有難う、ルーク君」
「あ゛ぁ?」
「僕を庇ってくれたんだろ?」
見上げて云えば、ルークは怒りではなく照れで頬を赤く染めて、つんとそっぽを向く。「そんなんじゃ
ねーよ」と云っていたが、その態度では肯定しているようなものだった。
なんだか微笑ましい気持ちになって、本島は微笑む。
「ティアさんも有難う」
「え……?」
「僕の事を心配して、厳しく云って下さったんでしょう?」
そう云えばティアも頬を赤く染めて、「か、感謝される事じゃ、ありません……」と呟いた。
同じように照れる二人の姿を見て、本島は思う。
ようするに。この二人はどちらも不器用なだけで、分かりにくいけど根は優しくていい子たちなの
だ。それを表現する方法が物凄く下手なだけで。損をしてしまう性格だ。
なんだかなぁと考えて、本島は微笑む。
「……モトシマさん」
「何?」
「良かったら、此れを……」
頬を染めたままティアが小さな――とは云っても、刃渡り二十センチはあるだろうか――短剣を、
鞘ごと渡してきた。可愛らしい容姿でそんな物騒なものを渡されて、本島は頬が引き攣りそうになっ
た。我慢したけれど。
「私の予備です。モトシマさんは戦闘訓練を受けた事がないようですが、これくらいは持っていた方
がいいと思います」
「ぼ、僕は……その……」
「大丈夫です。前に出て戦えなんて云いませんから。ただ、敵が貴方の方へ行かないと云う保障は
ありません。ご自分の身を守るために、持っていて下さい」
「……わかりました」
受け取ったそれはズシリと重い、金属の塊だった。これは生き物を殺せる道具なのだと思うと、さ
らに重みが増したように思える。勿論其れは本島の錯覚であり、短剣の重さが重さが変わるわけが
ないのだけれど。
「両刃ですから、逆手に持って下さっても大丈夫です。そうすれば振り下ろす時楽ですから……。モ
トシマさんは……右利きですよね?」
「はい、そうです」
「じゃぁ、右腰に。柄が上になるように下げてください」
「えっと……」
勝手が分からずモタモタしてしまう。こんなものを付けた経験がないのだから当たり前だけれど。
ティアに手伝ってもらうのも照れくさいからと、己の手で悪戦苦闘していたのだが。
「……あぁもう! 貸せ鬱陶しい!」
オタオタしている本島に苛立ちを覚えたのか、怒鳴り声を上げたルークが短剣とベルトを奪い取り
器用に腰に巻いてくれた。長さを調節し、ぱちんと音を立てて金具を留める。
長さも締め付ける強さも、丁度良かった。
「ったく、モタモタしやがって……」
「ルーク! そんな云い方ないじゃでしょう?!」
「も、モタモタしていたのは本当ですから!」
また喧嘩になりかけて、本島は慌てて間に入った。自分が原因で他の人間が喧嘩すると云うのは、
肩身が狭くていけない。
「ルーク君、有難う。助かったよ」
「……別に!」
礼を云うと、ルークはそっぽを向いてしまった。お礼を云われる事に、慣れていないのかも知れな
い。
この後本島は、子供二人をなんとか宥め賺し夜の渓谷を降りたが。
降りた先で。
「あ、あんたら、漆黒の翼か?!」
「はい?」
一悶着が起きたりするのだった。
続
武器をルークでは無く本島に渡す辺りがティアクオリティ。←
加筆修正 2010/01/28
