好きか嫌いかと聞かれたら好きだと答え。
 好きかどうでもいいかと聞かれたら、どうでもよいと答える。
 次屋三之助にとって、鳴瀧晴次はそう云った存在の先輩であった。
 穏やかに笑う人だと、記憶していた。例えるなら、原っぱの片隅にひっそりと咲く、野花のようと云
うべきか。人の手を借りずとも強く咲き、けれどそれを主張する訳でなく只そこに在り、ふと目を留
めた人間を穏やかな気持ちにさせてくれる。そんな人であった。
 すれ違った際こちらが何もしなくても、穏やかな声で挨拶をしてくれる優しいところが、少し好きで。
誰に対しても優しいだけなのに、同じ委員会の後輩にだけはでろでろに甘い所が少し嫌いで。見た
目地味なのに女に愛されまくる所を、どうでもいいと思っていた。
 個人的な関わりを持ちたいと思う事はない。同じ学年の三反田数馬がいやに懐いていたが、次屋
には関係のない事。
 目的地へ行く途中偶然見かけたら、「嗚呼今日も笑ってる」と認識する。その程度で良かった。
 だがある日の事――次屋が二年生の冬の頃、鳴瀧が忽然と姿を消した事で、その程度の存在で
は無くなってしまった。
 どこへ向かっていても、歩き回っても、あの穏やかな笑顔が居なかった。
 酷く、動揺した。
 どうしてかは分からない。まるで、毎日毎日昇り続ける太陽が、突然姿を消してしまったかのよう
とでも云うべきか。とかく、気持ちが不安定になったのだ。
 次屋は、歩き回った。学園中を、どこもかしこも。明確な目的地など持たず、ただひたすらに、あ
の穏やかな笑顔を求めて歩き、走り、転び、起き上っては駆け回った。
 名前は呼ばなかった。呼べなかった、と云った方が正しい。
 次屋は一度も、ただの一度も、鳴瀧の名を呼んだ事が無かったのだ。どう呼べば良いのか、許さ
れるのか、分からなかった。
 三反田のように甘い声で呼べばいいのか、多くの先輩達のように刺々しい声で呼べばいいのか、
鳴瀧の悪評を信じる同輩や後輩のように無機質な声で呼べばいいのか。
 どう呼べば、あの地味な先輩が笑い返してくれるのか理解出来ず、次屋は只管(ひたすら)動き続
けた。動いて、視界の全てを使って、探し続けて。けれど、どこにもあの笑顔は居なくて。
 訳も分からず、次屋は泣いた。入学してから初めての涙だった。
 好きな訳では、無かった。三反田のように、恋をしていた訳でも、なかった。ただ、そこにある笑顔
が、何もせずとも与えられる優しさが、心地良かっただけで。
 ただ搾取するだけだった自分を、ついには見棄ててどこぞへ消えてしまったように、次屋には思え
てならなかった。
 それが間違った考えであった事は、数日後知った。

「おや、こんばんは。次屋君」
 夜、厠へ行った帰りだった。月が明るい、夜だった。部屋へ戻るはずだったのに、何故か辿りつい
てしまった保健室前の縁側に、
 鳴瀧が腰かけていた。
 次屋が求め、探し回った穏やかな笑みを浮かべて、そこにあった。
「……ども」
 丁寧に言葉を掛けて貰ったと云うのに、返した言葉は素っ気ない二文字。普通ならば怒られるだろ
う言葉に、鳴瀧はそれでも笑みを浮かべていた。
 身にまとう衣服は、普段の忍び装束ではなく、目に痛いほど真っ白な寝巻で。左手には大袈裟なま
でに包帯が巻かれていた。頬が少し痩(こ)けたように見える。顔色は青白く、死人の一歩手前だ。
 実習で失敗でもしたのだろうかと、次屋は思った。忍術学園は学年が上がる程に、授業内容が厳し
くなり、中には命を落とす者もいると云う話だからだ。
 無遠慮に凝視し続ける次屋に向かって、鳴瀧は小さく笑い声を上げた。
「お珍しい。どうなさったのです、次屋君?」
「何が、すか」
「普段はすぐ、走り去ってしまわれますのに。ほら、こうして会話したの、初めてで御座いましょう?」
 鳴瀧は、事実をそのまま口にしただけだった。
 けれど次屋は、責められているように感じた。「今さら何のつもりだ」と突き放されたように。
 そう感じたのは、次屋の心に罪悪感があったからだ。自身が疾しい気持ちであったから、そのよう
に穿った考えを抱いたに過ぎない。現に鳴瀧は穏やかな笑顔と声のまま、前と変わりなく次屋に対し
て優しさを注いでいる。
 恐らく、鳴瀧は喜んでいた。これまで一方的に声を掛けるだけだった後輩が、ようやく自分と対話し
てくれた事を、素直に喜んでいたのだ。
(こんな、些細な事で)
 笑ってくれるのだ、この人は。鳴瀧晴次と云う男は。たったこれだけの事で、笑ってくれる。
 だと云うのに、自分は今まで、何も返して来なかった。挨拶をしてくれた時に、こちらも挨拶を返す
だけでも、この人は喜んでくれたに違いないと云うのに。
 傷付いていた。きっと、傷付いていた。挨拶をしても返されない度に、視線をよこして走り去って行
くだけの次屋の態度に、傷付いていた。
 そうに違いないと次屋は思い込んで――そこから逃げた。
 人を傷付けた事を自覚して、平然としていられるほど次屋は人で無しではなく、そつなく会話を続け
られるほど大人でも無かった。逃げると云う行為がまた鳴瀧を傷付けたと云う事を自覚したのは、朝
になってからだった。同室の世話焼きが「三之助がちゃんと布団で寝て起きた!」などと意味不明な
事を叫んでいたが、次屋は己の思考に全てを持って行かれ。
 二度目の涙を、布団の上で流した。
 その日、次屋はあまり親しく無かった三反田数馬の元へと訪れた。挨拶はする程度の仲でしかない
次屋の訪問に、三反田は少女めいた顔に少しばかりの驚きを見せたが、すぐに笑顔を浮かべてくれ
た。
 穏やかなその笑顔が、件の人物と重なってしまった次屋は、三度目の涙を流した。突然の涙に相当
驚いただろう三反田へと、次屋は縋りつく。
 口から零れるのは、後悔と懺悔と謝罪と、己でも理解出来ない心の事。
「あの人、の事、好きじゃない。あの人が、誰に嫌われ、たって、好かれたって、悪い噂があったって、
何も、思わない。でも……」
 三反田の腕を掴む手に、力が入った。痛いだろうに、三反田は振り払いもしなければ声一つ上げな
い。
 可憐な容姿とは裏腹に存在する胆力に、次屋はただただ尊敬の念を抱きながら、言葉を吐いた。
「笑ってて、欲しいって、思う。俺から、見える場所、で、ずっと、笑ってて、欲しい、って」
 どうでもいいと思ってた。野に咲く花のような存在の人。目に留まれば少し幸せになれる、そんな程
度の人であった。誰から嫌われても、愛されても、憎まれても、自分には関係ないと思って、ただ見る
だけにしていた人だった。
 なのに、姿が見えなくなった時、どうしようもなく不安になった。どこに居るのだろうと探し回って、涙
まで流して。
 好きでは、無かった。こうして泣いている今でも、あの人を好きだと感じられない。
 そこにただ、微笑んで居て欲しいだけの人。
「何て、呼ぶんだ、ろう。この、気持ち、皆、何て、云うんだ?」
 三反田の手が、優しく次屋の頭を撫でた。子供をあやすように、母親のように、優しく。
「そう云う気持ちは……本人だけの物だから、他人があれこれ云える物じゃないって、僕は思うよ」
 どこか大人びた口調で、三反田は云った。上級生の先輩らにくっ付いて回っているせいだろうか。
彼の心は、次屋よりずっと年上のように感じられた。
「だから、ゆっくり考えてみて。人から決めつけられた物より……自分で決めた答えの方が、納得行
くから。ね?」
「……三反田、先生みてぇ」
「あはは、実は晴先輩からの受け売りなんだぁ」
 茶化すように云った次屋に、照れ臭そうに笑いながら三反田は返した。問題の人の名前を出され、
次屋は少し動揺したが、三反田は構わず言葉を続けた。
「さっき……次屋は晴先輩を傷付けたって、きっと怒ってるって云ったけど……大丈夫だよ、絶対」
「え」
 絶対、の一言に、呆気にとられる。自分で答えを探せと云った口が、他人の気持ちを決めつけた。
「だって晴先輩は優しいもん。僕ら下級生が何したって……許してくれるよ。だから大丈夫。怖がっ
たりしないで、晴先輩と仲良くなってあげてよ。ね? そしたら先輩、凄く喜ぶよ!」
 満面の笑顔で告げられた言葉に、次屋は愕然とした。それに気付かない三反田は、にこにこと穏
やかに笑っている。
 震えそうになる手を叱責して、次屋は俯いた。ぽたぽたと、涙が三反田の膝に落ちる。
(それ、は)
 心の中で、呟く。
(嗚呼、それは、それはそれは――)
 ――価値がないと、云う事、では。
 鳴瀧にとって我々下級生は、傷付けられるにも値しない存在と云う事では、ないか。どこまでも許
し続けるならば、それは。
 それは。
(あぁ……そうか……)
 次屋が鳴瀧の事を、野の花と思っていたように。鳴瀧にとっても、次屋たち下級生は――


 路傍の花に、過ぎなかったのだ。



 21:何処かに咲く花



 今日も次屋は確認する。
 嗚呼、笑っている。笑っている。今日も綺麗に、咲いている。
 鳴瀧が微笑みながら、こちらへ向かって手を振った。次屋もまた、小さく笑みを浮かべてから、手
を振り返した。

(穏やかな優しさを注ぐ野花を、路傍の花は、今日も、愛でる)



 了


 こう云う関係も萌えるな……と思った、異端者雲麻ですこんにちは。←
 私の萌えは人さまとずれてる気がしてならない。素直に相思相愛を書けば良い物を。

 晴次にとって後輩はどんな存在なのか。
 それは晴次にしか分かりません。
 人は他人を解れませんが、解りたいと思い続けるのは尊い行いだと思います。


 執筆 2010/03/24