ふと校庭を見ると、伊作の後輩である乱太郎と、編入生である鳴瀧晴佳が並んで歩いていた。
 二人の手にはトイレットペーパーがある。
 あぁ、そう云えばあの編入生、保健委員会に入ったんだったかと思い出した。
 文次郎が悔しがっていたからよく覚えている。なんであいつが保健などと云うヘタレ委員会に! と
嘆いていた。
 何があったか知らないが、随分と鳴瀧を高く買っているようだった。
 乱太郎がにこにこ笑いながら何事か話しており、鳴瀧は死んだ魚のように虚ろな目のまま、曖昧な
笑みを浮かべて頷いている。
 自分なら、あんな顔で相槌を打たれても腹立つだけなのだが、乱太郎はそうでもないらしい。嬉しそ
うに笑っていた。
 まぁ一応は微笑ましい光景だなと一人頷き歩き出せば、何やら前方に楽しげに笑う四年生の塊が。
 楽しげと云っても、こう、意地悪そうな笑みだが。にこにこではなく、にやにや的な。だが完全な悪意
ではない。なんと云うか、悪戯小僧的と云うか。やな感じではあるが、嫌悪感はわかないと云うか。
 はて、あの方向には乱太郎と鳴瀧がいるだけだが、ともう一度目をやり、あぁと気付く。
 乱太郎たちが向かっている方向には、幾つか落とし穴があった。目印が無いそれは、五、六年生で
も見つけるのは難しかろう。さすが穴掘り小僧の異名をとるだけの事はある。
 このまま歩いて行けば、二人とも嵌まってしまうだろう。それは可哀想だ。
 四年生の楽しみを邪魔するのは気が引けるが、同じ後輩ならば更に幼い方を優先するのが当然だ。
 気を付けろ、そっちには落とし穴があるぞーと声を掛けようとした瞬間、鳴瀧がぴたりと足を止めた。
それに習い、乱太郎も立ち止まる。
 見事に声を掛け損ねてしまった。何故この頃合いで立ち止まるのか。いや、鳴瀧に非は無いが。
 首を傾げつつ乱太郎は鳴瀧を見、何か語りかけている。鳴瀧は一つ頷くと、とととと無防備に歩み
出て、とんと地面を蹴った。
 途端、地面が消え、塹壕が現れる。
 驚きのあまり、硬直した。
 いや待て、どうして一年生が、しかもつい最近編入した奴が、綾部の穴を発見出来るのだ。しかも
目印も何もない、割と本気の入った穴を。
 ちらりと四年生らを見れば、彼らも自分と同じく硬直していた。特に綾部の顔が酷い。元が良いだ
けに、ぱかりと開いた口がより一層間抜けだった。
 こちらの驚きを知る由も無く、鳴瀧はひょいひょいと歩み出ては的確に穴を開けて行く。
「もう大丈夫だぞー」
 少し大きめの声を出したのか、こちらにも聞こえて来た鳴瀧の声は平坦だった。乱太郎が凄い凄
いと歓声を上げながら、鳴瀧に駆け寄って行く。
「すごいねはるか! 何でわかったの?!」
 こちらとしても凄く知りたいが、鳴瀧の返答は遠すぎて聞こえない。乱太郎の「へー!」やら「すごい
ねー!」やら「そうなんだ!」と云う感心しきった声ばかりが聞こえる。
 恐らく、土の色で判断したのだろう。どれだけ上手く誤魔化そうと、一度掘り返した土とそうでない
土とでは差が出る。その差をいかに無くすかが腕の見せ所とも云うが。
 綾部は幾多の穴を掘り、それを隠してきた。だから、罠に関して云えば学園トップクラスの実力者
なのだ。その綾部の穴を、一年生――しかも、落ちこぼれと名高いは組への編入生が見つけた。
 なんてこった。文次郎、お前の言葉は買いかぶりでも過大評価でも無かったんだな。
 こちらの驚愕になど当然気付かない二人は、何事も無かったように綾部のタコ壺を素通りし、去っ
て行った。
 それがまぁ、俺、食満留三郎が、編入生の鳴瀧晴佳に興味を持った出来事である。



 − 落とし穴の人生。



 乱太郎と一緒に便所へトイレットペーパーを補充しに行く際、横切ろうとやって来た校庭にため息
が出た。
 何か、すっげぇ沢山、落とし穴がある。
 多分、掘った人からすれば塹壕なんだろうけど、こちらからすれば間違いなく落とし穴だ。
 気付かず直進する乱太郎に待てと声を掛ければ、きょとんとした顔で振り返られた。
「どうしたの、はるか?」
 あぁ、乱太郎には分からないのか。
「落とし穴がいっぱいあるから、ちょっとそこで待ってろ」
「え?」
 驚く乱太郎をそのままに、数歩前に出て、目の前の土を蹴り飛ばす。
 ばさ、と音を立てて、ぽっかりと丸い穴が開いた。
 とにかく嵌まりそうな場所を徹底的に蹴り開ける。乱太郎が落ちて怪我でもしたらどうしてくれるん
だ。
 よく見れば底に枯れ草があるけれど、そんなの関係ねぇ。学園一の不運小僧舐めるなよ。後、
の巻き込まれ型不運体質も舐・め・ん・な・よ!
 ぜってー酷い目に遭う。凄い酷い目に遭う。具
体的にどんなかは分からないが、私と乱太郎のコンビは実はすげぇ危ういのだ。
 連続で掘られていた最後の一つを蹴り落とし、乱太郎に声を掛ける。すると乱太郎は目をキラキ
ラさせて駆け寄って来た。おおう、お前の円らな瞳が眩しいぜ……。
 でもあんまり走るなよ、こけて穴に落ちたらどうすんだ。わざわざ穴開けた意味ねーじゃん。
「すごいねはるか! 何でわかったの?!」
「え、だって匂いすんじゃん」
 云えば、乱太郎は首を傾げた。
 あ、そうか、普通の人間ってそこまで嗅覚鋭くないっけ。自分基準で物を考えちゃいかんな。
「人間の掘った土ってさ、人間の匂いが移ってんだよね」
「そうなの?」
「うん。だからすぐわかる」
「へー! すごい! わたし、全然分からないや」
「私は鼻が良いからなー」
 うん。でも分からないのが普通なんだぞ乱太郎。いやマジ、私の嗅覚獣並みって云われたから。
 まぁこう云うと特殊な身体能力でかっこいーとか思われそうだけど、実際鼻が良いって云うの、あ
んまり良くない。日常生活で常に死地が傍にある。
 どこって、お便所とゴミ捨て場とマンホール側ですよ。
 平成はまだいいよ? だって水洗がほとんどじゃん。稀に海水浴場とかでぼっとんを見かけるけ
ど、普通に生活してる分なら水洗だろ? しかも芳香剤とか良い香りがするトイレットペーパーとか
常備な訳で、芳香剤の香りにちょっと気分悪くなったりするけど、大した問題じゃない。
 でも此処は室町。ぼっとんが普通。即ち、排泄物がすぐそばにある訳で、側を通りかかっただけ
悪臭で死にそうになりますとも! それでもトイペの補充が出来るのは、三分間呼吸を止め
ていられる海女さんのような肺活量があるからだ。
じゃなかったら死ねる、マジ死ねる。悪臭で
死ねる。
 ゴミ捨て場とマンホールも同じような理由です。本当にすっごいんだって臭いが! マンホールっ
て下水に直通じゃん? 普通の人は分からないらしいが(すげぇ羨ましい)私は本当に辛かった。
道路に普通にあるしね。上通りかかるだけで凄いんだ臭いが。さりげなく息止めて歩いてましたよ
本当。
 その点で云えば、室町は楽なんじゃない? とか思われますけど、室町は室町であれです。馬糞
とか牛糞とかが普通に落ちてるし、生き倒れた人とか居るし、風呂に入らない人とかいっぱいだし、
悪臭レベルで云えば平成なんぞ目じゃないです。
 聴覚は調整が利くんだけど――出来ないと死ぬよ。何が悲しくて遠く遠くでされる泣きたくなるよ
うな陰口やらまぐわう音やら意味分からん叫び声なんぞを聞かなきゃならんのだ
――、鼻は
出来なくて本当に困る。
 だから乱太郎、私はむしろ、普通の嗅覚であるお前が羨ましい……。
「あ、でも、しんべヱも分かるんじゃないか?」
 ふと思い出して云う。鼻炎なのに嗅覚鋭いとか、しんべヱ凄すぎる。
「しんべヱも鼻良いもんね」
「うん。でも私なんてまだまだだな。調香師の足元にも及ばないね」
「ちょうこーし?」
 あ、この時代にはまだ無い職種かな? 私もあんまり詳しくないんだよね、人から聞いた知識だし。
「香と香を掛け合わせて、新しい香りを作ったりする人。確か六千種類くらいの香りを嗅ぎ分けられ
るとか……」
「六千種類?! そんなに匂いってあるの?!」
「らしいよー。私も人から聞いただけだから詳しく知らんが。その人は香りを使って人の記憶操作し
たり、眠らせたりしてたよ」
「そんな事できるんだ?! すごいねー!」
「何か、香りは脳に直接働きかけるから云々云ってたような……。ごめん、曖昧だ」
 もう少し真面目に聞いておけば良かった。体に匂いが染み付くと都合が悪いから、ちょっと敬遠し
てたんだよね。惜しい事をした。
「はるかもがんばったらなれそうだね」
「うーん。私はあんまり興味ないかなー。きつい香りとか嫌いだし」
「わたしもちょっと苦手かも。あ、それに忍者って匂い付けちゃだめなんだよね」
「うん。よく風呂に入らされるもんなー。あ、そう云えば薄荷と生姜を入れた湯って、疲労回復効果が
あんだって。後で入れてみよっか」
 最近私はお疲れ気味ですから。もー、目の下に隈あるギンギン野郎には追い回されるわ、伊作君
不運に巻き込まれるわ変態名人には目を付けられるわで散々だとも。別に一は絡みなら何と
も思わないんだけどね。人間って不思議。
「そうなんだ! はるかって物知りだねー」
「雑学は飯の種って云うからね」
 さて、そうと決まったらさっさとトイペの補充を終わらせよう。伊作君におねだりして、薄荷と生姜を分
けて貰わねばならないしな。


 この時の私は知る由も無かったのだ。
 只でさえ目を付けられ気味の今日この頃。四年生の穴掘り小僧に好敵手と見なされ、性格カスと自
称アイドル
に「油断ならん」と観察される目付きで見られ、さらには六年切っての武闘派に好意と好奇
心の入り混じった思いをぶつけられるようになるなんて。
 乱きりしんと一緒に薄荷、生姜湯に入るのを楽しみにしていた私は、知る由も無かったのだ。



 了


 晴佳投入話第一弾は、一はとは別の意味で愛してる食満留三郎君であります。
 いや、流石に嗅覚で落とし穴見つけてるとは思いませんよね。ふつー。ただ、晴佳が普通じゃあり
ませんでしたって事で!
 アビス小説の息抜きで書いていたのに、いつの間にやらSSどころじゃ無くなっておりました。うん、
私死んだ方がいい^^^^^^