ないわー。
 食満留三郎はその部屋に入った瞬間、まずその一言を胸の内で呟いた。
 部屋には誰も居らず、留三郎一人きりなのだから声に出しても誰も聞き咎めはしなかっただろう。
けれど声が出なかったと云う事は、己で感じている以上に錯乱していたのかも知れない。
 ……ないわー。
 再度、心の中で呟く。
 担当教師高尾裕子を探して入った部屋だが、どう見てもマトモではない。
 中央部に置かれた黒い台だけ見れば、良心的に考えて治療室と思えない事もない。だが、四方の壁
は妖しい赤と紫に彩られ、タペストリーは趣味の悪い文様、一目見て邪悪だと感じる祭壇まである。
 そして極めつけは床に散った赤い液体。乾ききっている物からまだぬめりを帯びている物まで、大
小様々だ。此処は病院だし、薬かな。などと現実逃避したくとも、鉄錆びの臭いが明後日に飛びそう
な思考を強引に引き戻してくれる。
 砕けた言葉で云うなら、ヤバい。此処は、ヤバい場所だ。存外冷静な本能が云う。
 これは君子危うきに何とやら精神で、くるりと踵を返し勇と千晶の手を取って逃げるのが得策だと
思うのだが、現在行方知れずの高尾の事を考えるとそうは行かない。
 こんな見るからに怪しげでヤバい場所に居るかも知れない担当教師を捨て置き、尻尾を巻いて逃げ
帰るほど、留三郎は腰抜けでは無かった。
「……はぁ」
 大きく、ため息。
 もう少し自分が臆病者だったら。もっと卑怯者だったら。同級生の事も担当教師の事を考えず、一
人さっさと病院を出て家に帰って、このヤバい部屋の事も忘れベッドに潜り込んでいるだろうに。
 根本的に武闘派である留三郎は、この状況において、どうしても「逃げる」と云う選択肢を選ぶ事
が出来なかった。
「……とにかく、高尾先生を探さないとな……」
 病院に来る途中偶然出会ったヒジリと云う名の男の言葉と、その男が放って寄越した雑誌に書かれ
ていた文章が思い出される。
 人体実験、悪魔崇拝、生贄――
「……平成の世を何だと思ってやがる」
 自分でも意味不明な悪態を付いて、留三郎は怪しげな治療室から外へ出た。
 何はともあれ、高尾裕子を見つけなければどうしようもない。
 今後どうするべきか考えるのは、彼女を見つけた後だと、留三郎は思った。



 − 無言の終焉に気付かずに。



 了


 地味に的中。



 変化した手と体を見下ろして、一番に言った言葉は、
「――銭湯入れねぇじゃねぇか!」
 だった。
 留三郎は風呂が好きだ。自宅では味わえないあの広々とした湯船に浸かれる、銭湯が大好きだ。勿
論、温泉も好きだ。
 だが悲しいかな。最近はどこの銭湯でもこう云った注意書きがあったりするのだ。
『刺青の方お断り』
 決してその筋の人間ではないが、この全身に走った黒い刺青はどう見たってアウトだ。銭湯どころ
ではない。日常生活でもアウトだ。
 少々喧嘩っ早いが、真面目で優秀な模範生で通ってたのに。
 がっくりと肩を落す。
「……あのガキ、覚えてろよ」
 この刺青の原因はどう考えても、あの気持ちの悪い、生理的に受け付けない虫だ。内臓を食い破る
と云うより、内臓を根こそぎ食いつくし、その排泄物で新たな臓器を作り出すような奇怪な感覚を植
え付けてくれたあの虫のせいだ。
 その虫を食わせたのは誰であろう。勝手に人に興味を持ち、動けぬ事の良い事にこちらの意思を完
全無視したあの子供だ。ついでにあの微妙に腹立たしい老婆。
 子供と老婆であっても、許せる事と許せない事がある。
 これは間違いなく許せない部類だ。
 クソ、と悪態を付きながらうなじに手をやる。途端、ガツンと硬い物に手が当たった。
 何事かと両手をやれば、うなじから何かが生えているのが分かった。部屋に鏡が無い為断定は出来
ないが、突起物――角、とでも云うべきか。そう云う類の物がそこにはあった。
 そして、留三郎は云う。
「仰向けで寝られねぇ……!」
 眠る時は必ず仰向け派だと云うのに。うつ伏せは息苦しいし、横向きは顔が圧迫されて痛いから厭
なのに。
「……あのガキ、マジ、覚えてろよ」
 確かな憎悪を込めまくって、留三郎は呟いた。得体は知れないが外見は子供だ。隙を見て尻叩きし
てやると心に強く誓う。
 自分の状態は分かった。次は周囲を調べねばと床に足を付ける。軽くストレッチをするが、特に違
和感はない。刺青まみれになるわ角は生えるわで、何かしら影響が出ているのではないかと危惧して
いたのだがそうでもないようだ。むしろ、体は軽く絶好調だと云っても差し支えない。
「さて……」
 やるべき事は沢山ある。
 最優先事項はクソガキの尻叩きだ。しかし、高尾も探さねばならないし、勇と千晶の無事も確認し
たい。『東京受胎』なんて云う壮大に馬鹿な事をしでかしてくれた氷川も殴りたい。それでもって、
この変化しまくった体も元通りにしたい。
 腕を組みしばし考えて、それから気合を入れるようにうし、と小さく呟いた。



 − 狂り狂りて。



 了


 錯乱しすぎて逆に冷静になっちゃった感じ。



 全力で長時間走った後のように、留三郎は肩で息をしながら両手で膝を掴み、身を屈めていた。
 不思議な事に、汗はあまり出ていない。ただ、呼吸だけが荒い。
 ズキズキと痛む脇腹に手をやれば、ぬるりとした液体の感触がした。自分の流した血液だと悟るの
に、十秒もかかった。
 このような怪我、普通はしない。事故か通り魔にでも遭わない限り、普通に生きる高校生はこんな
怪我をしない。
(内臓、にまでは、いってない、か)
 冷静に考える。少しくらいならば放っておいても良いだろうと判断する。
(何があるか、分からないし。薬は温存して、おきたい……)
 先ほど見つけた小瓶を、ズボンのポケットの上から撫でる。
 宙にぷかぷかと浮かぶ不可思議な箱から出てきた物だ。その箱は指先でちょいと触れたら、宙に浮
いたまま分解したので中身を取り出したのだ。ご丁寧にもラベルに「傷薬」と書いてあった。
(大体、出口あんのか、此処……)
 入り口があったのだから出口もあると思いたいのだが、どうにも自分の常識が通じない場所のよう
だ。悲観的に考えるのも性に合わないが、楽観的にもなれない。
 肩越しに背後を見る。自分がやってきた方は赤い壁で塞がっている。
(エレベーターに、乗ったつもり、だったのに)
 何故こんな目に、と思い、首を左右に振る。
(……らしく、ねぇか)
 未だに笑っている膝をぱしりと叩いて、留三郎は身を起こした。背筋を伸ばし、肩を回す。
「……しっ!」
 気合を入れ、足を踏み出す。
 とにかく前へ進まなければ、何も始まりはしないのだから。



 − 深淵の主の掌へ。



 了


 初戦闘後。とにかく慎重に慎重に進んだなぁ。



 ひらひらと目の前を幻想的な存在が飛ぶ。女児向けの人形のように小さなソレは透明な二対の羽を
生やし、蝶の如く留三郎の前で舞った。
 美しいなと、素直に思う。
「……なぁに、トメ? さっきからずぅっと私の事見てるけど。何か用?」
「ん。いや、綺麗だなぁと思ってな」
 そう云えば羽以外の動きを止め、小さな顔をカァと赤らめた。照れているらしい。
「トメって情熱的ね」
「そうか?」
「そうよ」
 うふふと含むように笑い赤い顔を引っ込めて、ひらりと羽を軽く動かすと、ソレは留三郎の右肩に
降りた。
「会ってすぐの妖精を口説いてるんだもの」
「あれって口説く内に入るのか?」
「充分入ってるわ。この女殺し」
 また含むように笑い、妖精は小さな指で留三郎の頬をツンと一度だけ突付いた。
「不思議ね、貴方。他の悪魔と違う感じがする」
「そりゃ、人間だからな」
 当然だろうと云えば、ぷぅと妖精の頬が膨らんだ。顔の形が崩れているのに、その幼稚な仕草が酷
く愛らしい。
「またそれ? 貴方、どう見たって悪魔じゃない」
「だから、元人間何だって」
「もー。まだ云うの? 人間だって云うならマガツヒの一つや二つ出してよね!」
「まがつひ?」
 聞き覚えの無い単語を鸚鵡返しにすれば、驚きの叫びが返って来た。
「マガツヒを知らないの?! 貴方、悪魔でしょう?!」
「だから、元は人間なんだって」
「……」
 繰り返して云えば黙り込まれてしまった。いい加減しつこいとでも思われたのだろうか。けれど事
実、留三郎は元人間だ。今現在こんな全身刺青の角あり悪魔になっているが、人間だったのだ。
「……」
 しばらく無言で睨みつけていた妖精が、ふいに顔を和らげた。ふぅと一つため息をついて、分かっ
たわと云う。
「貴方が元は人間だって話、信じてあげる」
「本当か?」
「嘘吐いてるようには見えないし、そんな嘘吐いたって意味ないしね。だから信じてあげるの」
 ぷんと、少し膨れた顔のまま云う。それでも信じてもらえた事が嬉しくて、留三郎は己の顔が柔ら
かくほころぶのを感じた。
「……でも、あんまり云わない方がいいわ。人間だ、なんて」
「何でだ?」
「人間だったらマガツヒを狙われちゃうもの。危ないわ」
「そのまがつひって?」
「悪魔の力の源よ。いっぱい集めると強くなれるの。人間の負の感情から生まれるのよ」
「へぇ。じゃぁ俺から出ないのも道理だな」
 妖精がえ、と顔を上げる。きょとんとした顔に向かって、留三郎は微笑んだ。
「綺麗なピクシーと一緒じゃ、悪い感情なんか出ないさ。楽しいとか嬉しいとか、そう云う感情でも
マガツヒが生まれたらいいのにな」
 きょとんとした顔が、瞬く間に赤に染め上げられた。今度は留三郎がきょとんとしてしまう。
 妖精はパッと肩から離れると、いきなり留三郎の頭を蹴った。思わず「いて」と声を出してしまっ
たが、実は云うほど痛くない。手加減してくれたのだろう。
「? いきなり何するんだ?」
「それはこっちの台詞よ! 馬鹿! トメの馬鹿!」
「いて、いてて。蹴るなって。ごめん、謝るから」
「謝らないでよ馬鹿!」
「どうすりゃいいんだよ……」
 生まれたての悪魔と弱い小さな悪魔はキャンキャンと騒ぎながら、悪魔が跋扈する病院を歩んだ。



 − 初めての友に敬意を。



 了


 ピクシーの可愛さは異常。



 一歩外に出た瞬間視界に入ったのは、廃墟同然の街並みだった。
 愕然としたのは数秒の事で、留三郎は慌てて周囲を見回す。途切れた廃墟の向こうに広がる砂漠と、
中央――そうだ、空が無くなっている。あれはまさしく中央だ――で輝く物体。
 嗚呼。心の中で嘆き、留三郎は膝をついた。ひび割れたアスファルトと砂が擦れ合う音がした。
「ど、どうしたのよトメ?!」
「トメ? トメぇ? ねぇ、だいじょーぶぅ?」
「主ヨ。ふぉるねうすニ傷デモ負ワサレタカ?」
 突然膝をついた留三郎を心配してか、ストックから出ている仲魔達が慌てた風に声をかけてくる。
 初めて仲魔になってくれたピクシー。突然懐かれ仲魔になったコダマ。命乞いをされ仲魔にしたシ
キガミ。
 彼らの顔を順々に見回してから、留三郎は両手で顔を押さえた。その行動に、また仲魔達が騒ぎ出
す。
 そうだ。自分は、何を、今更。
(もう此処が、”東京”では無いと、分かっていたじゃないか……!)
 自分の全身も、トイレの鏡で見た。歩き回った病院内には、悪魔と幽霊みたいな思念体と呼ばれる
存在が居た。その悪魔と今までずっと戦って来た。ついさっき、病院の主(ぬし)と呼ばれる大きな
悪魔と戦って勝ったばかりだ。
 分かっていた事だ。平凡な日常は消え失せたのだと。氷川が起こした『東京受胎』とやらのせいで、
無くなってしまったのだと、分かっていたのに。
(こんなに、ショックを受けるなんて……!)
 己の弱さに、吐き気さえした。
 顔を押さえ込んでいた手を、強く握り込む。目元に滲んだ水分を拭い払い、立ち上がった。
「トメ?」
「平気?」
「主?」
「……平気だ。悪いな、皆。余計な心配かけた」
 そう云って笑みを浮かべ、三人(三体?)の頭を順に軽く撫でた。撫でられた仲魔達は互いに顔を
見合わせた後、急にこちらへしがみ付いて来る。……シキガミはしがみ付いたと云うより、張り付い
たと云う感じだが。
「お、おいおい、何だよ」
「イヤナニ……」
「なぁんとなくぅ」
「こうやってあげた方がいいかなー、って思っただけよ!」
「何だそりゃ」
 ははと軽く笑い声を上げながら、留三郎は歩き出した。まとわり付く仲魔達を振り払わないまま、
皆の行動を嬉しいと思いながら。
 ――その、傍から見れば滑稽としか思えない姿を、一人の書生と一匹の黒猫に見られている事など、
露とも思わずに。



 − 見知らぬ優しさ。



 了


 フォルネウス撃破メンバー。