優しい手付きは、睡魔を呼び寄せる。
 髪を梳く小さな手の平は、春のそよ風を宿したかの如く、柔らかく、静かで。
「眠いんですか、先輩――?」
 夢現に頷けば、小さな笑い声。幼い声が慈しむように、「おやすみなさい」と云っていた。



 − ほのぼの。



 火薬委員会会議室前の細道を通りかかった時だった。文次郎はそこの縁側にあった光景に、目を見
開いた。文次郎だけではない。珍しい光景に、誰もがぽかんと呆気に取られている。特に三年と四年の
顔が酷い。一年生より長く在学している分、かの男の人柄を知っている彼らは、ある意味自分以上に目
の前の光景が信じられないのかも知れない。
 幸い向こうはこちらに気づいていない。さっさと通り過ぎようと思った所で、
「あ、伊助だ。おーい、伊助ー」
 怖い物知らずの団蔵が、手を振りながら声をかけてしまった。
 その声にこちらを見たのは、呼ばれた相手――団蔵と同じ組の伊助と云う子供だけだった。仲間の声
にぱっと顔を輝かせたのも束の間、文次郎らを見ると慌てて頭を下げる。
 止める間も無く団蔵が駆け寄って行ってしまい、左吉が勝手な行動に怒りながらも後を追ってしまう。
 呼び戻すのは簡単だが、文次郎にも好奇心と云うものがあった。自分も近くで見てみたいと云う好奇心
だ。
 己の心に素直に従い、伊助とやらの元へ歩き出せば、後輩二人が驚く気配と共に慌てて追いかけて来
る足音がした。
「伊助、どうしたの? 委員会は?」
「今休憩中なんだ。それに、後は持ち出し申請書の整理だけだから急がなくても大丈夫だし」
「何云ってるんだ。今やれる事は後回しにしちゃダメなんだぞ」
 一年生らが和気藹々と会話をする。は組とい組は仲が良くないのだが、組意識が薄れる委員会中はあ
まり喧嘩をしない。
 今とて左吉の声音は柔らかだ。云っている内容も、手厳しい、程度の物。厭味ではない。
 その言葉に、伊助は穏やかに笑った。
「あはは。でも委員長が今コレだし」
 そう云って指差したのは、己の足。正確には、己の太ももを枕にし、眠っている火薬委員長――下関大
治郎を、示した。
 文次郎は彼と五年以上の付き合いになるが、寝顔を見るのは初めてだった。物珍しげにしげしげと眺
めてしまう。
 起きている時無表情であるように、眠っている時も無表情だった。何の夢も見ていないのか、柳の眉も
閉じられた唇も元の位置から動かず、寝汗一つかいていない。
 一瞬見ただけならば、死んでいるのではないかと思うくらい、変化のない寝顔だ。
「……それ、生きてるよな」
 なんとなく不安になって聞いてみれば、揃って驚いた顔になる。田村と左門は同じ事を考えていたのだ
ろう、少し顔色が悪い。
 だが膝枕をしてやっている一年生は、あははと穏やかに笑った。
「ちゃんと生きてますよ。大治郎先輩って、寝てる時も凄く静かなんです」
 その言葉に、伊助が大治郎の寝姿を見るのが初めてでない事を知る。
 妙な気分だ。
 自分は五年以上この男と共に生活を送っていたと云うのに、私的な事など何一つ知らず、この一年生
は出会って高々数カ月だと云うのに、眠る時の姿を知っている。
 小さな手が、慣れた仕草で大治郎の頭を撫でた。隣から「うわ……」と小さな声が上がった。左門が驚
きの声を上げてしまったらしい。
 確かに、驚きの光景だ。
 六年は組の引き篭もり、焔硝蔵の主、不感症の三無の王と数々の不名誉な異名で呼ばれる同輩が、
無防備な寝姿をさらし、さらには一年生に頭を撫でられている。
 妙な話、文次郎は奴を寝ない生き物だと思っていた。そのような事有り得る訳がないのだが、寝てい
る姿を見た事がなければ、誰からも聞いた事が無かったから、そう思うようになっていた。
 人数の関係上、奴は一人部屋だった。稀に山田と土井の部屋に泊まりに行っていたが、同級生の所
へ来た事など無く。上級生になれば異名の通り焔硝蔵に住みつき、自室は物置と化した。
 実習で外に出れば率先して不寝番を買って出、自分がそうで無い時は木の上や藪の中へと姿を隠し
ていた。何度も――それこそ、数えきれないくらい伊作や留三郎、ろ組らが奴の寝姿を見ようと挑戦して
いたが、結局全て失敗に終わっていたような。
 現六年生が努力をしても見れなかった。それくらい、貴重な姿だと云うのに。
 今下関大治郎は、無防備なまでにその寝姿を晒している。しかも見せている相手は一年生と、大して
親しくも無い文次郎が率いる会計委員。
 ……伊作と留三郎が知ったら、嫉妬の余り暴れ出すのではないだろうか。
「……それにしたって、こんだけ他人が集まっててよく起きねぇな」
 あまり好ましくない己の予想を打ち消すように、少し詰るような口調で云う。すると伊助が困ったような
笑みを浮かべた。
「此処の所、眠れてなかったみたいなんです。ご容赦下さい」
 そう云ってぺこりと頭を下げる。まるで大治郎の保護者のような言葉だ。
「眠れてなかったって、忍務でも受けてたのか?」
「えぇっと、その……人間関係の悩みと云いますか」
「人間関係」
 田村がぽつりと、その単語だけを繰り返した。
 人間関係。
 果てしなく、大治郎に似合わない言葉だ。
 一人を好むと云うか、一人で生きて行ける男だった。一人で完結しており、他者を積極的に求めない
子供だった。
 それを放っておく事が出来なくて、お節介を焼いたのがは組の馬鹿夫婦。その生き様を「かっこいい」
と思い、憧憬を抱いてまとわり付いたのが久々知兵助。詳しくは知らないが、学園に入る前からの縁だ
と世話をしていたのが土井と山田。
 一人で生きていける男なのに、気付けば周りに人が集まっていた。
「伊助も?」
「え?」
「伊助も、にんげんかんけーで悩んでるの?」
 縁側にぺたりと懐きながら、団蔵が云った。つぶらな目が、伊助を見上げている。
 左吉がその隣で首を傾げた。文次郎も内心、首を傾げる。困っているようには見えたが、悩んでいる
ようには見えなかったのだが。
 先程大治郎の頭を撫でた伊助の手が、今度は団蔵の頭を撫でた。
「うん、ちょっとね。でも僕の場合、勝手に心配してるだけだから」
「そうなの? 平気?」
「うん、平気。ちょっとお節介焼いてるだけだもん」
 くしゃくしゃと頭を撫でられた団蔵が、気持ちよさそうに目を閉じた。
 その様に何かを連想するが、その「何か」が何なのか、明確な言葉が浮かばない。
 腕を組み首を傾げようとしたところで、大治郎が声を小さく上げた。それだけで、伊助を除いた下級
生らの肩が跳ねた。
「先輩? 起きましたか?」
 くしゃくしゃ、団蔵を撫でていた時と同じ手付きで、大治郎の頭を撫でる。
 あぁそう云えば、彼は、頭を他人に触られるのを酷く厭うていたはずだ。それこそ、土井にしか触ら
せないと、宣言していた。一年生の頃、小平太がじゃれつくついでに頭に触った途端、殴り倒したくら
いなのに。
 大治郎がもにゃもにゃと意味のない言葉の羅列を口にする。寝ぼけているようだ。一喝してやろう
かと息を吸った所で、

「……ははうえ」

 幼い言葉を聞いて、噎(む)せた。咳き込みながらも見える涙で滲んだ視界には、ずっこけた左門と
両頬を押さえ恐怖に慄いている田村が居る。一年生二人は無垢な瞳のまま、首を傾げていた。
「下関先輩寝ぼけてるー」
「最上級生でも寝ぼける事ってあるんだな」
「そりゃあるよ。人間だもの。……あ、またねちゃった」
 けらけら団蔵が笑い、妙な方向に左吉は感心し、子供らしくない達観した言葉を伊助が云う。頼む、
驚く先輩たちにも目を向けてくれと、文次郎は思った。
「……」
 何だか、とても疲れた。委員会前から疲労を溜めてどうすると云うのか。
「……行くぞ。邪魔したな、伊助」
 云えば伊助が驚いた顔をする。何か変な事を云っただろうかと疑問に思ったが、すぐに答えが出る。
大して親しくない先輩から突然名前を呼ばれたら、驚くか。気遣いが足りなかった。だが苗字を思い出
せないのだから仕方がない。今さら訂正するのも聞くのも変だろう。
「……いえ、お構いも出来ませんで。委員会でお疲れの出ませんように」
 始めと同じく、ぺこりと頭を下げられた。
「……おう」
 何と云うか。
 しっかりしすぎてて、怖い。そもそも、お疲れの出ませんようになんて言葉、するっと出て来る子供を
どうやって育てたんだ。親御様の顔が見たい。将来の為に是非ご教授願いたい。
 文次郎が歩き出せば田村と左門はぎくしゃくとした動きのまま歩き出し、団蔵は元気に手を振り「ま
た夕ご飯でなー」と云い、左吉は「じゃぁな」とそっけなく云って付いて来た。
 しばらく歩いて。
「びびびびびび」
「何の鳴き真似ですか左門先輩?」
「違う! びっくりしたって云おうとしたんだよ、わたしは!」
 団蔵に向かって力説する左門に、田村も頷いて同意を示す。
「下関先輩があんな無防備になるなんてなぁ……」
 その言葉には、全力で同意したい文次郎だった。
 あんな風に、他人に無防備になる男だったのか。そう思い、何故かチリリと胸が痛む。
 自分たちがあれだけ気をやっても、慈しんでも、全ていらぬと切って棄てた男。六年の中で誰より
も忍者らしい――そう、己のように”している”ではなく、自然体で――あの男が、一年生に無防備な
姿を晒していた。
 むしろ、一年生だからと云う考え方もあるかも知れない。入学したての彼らならば、敵になる事は
ないのだと。
 だが、自分達は知っている。幼さも武器の一つ。物心付く前から暗殺者になる訓練を施され、十に
なる前に立派な人殺しになった者なども居る世界。
 一年生は、武器を握れる、振れる。充分人殺しになれる年齢だ。
 なのに、大治郎は―――
 ぎしりと、歯軋りをする。胸を焼くこの感情が何なのかわからない。それがまた、煩わしかった。

 *** ***

 穏やかな手付きで頭を撫でられている。
 頭に触れられるのは不快だった。
 頭は弱点の一つ。
 無防備に晒せる物でなし、どう云う訳か自分は触れられた途端、どうしようもない嫌悪感を抱く性
質(たち)であったから尚の事。
 今まであの人にしか触らせて来なかった部位を、一年生相手に無防備に晒している事へ、どうし
ようもない違和感を覚えた。
 けれど、
「先輩? もう、起きますか?」
 穏やかな声も、優しい手付きも、柔らかな笑顔も。
 全てが、自分の理想であったから。
「うん。起きる……」
「じゃ、残りのお仕事終わらせちゃいましょ! その後、お茶にしましょうね」
「うん……」
 まだ残っていた自分の甘さに反吐が出ながらも、このぬくもりを手放せないのだと知った。
 すり減った精神に、この優しさは、毒だった。



 了


 ほのぼのしてねぇ^^^^^
 伊助ちゃんには多大な夢と期待を抱いておりますのでこの仕様です。伊助ちゃんのなでなでと膝枕
には誰も勝てないよ! みんな虜だよ! だってお母さんに子供が勝てる訳ないもんね!
 伊助ちゃん最強説推奨。
 とりあえず私に膝枕ぷりーず伊助ちゃ(射殺)


 執筆 2009/10/24

 【お題配布元:Abandon】