彼は加藤千草の同室者だった。
 それ以上でもそれ以下でもない。只の同室者である。
 同室となった者は親交を深め、互いへ深い友愛を覚えると云うが、彼と加藤においては其れが適応
されなかった。
 故に、彼らは只の同室者同士に過ぎなかった。友情も愛情も芽生えず、其処に居るだけの存在。其
れで事足りたのである。
 彼は、加藤を「馬鹿」だと思っていた。理由は初対面時に遡る。
 まずは初めましての挨拶を済ませ――その際、加藤は眉間に深い皺を刻み込んでおり、彼は失礼
な奴だと憤慨しつつ、表面上は普通に接していた――、忍び装束に着替えさぁ教室に向かおうとした
時だ。
 加藤は、袴をはいていなかったのである。
 噴き出した彼に対し、加藤は「何だコイツ」と云う表情を隠しもしなかった。そしてそのまま出て行こ
うとするものだから、彼は必死になって止めたのだ。
「ちょ、待て待て待て待って! 袴はどうしたんだ袴は!」
 すると加藤は、きょとんとして――その顔が年相応で可愛かったのは、彼だけの秘密である――、
「袴ってはくものなのか?」
 そう云ったものだから、彼はその時点で加藤を「馬鹿」だと判じた。こいつはどうしようもない馬鹿だ
と、断定した。
 後から彼は知ったのだが、加藤は馬借の村出身であり、袴をはく習慣が無かったのだ。だから学園
でもそうだと思い込んだのである。
 家族の常識、世間の非常識とは、よく云ったものだ。彼はそんな悟ったような事を考えた。
 それ以降、彼は加藤を馬鹿だと思う事が頻繁にあった。
 例えば、常に仏頂面の所だ。
 眉間に深い皺を刻み、只でさえ鋭い目つきに箔をつけ、口元からは鋭い犬歯が覗く。
 そんな顔をしていれば、常に周囲に怯えられるものだ。元が良いのだから多少なりとも笑ってやれば、
あっと云う間に溶け込めるだろうに、加藤はそれをしないのだ。
 馬鹿だと、彼は思った。凄まじく損をしている馬鹿だと、彼は思った。
 だが、云ってやる事はなかった。何故なら忠告してやるほど仲良くもなく、また、それを切っ掛けにし
て親しくなりたいとも思っていなかった。
 加藤がどうなろうと、彼には関係ない事なのである。
 そんな加藤は馬術が得意なものだから――それで特待生になれたのだから、当たり前だが――、
それを利用し周囲に溶け込んだ。馬術が得意な一年生は珍しい。それこそ、武家や加藤のように馬
を使う家業の生まれでも無い限り、皆最初は躓くのである。
 彼と加藤の所属するろ組は、農民や商売人の子ばかりで、馬術が得意と云うのが加藤一人だけだっ
たのだ。だから加藤は尊敬の視線を浴び、また、組の中心的存在であった七松が教えを乞い、それ
に応え且つ丁寧に教えた事で組に迎え入れられてしまった。
 その時の彼がどれだけ悔しかったか、誰にも分かりはしないだろう。
 彼は七松に憧れていた。
 豆のように小さくて、でも力持ちで活発で、それなのに泣き虫と云う不思議な魅力の虜だった。だか
らいつも、どうやったら七松と親しくなれるだろうかと考えていた。
 それなのに加藤と来たら、彼がいくらやろうと思っても出来なかった事を、ただ馬術が得意だと云う
それだけで成し遂げてしまったのだ。
 自分も馬術が得意だったら、いや、何か一つでも他人より優れた部分があれば、加藤のようになれ
たかも知れないのにと、彼は下唇を噛んだ。残念な事に彼は至極普通な人間で、捜せばいくらでも似
たような人間が居るだろうと云う、ありふれた凡人だったのだ。
 だから、悔しくて堪らなかった。惨めで仕方が無かった。やはり加藤とは友達になれないと、思い知っ
た。
 またさらに、加藤を馬鹿だと思う事があった。
 加藤は矜持の高い子供だった。学園に入る前から己の主を定めていたような子供だった。
 だから、目上に頭を下げる事はあっても、跪く事は無かった。敬う心は持っていても、従属を良しと
はしなかった。
 そんな加藤を教師たちは「あの幼さで立派なもんだ」とか「将来が楽しみだ」などと褒めていたけれ
ど、同じ子供から見て、加藤ほど目障りな存在もいまい。
 そんな馬鹿だから、上級生の標的にされた。標的にされたまま、歯を食いしばる事を選んだ。そう
云う、馬鹿だった。
 彼がそれを知ったのは、一年の冬だった。
 加藤の帰りが遅く、あわあわと慌てる七松に良い所を見せたくて、「俺が見つけて来るから、七松
は先に寝てて」などと云った事が始まりだった。
 特に、他意は無かった。これを切っ掛けに、七松と会話が出来るようになったら良いのにと云う、
細(ささ)やかな期待があっただけだった。
 教師にばれては不味いと大声を出す訳にもいかず、加藤が居そうな所を歩き回り、色んな場所を
覗き込んだ。
 恐らく、いや、確実に、偶然だった。
 彼が加藤を見つけてしまったのは、偶然に他ならない。
 用具倉庫の隅で、雄の臭いにまみれた加藤を見つけたのは、偶然だったのだ。
 見つけた瞬間、彼の呼吸は確かに止まった。ぎょくりとおかしな音を、喉が立てた。その音で加藤
に気付かれ、鋭い眼差しが注がれた。
 動けない彼に向って、加藤は一言云った。
「誰にも云うな」
 いやに、明瞭な声だった。暴行を受けていた事実など無いような、透き通った声だった。
 彼に約束を守る義理は無かった。義務も無かった。けれど彼は云われた通り、頑なに口を噤み続
けた。
 たまに、極たまに、加藤の怪我を治療してやりながら、何でこいつは助けを求めないのだろうと疑
問に思ったりした。
 上級生が複数人で下級生一人を辱める行為は、厳罰対象だ。教師に助けを求めさえすれば、も
うあのような目に遭わずとも済むと云うのに、加藤は一言も「助けて」とは云わない。かと云って、合
意の上とは思えない。加藤はいつもボロボロになって帰って来て、「あいつらいつか殺す」と低い声
で呟いたりするのだから、力に物を云わせた強引な行為だと、彼にとて理解出来た。
 一度だけ、聞いた事があった。何故周囲に助けを求めないのかと、何故我慢するのかと。
 すると加藤は、犬歯をむき出しにして、云った。
「同種の雄が雌の代わりにされる事なんざ、よくある事だろが。俺が弱ぇのが悪ぃんだよ。そのうち
強くなって、あいつら全員ぶっ殺してやるから、それでいいんだ」
 馬鹿だと、彼は強く思った。
 弱いなら弱いなりに、身の守り方と云う物がある。表面上だけでもいい、従順になって相手を良い
気持ちにさせ、こちらに危害を加える意思を弱めるとか。他の強い者に庇護を乞うとか、色々とやり
ようはあるのだ。
 なのにこの馬鹿は、それを良しとしなかった。自らが強くなればそれでいい、などと嘯く。
 馬鹿なりの矜持が、嘘の従順を許さず、馬鹿なりの誇りが、他者に助けを求める事を拒絶する。
「てめぇの尻くらいてめぇで拭わなきゃ、男で在る意味がねぇだろ」
 その話は、それで終わった。続きは飛んで、彼らが三年生の秋へとなる。
 そろそろ冬支度か、そんな事を彼が考えて居た時、教室には組の善法寺が飛び込んで来たのだ。
七松と中在家に血相を変えて駆けよりながら、善法寺が叫んだ。
「小平太! 長次! 大変だよ! 千草が……!」
 ガタガタと音を立てて七松と中在家が立ち上がり、善法寺の後に続いて教室から飛び出して行った。
他の生徒らも慌てて後を追い、彼も何となく釣られるように続いた。
 医務室へと駆け込めば、そこには包帯まみれのくせにケロっとした顔の加藤が居た。ついでに、加
藤が個人で飼育している熊の月子と二羽の鴉も。ふと医務室前の庭を見れば、これまた加藤の個人
飼育対象の猪と牛が陣取っている。
 一体何があったのかと目を白黒させるろ組に向かって――いや、彼に向って、加藤はニッと笑って
みせた。
「見ろ。勝ったぞ!」
 云われ、彼は気付いた。
 加藤のさらに後方で、四人の上級生が床に伏していた。加藤以上に包帯まみれになって、うんうん
と呻き声を上げながら。
 彼は、開いた口が塞がらなかった。色々云いたい事があったのに――何やってんだ馬鹿とか、人
の手は借りない癖に動物はいいのかとか、何で俺に何も云わなかったんだとか――、何も云う事が
出来なかった。
 ただ、仕方なく、本当に仕方なく、親指を立ててやったのだ。よくやった、とか、そう云う意味で。
 すると加藤がにっかりと子供のように――事実、子供なのだが――笑うものだから、苦言を云う気
がさっぱり失せてしまったのだった。
 ただ、嗚呼やっぱり、こいつ馬鹿だと、改めて思った訳だ。
 それからさらに数年の時を、彼は加藤と共に過ごした。けれどもやはり、彼にとって加藤は「同室者
の馬鹿」で、それは加藤にとっても同じだった。
 友ではなかった。仲間でもなかった。彼も加藤も、お互いにそんな物は求めていなかった。ただ居る
だけの存在。それで事足りた。それで良かった。
 彼がそれを改めて思い知ったのは、六年生への進級試験が終わった後だった。
 包帯まみれの加藤を見下ろして、彼はため息を一つ。奇跡の生還を果たした同室者を前に、うんざ
りとした気分になった。
「潔く死ねよ、死に損い」
「てめぇ、怪我治ったら覚えてろよ」
 傷だらけの顔を歪めて、加藤は云った。三流悪役のような台詞だと云うのに、加藤が云うと洒落に
ならないなと彼は思う。ただでやられてやる気など、当然ないのだが。
「……小平太達はどうした?」
「うるせぇから帰した」
 またこいつはと、彼は二度目のため息をついた。
 加藤ほど、他人の「気持ち」を無下にする男もいないだろうなと、うんざりしながら。
 下関と備前の報告を聞いた後、どれだけ深く七松と中在家が絶望したと思っている。お人よしの連
中が嘆いたと思っている。竹谷と伊賀崎が泣いたと思っている?
 そう云ってやりたいのだが、云ったところで加藤は理解しないだろうと彼は知っていた。
 自身へ向けられる好意に尽く鈍感であり、無意識のうちに「自分は好かれる人間ではない」と思い
込んでいる卑屈な人間なのだ、加藤と云う男は。
 どうしてそんな人間になったのかは知らないし、知りたくも無いと彼は思っている。だから加藤のそ
の性質を完全に把握してしまった事は、不覚以外の何物でもなかった。
 包帯まみれの加藤に手を伸ばせば、怪訝な顔はされつつも叩き落とされる事は無かった。豊かな
黒髪に触れ、額に触れ、頬に触れ、喉に触れる。「気色悪い」と云われ、「黙れ」と返した。普段ならば
殴られている所なのだが、幸いな事に加藤は身動きが取れない。彼は自由に好き勝手に、加藤へと
触れ続けた。
 本当に、死ねばよかったのにと思いながら、触れ続け。
「……何泣いてんだ、お前」
「泣いてない。汗だ」
「その云い訳本当にする奴初めて見たぞ」
「うるさい」
 自分の側へ熱が戻ってきた事に、彼は泣いた。
 加藤は彼にとって、友では無い。仲間でも無ければ、家族でも無い。ただの、同室者である。
 だが、五年もの長きに渡って生活を共にした存在であった。なんら絆など存在しなくとも、最早他
人では無いのである。
 友で無く、仲間で無く、家族で無く、他人でも無い。
 ならばその存在は、只の同室者と呼ぶしかなく。
 彼は生活の一部が戻ってきた事にだけ歓喜して、泣いたのだ。



 32:聖なる剣が選んだ答え



 そう、それ以外のものになど、成りえないのである。
(情など持ちたくない。こんな男に。それでも、これは、俺の一部)



 了


 千草の同室者編でした。名前はありません。容姿もフツメンと云う以外決めてません。ようするに
モブです、モブ。(酷い云い草だ)
 千草の事をどうでもいいと思っているし、事実死んだら死んだで「あっそう」で終わらせられるしす
ぐ様忘れるのですが。生存本能突きぬけてる千草はどうやっても死なないので、振り回されてしま
う感じでしょうか。
 恐らく彼が、学園で最も千草と云う男を理解してると思います。多分、団蔵より。望んでないのに
ねぇ。


 執筆 2010/02/08