悲鳴を聞いた。
甲高い女性の悲鳴を聞いた。
――違う違う。望んでない願ってない! 私が夢見た世界は……!
その声に集中する。
真っ白な闇の中、亜麻色の髪を振り乱した女性が一人、蹲っていた。
彼女は泣いていた。
綺麗な顔を歪め、泣き叫んでいた。
両手で頭を抱え、天を仰いで絶叫していた。
――こんなハズじゃなかったのに!
憎しみが篭った絶叫に足が竦む。
あんな――泣く叫ぶまで、誰かを、何かを憎むような強い想いを、初めて目にした。
人の意思とは、あそこまで強いものだっただろうか?
怖いと思ったけれど、放って置けなくて近づいた。すぐにこちらに気付いて、彼女は涙を滔々と流す
目をこちらへ向けて来る。
憎しみに絶叫していた人とは思えないほど、澄んだ瞳だった。きらきら光る碧色を美しいと、思った。
女性はじぃと見つめてきた。頭のてっぺんからつま先までを、まるで値踏みするように眺める。
ふいに、彼女はにこりと微笑んだ。
その微笑みは聖母、と形容される笑みだったのかも知れない。
けれど、どうしてか。
その微笑は、
――貴方でいいわ。私の力になりなさい。私のために……私たちの、焔のために。
キ■ガイ染みて、見えた。
− 楽園の道しるべ。
草の揺れる音がする。
風が頬を撫でながら柔らかな花の香りを運んできてくれる。
虫の音は鈴を転がすようにかすかに耳をくすぐって、天には夜の帳が降りて、空には星が瞬いている。
大きな月――本当に月なのだろうか。大きすぎる気がする――の光が、周囲を淡く照らしていた。
本島俊夫は花畑の中心部に座り込んで、呆然としていた。
(こ――ここは、どこだろう……?)
首を捻り、周囲を見回す。やはり、見覚えは全く無い。
何故だろう。自分は昼間の東京・中野、眩暈坂を榎木津と共に下っていたはずだ。
榎木津が腹が減ったと喚いて、じゃぁ蕎麦でも取ろうかと云う中禅寺に、麺じゃなくて米がいい米が喰
いたいと駄々を捏ねて喚いた結果。
「……じゃぁ帰れ!」
お怒りと共に蹴り出されたのだ。蕎麦でもうどんでも別に良かった本島まで一緒に。
いくら本島と榎木津が恋仲だとは云え、一緒に追い出す事ないのにと少し不満に思った。だが結局は
榎木津に逆らえるわけもなく、さて丼ものかそれともカレーライスかと二人で話していた。
その時、くらりと眩暈がしたのだ。
眩暈坂はその勾配のせいで眩暈を起こしやすい。そのせいかと思ったけれど、違うように本島には感
じられた。
(そうだ。あの時、声が……)
――異……の者……よ……
一体なんの事なのか。
疑問の声を発する前に、本島の視界は真っ白になって意識を失って――
(いや、待て。意識を失う前に確か……誰かと話を……)
思い出そうとした途端、背筋に怖気が走った。
何故だろう。脳がその記憶を反復する事を拒否しているような。
背筋がゾクゾクとして寒いし、無理に思い出さなくてもいいかと本島は一人納得する。
またきょろりと周囲を見渡す。
榎木津は見当たらないし、此処がどこかもわからない。どうすればいいのだろうと本島は首を傾げた。
基本的に受動態である本島は、一人で放り出されると迷ってしまう。
首を傾げる本島の背後から、突然うめくような声が上がった。
驚いて振り返ると、赤い髪の少年と亜麻色の髪の少女が並んで倒れていた。どうして今まで気付かな
かったのだろうかと、自分の愚鈍さ加減に嫌気が差しながら、本島は少年の方の肩を揺すった。
見ず知らずの少女に触れる事は躊躇われる。それに何故か――亜麻色の髪が怖いと思ったのだ。
それを云うなら、派手な赤い髪も怖いのだけれど。
「君、大丈夫? しっかりして」
「ぅ、……ん?」
かすかな反応に、安堵の息を吐く。
「こんなところで寝てたら風邪を引いてしまうよ?」
他人が聞いたら、「そう云う問題ではないだろう」と突っ込みを入れてしまうような、若干ずれた発言を
しながら、本島はその少年を観察した。
(……見慣れない格好だなぁ)
少年は先に述べたように赤い髪をしている。服装は白い上着と黒いズボンと、一言で云ってしまえば
普通なのだが、形が変だ。お腹も出ているし。冷えないのだろうか。
少女の方は髪の色は少年より地味だ。だが、変な模様の入ったスカートは、切れ込みが深い。
(今の若い子って、皆こう云う格好してるのかな?)
自分も若者に分類される年齢だと云うのに、本島は首を傾げながら思った。
それよりも。
昭和日本に真っ赤な髪の人間など居ない。男子が長髪と云うのも有り得ない。女性がスカートをは
く事は推進されているが、切れ込みなど入れようものなら破廉恥だと白い目を向けられてしまう。
もし此処に榎木津なり幼馴染の近藤なりがいたら、「世間知らずにもほどがある」と頭に平手の一
つや二つ、本島は喰らっていただろう。
「う……あ、れ?」
「えっと、こんばんは」
「君、は……」
目覚めたばかりのせいか意識がハッキリしないのだろう。舌っ足らずに話す姿が可愛かった。
「僕は本島。君は?」
「モトシマ? ……変な名前。あ、俺はルーク」
変な名前を云われて首を傾げ、ルークと云う名前にまた首を傾げた。
本島なんて苗字はありふれた物で、変でもなんでもないし――中禅寺や榎木津は珍しいけど――、
”るーく”の響きはどう考えても国外のものだ。
しかし、言葉は通じている。
「なぁ、此処どこだよ」
「え? 僕も知らないよ。君に聞こうと思ってたんだけど……」
「ちぇっ。何だよ、役に立たねー」
「ご、ごめん……」
理不尽な事を云われているのに、愚直なまでに素直に謝り、項垂れてしまうのが本島だった。
その姿に何か思うところがあったのか、ルークと名乗った少年はバツが悪そうな顔をして、
「べ、別にいいけど。俺だってわかんないんだし……」
そう呟いた。それを聞いて、本島はにっこりと笑う。
「うん。有難う」
「べ、別に、礼を云われるような事云ってねーよ!」
顔を赤くして、ルークはそっぽを向いてしまった。外見に似合わない子供のような姿に、本島はつい
小さく微笑んでしまう。
ますます顔を赤くしたルークは、それより! と大声を上げた。
「あの女はどこ行ったんだ?!」
「あの女って……この子の事?」
そう云って本島は少女が倒れている方を見て、驚いた。
いつの間にか少女は意識を取り戻し、身を起こしていた。しかし本島は、それに驚いた訳ではない。
少女は目が合うと同時に、本島の咽喉に小さなナイフを突きつけてきたのだ。
いくら鈍いだの能天気だの云われている本島でも、これには硬直するしかない。動こうものなら咽
喉を抉ると、少女の目が云っていたのだ。
人にいきなり刃物を突きつけるような子には見えなかったけれど――綺麗な顔をしているし――、
人は見かけによらないのだと云う当たり前の事を、本島は思い出した。
芸術品よりも美しい顔をした男の中身が、破壊神であったりするような世の中なのだ。どれだけ綺
麗な顔をしていても、中身など知れたものではあるまい。
「……貴方、何者?」
綺麗な声だった。歌を唄えば、さぞうっとり出来るだろう声だ。
「何故此処に居るの? 答えなさい」
答えなければ殺す、と言外に云われた。本島は両手を無意識に肩辺りの高さまで上げながら、ごく
りと唾を飲み込んだ。
「え、っと……。名前は本島、です……」
「モトシマ? 変な名前ね」
また云われてしまった。
「ここに居る理由は……その、僕にもわからなくて……。此処がどこか、ご存知ですか?」
「とぼける気?」
「いえ、本当に……」
「貴方も超振動を起こして飛ばされたとでも云う気? 有り得ないわ。同じ日に別の場所で超振動が
起きると云う偶然があったとしても、同じ場所に飛ばされるなんて何億分の一の確率よ」
何の話だかわからないが、何億分であろうと確率があるなら有り得ない話しではないのではと、本
島は思う。そもそも確率なんて無意味だと、中禅寺は云っていたけれど。
起きる事は起きる、起きない事は起きない。
ただそれだけの話しだと。
「そもそも、超振動を起こすには第七音譜術士(セブンスフォニマー)が最低二人は必要だわ。貴方
が仮に第七音譜術士だったとして、もう一人は何処?」
「ちょうしんどう? せぶんすふぉにまー?」
不可解な単語に、本島は思いっきり頭の悪そうな発音をしてしまった。少女の発言の中で特に意味
がわからない単語が其れだったのだ。
少女の綺麗な眉間に、シワが寄った。
「どこまでトボける気なの? 服装から見てベルケンドかシェリダンの技術者かと思ったけれど、違う
のね。まさか、工作員(スパイ)……?」
「スパイ?!」
何がどうなって、そんな職業の人間にされているのだろう。本島は極一般的な凡人の、しがない図
面引きだ。
ぐっと、ナイフに力が込められた。思わず息を飲む。鋭いナイフが皮膚を裂いているのか、ピリリと
小さな痛みが走った。
殺される。そう思った。
「―――おい! 何してんだよ!」
しかし本島の命は救われた。
ぐいと襟首を引っ張られて、後ろに倒されたお陰でナイフから解放される。思わず首に手をやると、
ぬるりと血の感触がした。
冷や汗を掻きながら見上げれば、そこにはルークの必死な顔があった。
「あ……、ルーク君……」
「お前! 師匠に襲いかかったりモトシマにナイフ突きつけて殺そうとしたり! 何何だよ! 意味わ
かんねーよ馬鹿!」
本島を抱え込みながらルークは喚き、少女をギロリと睨み付けた。
その視線を受け止めて、少女はスゥ……と静かに目を細めたのだった。
続
加筆修正 2009/09/15
