振り降ろした苦無は。
 大きな手によって、止められた。


 大きくて、傷だらけで、日に焼けた、皮の厚い手を見て、一瞬、にーにかと思った。


「駄目だぞ、孫兵」

 云われ顔を上げれば、困ったように笑う先輩の姿。


「竹、谷、せんぱ、い……?」


 呼べば、竹谷先輩は苦笑した。
 しょうがない子供を見るような、柔らかな苦笑。


「こんな事しちゃ、駄目だ」


 そう云って先輩は、僕の手から優しく苦無を取り上げ、阿婆擦れの上から静かに降ろした。
 何故か僕は抵抗が出来ず、されるがまま。
 ぺたりと地面に座り込んで、竹谷先輩を眺めていた。

「はち、く、はち君! 怖かった、怖かったあぁ……!」

 しくしくと哀れっぽく泣きながら、阿婆擦れが竹谷先輩に縋りつく。
 その声に応えず、竹谷先輩は大きな手で阿婆擦れの背中を優しく叩いた。


 変なの。
 竹谷先輩も、にーにの事好きなのに。
 阿婆擦れに優しくするなんて。
 嗚呼、もしかして、竹谷先輩も誑し込まれてたのかなぁ。
 どうしようね、ジュンコ。
 失敗しちゃったし、竹谷先輩が敵に回ってしまったかもしれない。
 どうしようね。どうしよう?

 どうしよう。


「孫兵君が、突然……! 私、殺されちゃうかもって……!」
「落ち着いて下さい。とにかく、こっちへ」

 丁寧な口調で、阿婆擦れを立たせた竹谷先輩が、僕を見た。

「孫兵、ちょっと待っててくれな?」
「はち君……! そんな、孫兵君は私を殺そうとしたのよ?! は、早くどうにかして!」
「まぁ、落ち着いて下さいって。今は貴女の事が優先ですよ」

 にっこり、竹谷先輩が笑う。
 すると女は、まんざらでもなさそうな顔になった。

 本当に、尻の軽い女。
 優しくしてくれるなら、誰でもいいんでしょ?
 なら、にーにじゃなくてもいいじゃない。
 僕はにーにじゃないと駄目なんだから。
 お前みたいな阿婆擦れ、死んでしまえばいいのに。


 先輩が、優しく女を誘導する。
 あれ、でも、――竹谷、先輩?
 そっち、そっち、に、は。


 罠、が。


 左手で女の手を取ったまま、竹谷先輩の右手が、するすると上がって行く。
 背中に添えられた手が、少し、距離を取り、勢いを付けて。


 阿婆擦れの背中を、突き飛ばした。


「きゃ、ぁ……?!」


 女が、踏鞴(たたら)を踏む。踏んだ場所が、ぽっかりと口を開けて。


 小さな悲鳴を残して、阿婆擦れは、落ちた。


 息を飲む。その一拍後、ぐしゃと柔らかい物が壊れたような音がした。
 竹谷先輩が、穴を覗き込んだ。

「うんわ、思ったより深ぇ……。喜八郎のやつ、洒落にならねぇ穴掘りやがって……。下級生が落ち
たらどうすんだっつの、ったく……」

 そう、ぶつぶつと呟いてから、竹谷先輩が振り向いた。
 怖い顔を、してる。
 僕も殺されてしまうのだろうかと、思ったくらい、怖い顔。

「ひっ……!」

 悲鳴を、上げ損う。
 何でだろう、何で、悲鳴なんて上げようとしたんだろう。
 僕だって今まさに、阿婆擦れを殺そうとしてたのに。
 何で、竹谷先輩の行動に、悲鳴なんて、そんな、被害者のような、そんな、真似。


 竹谷先輩はすぐに優しい笑みを浮かべた。
 いつも見せてくれる、頼りがいのある笑顔。
 僕が毒虫を逃がしても、厭な顔一つしない、優しい先輩の、笑顔。

「ごめんな、孫兵。怖かったな」
「せん、ぱ」
「先輩失格だな、ごめんな」
「い、せん、」
「助けに入るのが遅くなっちまった。ごめんな、危うくお前に殺させる所だった」

 僕の側へしゃがみ込んで、乱暴な手つきで頭を撫でてくれる。
 いつも通りの、竹谷先輩。

「何、で」
「ん?」
「何で、先輩、何で……!」
「ん、あぁ。此処に居た理由か?」

 違ったけれど、声が続かない。
 竹谷先輩は本当に申し訳ないと云う顔をして、言葉を続けた。

「毒虫達の様子を見に来たらな、騒いでる声がしたから……。喧嘩かと思って来て見れば、花都が
お前に突っ掛かってるわ、襲い掛かるわで。すぐ助けに入れなくて、ほんとごめんな。割って入る頃
合いが中々掴めなくって……とにかく、無事で良かった」
「ちが、せん、ぱ、違うっ……!」

 袖を掴んで云えば、竹谷先輩はきょとんとした顔になった。
 指先へ、震えが走る。
 頬を舐め、「落ち着いて」と伝えて来るジュンコへ答える事も出来ない。


「何で、先輩が、殺すんですか……!」


 僕には、理由があった。

 にーにのためと云う、大義名分。
 憎しみと云う名の、殺意。

 でも、先輩には無かった。無かったでしょう? 先輩。
 あの女が来ても、普段と全然変わらなかったじゃないですか。
 いつも通りに過ごして、まるであの女の存在なんて、無かったかの、ように。

 無かった、よう、に?

 自分の考えに、違和感を持つ。
 どうして、そんな風に思っていたのかと、疑問を抱く。
 だって竹谷先輩は、下関先輩と違ってちゃんと他人に興味を持つ人で。
 五年生の中でも、好奇心は強い方で。
 お人よしだから、何かと厄介事に、巻き込まれ、て。


 恐る恐る顔を上げれば、竹谷先輩は優しい顔のまま。
 でも、困ったように眉尻を下げていた。

「まだ死んじゃいないよ、孫兵。気を失ってるだけだ」
「そう、云う事、じゃ……!」
「だって、なぁ。自分の後輩殺そうとしてた女、放置しておけないだろ? ……いや、違うな。うん。
これは、綺麗事だな。建前だ」

 そう云ってまた、僕の頭を撫でる。

 建前、綺麗事。

 じゃぁ、先輩。


 本音は?


「あのな、孫兵。俺、千草先輩が好きでさ、あの女、嫌いだった」


 知ってます。
 知って、いました。
 先輩がずっと、にーにを目で追いかけてた事。
 だって僕、いつもにーにの背中にくっ付いてるから、貴方の視線を一緒に受けてた。
 にーにが気付いて無くても、僕は気付いてて。
 なんて報われない人なんだろうと、少し、哀れんで。
 気付かれてない事を少し、「いい気味」なんて、思ってた。


「あんな女に先輩盗られたくないーって思ってて、でも、何も出来なくてさ。どうやってあの女殺そ
うかって、そればっかり考えてた。それ以外、どうしていいか分かんなかったんだ。
 でもな、先輩、あの女より俺の方が好きって云ってくれたんだ。そしたら、どうでもよくなった。あ
の女に負けてないって、嬉しかった。先輩の世界に少しは存在出来てるんだって、凄く嬉しくて、
殺したいなんて気持ち、どっか行っちまった」

 柔らかな表情のまま、先輩が語る。
 その言葉は何故か、にーにへの愛の告白にも聞こえた。

「でも、なぁ。孫兵、お前が殺すのは駄目だよ。お前が殺したら、先輩は悲しむよ。孫兵は先輩に
とって必要な人間なんだから、側に居てやらなくちゃ駄目なんだ。あんな女のせいで、千草先輩か
ら引き離される事になったら……先輩泣いちまうよ、きっと」

 そんな事ないよ。
 にーには褒めてくれるよ。
 いつだって、にーには。


「お前が人殺したら、先輩は悲しむよ」


 にーに、は。


「さて、と。とりあえず、すぐバレ無いように埋めるか。確か、掘り起こした後の土がこっちにあっ
たはず……」

 よっこいしょと立ち上がって、木陰へと先輩は歩いて行く。
 その途中、竹谷先輩が肩越しに振り返った。
 それから、にっかりと笑う。

「大丈夫だからな孫兵。これで、終わりだ」

 終わり。
 これで、終わり。
 終わり?

 もう、終わり?


 ゾクンと、背筋を悪寒が舐めた。


 終わり、じゃない。何一つ、終わってない。終わってないよ、先輩。
 僕はいい。だって僕は、一応は正当防衛で、未遂で、見ていた、だけで。
 仮に、僕が殺したとしても、下級生だから、情状酌量が、認められたかも、知れない、けど。

 先輩は、竹谷、先輩、は。

 五年生、で、罠の位置を把握して、あの女を、突き落として、今、生きてるらしい女を、埋めよ
うとしていて。
 云い逃れ、一つ、出来ない。
 バレたら、バレたら、どうなる?
 学園内のでの殺人は、ご法度なのに。
 授業でも無く、侵入者相手でもなく、周りから好かれてた”無害な天女”を、故意で殺した五年
生なんて。


 処分されるに決まってる!


「せ、せんぱい、たけ、や、せんぱ、……竹谷先輩!」

 しまった手鋤がねー、手作業? などと呑気に云っていた先輩へ向けて、叫ぶ。
 驚いた顔で振り向いた先輩は、すぐに笑みを浮かべた。

「あ、そうだ。孫兵、誰かに何か聞かれたら、「竹谷が殺した」ってちゃんと云うんだぞ? この女、
外面だけは良かったし……お前を殺しにかかった、なんて云っても誰も信じないだろうしな」
「竹谷先輩、ご自分がどうなるか、分かった上でのお言葉ですか!」
「まー、何らかの処分は受けるだろうなぁ。退学か、最悪見せしめ(処刑)じゃないか? 昔、マジ
であったらしいしなー、見せしめ行為」

 軽く笑いながら、他人事のように竹谷先輩が云う。
 何を呑気な!

「いいんだよ、俺は」
「何、が……何がいいんですか! 何一つ良くないです! 何でですか! 先輩、にーにの事好
きなんでしょう?! これで終わりって……、終わっていいんですかッッ!」

 俯いて、両手を地面の上で握りしめて、叩き付けるように怒鳴った。

 恋敵なんて、皆いなくなれって、思ってたのは本当。
 でも、こんな形で失うなんて、良い訳がない。
 竹谷先輩は、優しくて、いい人で、本当に優しくて。
 失いたくない先輩の、一人なのに。


「いいんだ」


 先輩が、云う。
 後ろ姿だから、表情はわからない。
 でも、静かに微笑んでいるだろう。
 それを容易く想像させてくれる、柔らかな声だった。


「俺はもう、充分貰ったから、いいんだ。――もう、終わりで、いいんだ」


 涙が、こぼれたのは。
 悔しさからだろうか、それとも、哀しさからだろうか。


 何も分からないまま。
 世界が突然、真っ暗になった。



「そして少年は最期にこう言いました。『もう終わり?』」



 ぱちくりと、瞬きを一つ。
 えーっと、此処は……そうだ、千草先輩の通り道。
 いつも先輩は、此処を通って畑に向かわれるんだ。
 だから俺は、その姿を見る為にいつもこの建物の陰に隠れてて……

 あれ? おかしいな……俺、さっきまで毒虫小屋の近くに居たような……。
 でも此処に居るし、気のせいだよなぁ?
 千草先輩の事考え過ぎて白昼夢でも見たか?


 って、あ! 先輩がいらっしゃった!
 嗚呼、今日も千草先輩はカッコいいなぁ……。

 頭巾は無し、上着もなし、首には手拭い、手には鍬。
 御百姓のような格好をしていてあれだけカッコいい人は、千草先輩以外にいない。
 あの長い髪も素敵なんだ。
 たっぷりで力強くって、馬に跨った時に風で靡くのがまたカッコいい!
 あぁ……、また五、六年合同の馬術訓練やってくれないかな〜。
 そしたら千草先輩の雄姿を直ぐ側で見ていられるし、も、もしかしたら、委員会の後輩って事で、
また手解きしてくれっかも知れないし?!
 いやそんな恐れ多すぎて死ねる!

 って、おっとっと。
 そんな妄想よりも目の前の千草先輩!
 ちゃんと目に焼き付けておかないと。
 今日一日の俺の運勢に関わって来るからな。
 あの占い上手な二年生が云ってたから間違いない!


 建物の陰から、少しだけ顔を覗かせて先輩の姿を盗み見る。
 こちらに気付いていない事が嬉しくもあり、寂しくもあった。
 まぁ、こうやって盗み見るためだけに、気配を殺す訓練をして来た訳だから、気付かれては困る
のだけれど。
 気付いてくれないかと思うのも、まぁ、複雑な男心と云う奴だ。

 いつものように堂々と歩く千草先輩へ、孫兵が駆け寄って行く。
 その事に、ふとした違和感を覚えた。

 ……どうしてだろう。
 いつも通りの光景なのに。
 孫兵は千草先輩に懐いていて――それどころか、恋心まで抱いてる訳で――、千草先輩は特別
孫兵を可愛がってるから、当たり前の光景なんだけど。
 何だろう……何か、違ったような、……うーん……?


 まぁ、いっか。
 さっき白昼夢見たっぽいし、そのせいだろ。


 二人は一緒に畑へと向かって行く。
 孫兵が当たり前のように、先輩の腕に自分の手を絡める事が、少し悔しいし、羨ましいけど。
 それは仕方が無い事。当たり前の事。
 今さらな事だ。


 遠く、小さくなるまで二人の背中を見送ってから、両目を閉じる。
 それから、深呼吸を三回。

 ……よし、千草先輩分の補充は完了、体調は良好。
 ぐぐっと背筋と腕を伸ばして、大きく息を吐いた。

 二人の邪魔にならないように、毒虫達の様子を見に行っておこう。
 また逃げ出したーとなったら、孫兵を借り出さなきゃいけないし、千草先輩も怒るし。
 毒虫大脱走がお約束とは云え……空気は読まないとな、うん。


「……っし。残り半日、頑張るかぁ」


 先輩たちへ背中を向けて、毒虫小屋へと向かう。

 今日も忍術学園は、平和だ。


(その後結局、お約束通り毒虫が逃げ出して、お約束通り、俺は千草先輩にぶん殴られたけど。
 それでも忍術学園は、今日も一日、いつもの通り、平和だった)



 了


 突っ込みを待っている!(うおい!
 前半と後半の落差が……! いや、これを目指していた訳ですが……。
 ま、あれです。
 天女さんさえこなければ、竹谷はこんだけまともだったんですよ! 的な。←
 いや、まともじゃないな……ナチュラルにストーキングしとる……。←

 基本設定にある通り、捏造生徒と一年は組以外は天女さんについて全くと云っていい程覚えており
ません。
 なんとなく違和感を感じる程度。でもそれもすぐに無くなってしまいます。
 まぁ、それだけ天女さん”個人の”影響力が少ないって事ですね。可哀想に。←


 これにて、加藤千草編は完結とさせていただきます!
 次は……ダークシリアスか、それとも晴次編か……。ダークシリアス編、もう五話くらいは書いてあ
るんですけど……
 その、すずめを巻き込みたく、なりましてね、ちょっと……(おい!)
 少し内容変わりそうなのでー……。でもすずめ、二年生なのに死ぬの可哀想だな……でも一人だ
け外すってのも……うーん。
 ちょっと悩んで来ます^^^^^(この野郎)


 配布元:Abandon