「ライ。お前、ギアンの事口説いて来いよ」
正式な泊り客――つまり、宿泊費をきちんと支払っていると云う意味である――のハルカは、世間
話でもするかのような軽い口調で云った。
事実、彼女にとってそれは、「今日は良い天気ですね」程度の意味しかない、軽い言葉だったのだ
ろう。その証拠に、顔に浮かべている表情はニヤニヤとしたいけ好かない笑顔だ。
だがその軽い言葉は、ライの動きを奪うには十分すぎる威力を持っていたのだった。
− 母は強し。
「はぁ?」
泡を洗い流した皿を拭いていた手を止めて、ライは間の抜けた声を上げた。それが面白かったのか、
ハルカはにひゃりと――正しく、にひゃりとしか表現できないような笑顔を浮かべた。
サプレスの悪魔みたいと云うには、悪魔の方に失礼なくらい不穏な笑顔だ。思わずライは、半歩下
がっていた。
「だからさぁ、ギアンをどうにかすりゃぁこの件は丸く収まる訳だろ?」
「まぁ、そうだけど」
「だったら、簡単な話しじゃねぇの」
傷はついているが美しいと思わせる長い指が、ライの鼻先に突き付けられた。
「ギアンを口説き落とせ!」
「口説き落とせってなんだよ! 俺もギアンも男だぞ!」
そもそも人を指さすなと、ハルカの手を叩き落とす。
至極真っ当な切り返しをしたのだが、ハルカには通じていない。肩を竦めると、思いっ切りライを小
馬鹿にした顔で言葉を続けて来た。
「そんな些細な事、気にすんなって。そもそも、俺は口説けとは云ったが誑し込めとは云ってない」
「同じ事だろが!」
「違ぇよ。口説くってのは、言葉で相手の心を掴む事。誑し込むってのは体だ体。色仕掛け」
「繰り返して云わなくてもいい!」
顔に血を上らせながらライが云えば、ハルカはケラケラと笑う。この程度で照れるなんて、まだまだ
子供だなぁ、などと云われた。
事実ライはまだ子供だが、ハルカに云われると殊更腹立たしかった。
「私の見た所、ギアンは相当お前の事好きだぞ?」
「何でそんな自信たっぷりなんだ……?」
「だってあいつ、母性と父性に飢えてるみたいだしぃ?」
その言葉には、ライも納得が出来る。
本人曰く望まれぬ子供であったギアンは、親の愛にふれた事が無いようだった。愛情による自己の
肯定をされなかったせいなのか、年齢の割に子供っぽく、癇癪気質でだった。自制も下手で、よくそこ
をハルカに付け込まれ、見てるこっちが悲しくなるような目にあわされていたような。
幼少の頃のギアンに、せめて一人だけでも愛情を持って接してくれる人間が居たなら、あそこまで人
格が歪まなくて済んだのではないかと、ライは思う。それくらい、愛情とは生きて行く上で必要不可欠
な物なのだから。
同じく親の愛情をあまり与えられなかったライが、ここまで真っ当に育ったのは、何だかんだ云いつ
つ面倒を見てくれたテイラーや、兄貴分として接してくれたグラッド、実の姉のように親身になってくれ
たミント、そして無償の親愛を注いでくれた幼馴染達のお陰だろうと思う。彼らには、本当に感謝して
もしきれない。
その分、「あの糞親父おっ死(ち)ね」と云う気持ちが凄く強い訳だが。
「ライは母性も父性も持ってるんだから、ギアンなんてチョロいって」
「いや待て待て。母性って何だ、母性って」
自分は男である。父性はともかくとして、母性は持てない。
言葉にしていないライの考えを読み取ったのか、ハルカがまたしても、人を小馬鹿にしたような笑み
を浮かべた。
本当に感じの悪い女である。
「何云ってんだ。子供から大人まであれだけばっちり面倒見ておいてさぁ」
「え」
「飯の世話から始まって、洗濯、掃除、繕い物、子守り、喧嘩の仲裁、その他諸々……。そこまで出来
たらもう母性だろ、母性。むしろ、それ以外の何だってんだ? 極一般的な十五歳男子はそこまで出
来ねぇぞ」
自分の事で手いっぱいで、他人にまで手が回らないって。
そう云ってハルカは、また肩を竦めて見せた。
その言葉に今までの自分を振り返ってみたライは、反論できない事を悟った。がくりと肩を落とす。
「だから、ツンデレ護人共と腹黒シンゲンまで落としたその母性を持ってして、ギアンもついでに口説
き落として来いってんだ」
「そんな事出来るか!」
「出来る出来る、よゆーだって。抱きしめて「うちの子になれ!」って云えば一発だから」
「召喚術で俊殺されるわ!」
軽い調子で進んだ会話に、ハルカがまたケラケラと笑う。
人事だと思いやがってと怒りながら、ライは皿拭きを再開したのだった。
*** ***
あの会話から数か月が経った。ライは賄いようの朝食を作りながら、ため息を一つ。
世界を揺るがす大事件があった事など嘘のように、平穏な毎日が戻ってきた。
いや、戻って来たとは云ったが、実は、変化の方が大きくて――
「ライ、水汲み終わったよ」
その最大の変化が、裏口からひょっこりと顔を覗かせて云う。
鬱陶しいくらい長かったマフラーも、びらびらしたロングコートも、悪趣味はツナギも脱いで、極々
平凡な出で立ちになった男に向かって、ライは笑みを浮かべた。
「ありがとうな。もうすぐ朝ご飯が出来るから、机拭いて来てくれるか?」
「うん。分かった」
首を軽く傾けて、男はにこりと笑った。年齢より大分幼いその笑みに、ライも自然と笑顔になる。
事件解決からこっち、ライの家には赤毛の子供が一人増えた。
まぁ、それはそれで、幸せな事には違いないのだが。
あのいけ好かなかった客の言葉通りになった事が、ほんの少しだけ癪なライだった。
了
加筆修正 2010/01/04
