「郭ってー、マゾなんだよなー?」
 ふっくらした桜色の唇からぽろりと零れ落ちたその言葉に、その場に居た東京選抜の面々は戦慄した。
 何だってまぁ、わざわざそんな言葉を口にするのか。翼には理解不能だ。
 その理解不能の言葉を吐いたのは、恐れるものは何も無いだろう、最強無敵の素黒帝王――上原淳
であった。
 ああ、理解できるはずもない。あんな、脳みそのネジが飛んでる所か基礎の部分から狂ってそうな
奴の言葉、理解出来てたまるものか。
 翼は投げやりに思いながら、手元にあったコーヒーを啜った。砂糖を入れ忘れたせいで、苦い。
 周りは、未だに凍り付いていた。



 − 君と手を取り合って■■を。



(上原……お前はなんだってそう……!)
 電波を操る人外に、わざわざ云わなくていい事を云うのか。
 兄貴分の木田は、ただでさえ傷付いた胃がさらにシクシクと痛むのを感じた。何故十五歳の若さで
胃炎を患わなければならないのか。悲しすぎる。
 さて。
 普段、そんな言葉を云われようものならば、得意の毒電波で一撃死させるだろう郭英士は、きょと
んとした顔で上原を見ていた。
 その表情は年相応に見えるあどけないものだった。嗚呼、こいつもこんな表情が出来るんだなぁ……
と、内藤は感極まって涙ぐむ。
 大袈裟だ。
 手にしていた本をぱたむと閉じて、英士が口を開く。上原とは対照的に、薄い、しかしなめらかな
唇だ。
「……そうだけど」
 あっさりと認める。今更過ぎて、誰も驚いたり突っ込みを入れたりしない。
 英士が晴華に対して、蹴ってくれやら鞭で打ってくれやら蔑んでくれやら懇願しているのは日常茶
飯事であるのだし。
 きっと奴は地獄に堕ちても楽しく過ごすのだろうなと、伊賀は思った。だってあそこには、郭好み
の拷問世界が広がっているわけだし。
 しかしそれでも、面と向かって「マゾなんだよな」と云うのはやはりどうなのだろう。一般常識―
―此処まで虚しく響く言葉もそうないだろう――に照らし合わせれば、間違いなく無礼だ。
「ふーん」
 返答を受け取った上原の反応はえらく淡白だった。机に両肘をついて、両掌に顎を乗せて、細めた
瞳で英士を見ている。
 しかし、ぱっと顔を輝かせると、英士の白い顔に手を伸ばした。
「じゃぁさー、こーゆーのが快感になんのー?」
 そう云って上原は、信じられない暴挙に出た。
 まだまだ幼い、ふくふくした手が、
 ぎゅみ――
 と英士の白い頬を抓り上げたのだ。
 この暴挙に、その場に居た者の殆どがヒィと息を飲んだ。息を飲まなかった者でも、額に一筋汗を
掻く。
 ――殺されるぞ上原ァァァァッ!
 何人の人間が、上原の脳が毒電波で破壊され、がっくりと首を落とす様を想像しただろうか。
 そうなって当然の暴挙に出たのだから、仕方が無いと云えば仕方が無い。
「はにふんの」
 間抜けな声があがる。
 怒り狂うかと思われていた英士は、意外にも正常だ。欠片の怒りすら見受けられない。
 それに対して、上原はカクンと首を傾げる。
「あれー? 気持ちよくないー? ……変なのー」
 そう云って上原は、抓り上げていた白い頬から手を放した。
 ちょっと待て上原、と心の中で誰もが突っ込みを入れる。
 ――頬を抓られて気持ちがいい方が変だぞ。人間は本能的に痛みを避ける生き物だから!
 そんな真っ当な突っ込みは、心の中で消化されて終わった。誰が好き好んで云うものか。とばっち
りは喰いたくない。
 頬を抓られていた英士は、少し赤くなった頬をさすさすと撫でながら、憮然とした表情で云う。
「当たり前でしょ。なんで気持ちいいのさ、こんなもん」
「だってマゾなんだろー?」
 これまたストレートに物を云う。
「痛味で快感得るんだろー?」
 ぷくりと、上原の頬が膨れた。
 自分の思ったとおりの展開にならなくて拗ねているらしい。
 むくれる上原の肩を、ぽんと渋沢キャプテンが叩いた。振り返る上原に、笑顔で云う。
「上原。そろそろやめてやれ。木田が胃痛で死ぬぞ?」
 にっこりと笑って、えげつない事を云う。これが嫌味でも何でもない、ただ素直な気持ちで喋った
言葉なのだからたちが悪い。
 そして、にっこり笑顔の渋沢が示した先には、腹を抱えて机に突っ伏し、カタカタと震えている木
田圭介の姿があった。側でオロオロしながら背中を撫でている内藤の姿が、さらに木田の哀れさを強
調している。
「やーだー。だって気になるもーん」
 苦しむ木田の姿を見ておきながら、上原はぷっとそっぽを向く。
 子どもは好奇心の鬼だとは、よく云ったものだ。好奇心は猫をも殺すと云う、怖い諺もあるが。
(上原……俺はお前をそんな薄情な子に育てた覚えは無い……!)
 恐らく。
 上原も木田に育てられた覚えはないだろう。
「ねーねー、郭ー、何でー? 何でマゾなのに、抓っても気持ちよくないのー? ねーねー?」
 両手を英士に向かって伸ばし机にべたーと垂れながら、上原が云う。ぱたぱたと動く手を英士は不
思議そうな表情で眺めてから、上原のひよこのようにふわふわした頭をぽふりと撫でた。
 よしよしと撫でながら、英士は慈愛に満ちた表情で口を開く。
「いい上原? 俺が好きなのは晴華と将なの。此れは知ってるよね?
 将はね、なんかもう、マゾの俺から見ても縛り上げて監禁して嫌がるところを組み伏せてあんあん
泣かせたい感じなんだ。でもね、俺はマゾの性癖だから、好きな人に虐めて欲しいわけ。それはもう、
これでもかってくらい苛め抜いて欲しいんだ。こっちが絶望するくらい、救いも何もないって思わせ
るくらい、手酷くやって欲しいの。
 それなら、晴華って最高でしょ? 蹴ってくれるし詰ってくれるし、蔑んでくれるし、踏みつけて
「この豚野郎!」とか云ってくれるし。これであのカモシカみたいにしなやかな足に黒いヒール履い
てくれて、さらに鞭で滅多打ちにしてくれたら最高なんだけどなぁ。
 ふふふふふ。
 ようはね、俺は、単純な痛みじゃ何も感じないの。下半身に来ないの。好きな相手からの痛みじゃ
なきゃ気持ちよくならないんだ。まぁ晴華の蹴りが善すぎて、他のに反応できなくなったって云うの
が本当のところなんだけどさ。ああ本当に最高だよ、もう思い出しただけで勃ちそう。て云うか、勃
つよ。
 yes!
 あの蹴りのよさがわかんない奴って不感症だよね。この世の快楽がいかなるモノかわかってない愚
か者だよね!
 それがわかる俺って倖せ。晴華万歳! ハイル晴華! 晴華様よ永遠にッ!」
 以上、一息である。
 しかもゆっくり。重要なところは一句一句、句切りつつ。
 一体どんな肺活量をしているのだ。しかも云い切った後も、涼しい顔をしているし。息一つ乱して
おらず、汗も出ていない。
 周りの面々は、そんな偉業をやってのけた郭英士を呆然と眺めた。
 変態だ変態だと思ってはいたのだが、正直、此処までイっちゃってるとは思っていなかった。いや、
思いたくなかったし、知りたくもなかった。
 自他共に認める親友の若菜結人と真田一馬も、フォローのし様がない。どうやって庇えと云うのだ、
あの言葉の嵐から。
 むしろ、そろそろ縁を切るかと本気で考え始めている始末だった。
 ――最も、切ろうと思って切れるような細い縁ではないのだが。縁切り神社に絵馬を奉納しても無
理っぽい。
 はてさて。
 誰もが耳を塞ぎたくなるようなイっちゃった言葉を真っ向から受けた上原様は。
「へぇー。好きな人じゃないと駄目なんだー。我が侭なマゾだな郭はー」
 あははははーと、暢気に笑っていた。
 その笑顔に、何人かの直感が鋭い面子が背筋を凍らせた。
 なんと云うか、やっぱり――
「当然でしょ。当たり前の事をわざわざ聞かないで」
 シニカルな笑みを英士は浮かべるが、別にかっこよくもなんともない。さっきの言葉を聞いた後で
は滑稽としか思えない。
「ところで上原」
「なぁにー?」
 英士、にっこりと珍しく微笑んで、

「――お前はサドとマゾ、どっちなの?」

 一拍の間を置いて、とてつもなく硬い物がへこむ音がした。
「ギャーッ! 木田がスチール製テーブル握り潰したァァァァァァアッ!」
 見れば確かに、木田の手が己の前にあるスチール製テーブルを握り潰していた。
 思い切り眉間にシワを寄せ、額に青筋を立たせているその表情は、ちょっとしたホラーだった。
 子どもが見たら、間違いなく、泣き叫ぶ。
(どんな握力してんだ木田! なんかお前が怖いよ木田!)
(木田、お前案外握力強いんだな! GKも行けるんじゃないか?!)
 真っ青な顔をして頭を抱える内藤とは対照的に、渋沢はキラキラ目を輝かせて拳を握った。
 何かずれている。
 他の面々も木田の規格外な握力を前に騒然そしていたが、それを他所に上原はけろりとした表情で、

「サドかな」

 マジっすか! と、同い年であるにも関わらず、黒川は敬語で突っ込んだ。
「口責めなら」
(口責め?!)
(口責め?!)
(口責めって何云っちゃってんの上原ァァァアッ!)
 またも頭を抱え出した面々をあっさり無視して、英士は上原に向かって優雅に手を差し出した。
 極上に美しく、見ている者の魂を掻っ攫ってしまいそうな、そんな、魅力的な微笑で。
「お前とは仲良くなれそうな気がするよ、上原」
 云われた上原は。
 英士の手と、微笑を交互に見てから、これまたにっこりと笑った。
 向日葵を思わせる、大輪の笑みを浮かべ、
「俺もそう思ったよ、郭」
 しっかりと、英士の細い繊細な手を、柔らかな子どもの手で握った。

 *** ***

「上原ァァァァ! 今すぐその手を離せっ!」
「ははは。落ち着け木田。三年生にもなって大声で喚いて、みっともないぞ?」
「見っとも無くても構わん! 放せ渋沢! 上原が食い殺される!」
「木田、何て事を云うんだ! 同じ学校、もしくは今までと同じ何時もの面子で固まりがちだった都
選抜に新しい二人組みが生まれたんだぞ? 兄なら祝福してやらないか!」
「お前のその言動は天然なのか計算なのかどっちだ! ああもう、どっちでもいい! 俺は兄じゃな
いから祝福しない! 祝福しないからなぁぁぁぁぁっ!」
「心の狭い奴だなぁ」
「さも「しょうがない奴だなぁ」みたいな慈愛の笑みを見せるな! 上原! 上原ァァァァッ!」
 しっかりと「同盟」の意を示す握手を交わす英士と上原の側で。
 渋沢に羽交い絞めにされながらも弟分を守らんとする木田の勇姿を、都選抜の面々はしかと網膜に
焼き付けたのだった。
 一生忘れはしないだろう。
 ――東京選抜最強で最悪のコンビが出来上がった、その瞬間を。



 了


 加筆修正2009/07/23