本来、クロロフィルは勉強をする場所を選ばない性質だ。その気になれば、幼児が遊ぶ公園であ
ろうと、食べ物の匂いが充満する店の中でも勉学に励む事が出来る。
 だが、それは、”人に邪魔をされない”事が前提だった。
 たまには自室になりつつある研究室ではなく図書室でやろうと思った事が運の尽きか。
 気付けばショショリカSクラスの面々に囲まれ、『お勉強会』に強制参加させられていた。
 駄目元で「帰らせろ」と呟けば、
「君がいないと、シアニー嬢が帰っちゃうじゃないか」
「あんな部屋に居たら不健康に拍車がかかるだろうが! たまにゃぁ外に居やがれクロ!」
  フラノイドとキサン によって即座に却下される。さらに云うならば、アントシアニーがぴったりと隣
にくっ付いている。
 彼らの気が済むまで逃亡、もとい、帰宅は無理そうだと思い、クロロフィルは小さくため息をつい
た。



 − 目に優しい恋。



(……一人でやった方が効率いいんだけどな)
 紙の上にシャープペンシルをスラスラと走らせながら、クロロフィルはため息交じりに思う。
 試験の結果からもわかるように、特別優秀なこの集団の中で最も賢いのはクロロフィルだ。だか
らなのか、男共は気軽に質問を投げかけて来る。キサン辺りはアントシアニーに聞きたいのが本音
なのだろうが、好きな相手には格好付けたい年頃らしく、分からない問題を聞くと云う”カッコ悪い”
話題は避けたいようだ。先程からこそこそとクロロフィルに質問をして来る。
 これで相手が莫迦だと苛立つところだが、Sクラスメンバーに限って云えばそう云った事は無い。
一を云えば五から十理解してくれるため、楽と云えば楽だった。
 最も、一番楽なのは、クロロフィルを放っておいてくれる事なのだが。どいつもこいつも構いたが
りなので、一人を好むクロロフィルにやたらと絡む。
 迷惑だ、とは云っているのだが、聞く耳は持たないらしい。いや、こうして相手をしてしまうのがい
けないのかも知れない。
(……早く終わらせて帰らせて貰おう……)
 それが一番良いだろう。いくら無遠慮な彼らとて、全てをやり終えた者を拘束はするまいと考えて
の事である。
 ――最も、クロロフィルが切り上げようとしても、「終わったなら自分たちの勉強をみろ」と強要し
てこないとも限らないのだが。人付き合いの得意でないクロロフィルは、そう云う性質(タイプ)の人
間が居るとまでは考えが及ばなかった。
 目的が出来た事で集中を強め出したクロロフィルだったが、ふいに、周囲が静かになっている事
に気付いてしまった。先程まで小声とは云え、話声がひっきりなしにしていたと云うのに。まさか自
分を置いて帰ったのだろうかと顔を上げた。
 すると、前に座っていたフラノイドと目が合ってしまった。何となく気恥かしくなり右へと目を逸らせ
ば、今度はキサンと目が合い、さらにはカロの顔も見えた。反射的に目を反対側へと向ければ、仕
舞いにはアントシアニーとカチ合ってしまう。
 どうやら、同じ席についている者全員が、クロロフィルに注目しているようだ。
 ひくりと、片頬が引き攣ってしまった。
「な、何だ……?」
 俺の顔に何かついているのか、と言外に問う。
 フラノイドが大きく息を吐いた。
「さすがSクラストップ君って感じだよねぇ。難問集をスラスラ解いちゃってさ」
「難問集?」
 云われ、今まで解いていた問題集へと目を落とした。
 学校の購買ではなく、街の本屋で買った問題集である。
 評判が良いからと買ってみたものの、どれも簡単に解けてしまう問題ばかり。退屈と云う訳でもな
いし、時には感心する難解な物も出てくるのだが、難問”集”と云われると首を傾げてしまう。
 思った通りに告げれば、フラノイドからは「あー……頭の出来が違うもんねぇ」と何故か馬鹿にして
いるような声音で云われ――理不尽である――、何故かキサンは怒りだした。
 顔を真っ赤に染め上げ、眉間に皺を寄せ、犬歯を剥き出しにした怒り顔は、彼の内心を分かりや
すく表現している。表情筋がよく動くなと、クロロフィルは見当違いの方向に感心した。
「こ」
「こ?」
「こ……んのクソクロ助ええええええええッッ! お前の脳みそどうなってんだ! 知識の神様でも降
臨してんのか?! ちょっと寄こせええええええええっ!」
「いてぇぇぇええっっ?!」
 両手で力強く頭を掴まれ、クロロフィルは痛みに悲鳴を上げた。巨体のカロを投げる事が出来るキ
サンの膂力(りょりょく)に、クロロフィルは即涙目になった。爪が頭皮に喰い込み、ある種拷問を受け
ているかのような激痛が襲ってくる。
 やっている本人にそのつもりはないのだろうが、ひ弱なもやしっ子にこの仕打ちは厳しい。肉体面、
精神面の両方に。
「ちっくしょう! 俺よりチビな癖にぃぃぃぃぃいッッ!」
「身長と学力に何の因果関係があるんだ?! 離せ触るな痛いッッ!」
「……――その手を放せ、キサン=トーファ!」
 それまではキサンの突然の暴挙に驚いてでもいたのだろうか。黙っていたアントシアニーが突然、
怒りに満ちた声を発した。
 クロロフィルがそちらを見るより先に、キサンの体が軽快に吹っ飛んだ。文字通り、”吹っ飛んだ”の
である。同じ年齢の男子よりガッチリとした体を持つキサンが、アントシアニーの振るったお玉によって。
 相変わらず、見た目の可憐さからは想像も出来ない怪力である。
 哀れ――自業自得とも云うが――吹っ飛ばされたキサンは本棚に突っ込み、雪崩れ落ちた本の山
に埋まってしまった。圧死したんじゃないか、と不吉な事を思う。
 静寂を基本とする図書室で、随分と大暴れするものだと呆れてしまった。助けられた恩があるので
口には出さないし、騒いだと云うなら悲鳴を上げたクロロフィルとて同罪だ。
「相変わらず容赦がないねぇ、シアニー嬢は」
「キサンも学習しないな」
「だよねぇ。何回吹っ飛ばされたら気が済むんだか」
 黙っていたクロロフィルに代わって、とでも云うかのように、傍観していたフラノイドとカロが呟いた。
内容は中々辛辣だ。クロロフィルが云えた義理でもないが、少しくらいキサンの身を案じたりはしな
いのだろうか。自分と違い、彼らは友人同士なのだから。
 そう考えて、クロロフィルは首を軽く左右に振った。友人と云えども、”種類”と云う物もあるだろう。
自分にはそう呼べる相手が居なかったためよく知らないが、友人と一言で云ってもその関係性は多
種多様のようなのだ。腹を割って話せる事もあれば、その場限りのなぁなぁの関係でも友人と呼ぶ事
もある、らしい。口で云うには簡単だが、友人の意味とは難解だ。この問題集よりも難しい。
 学問の事は必要以上に分かるが、人間となると自分はてんで駄目だなと考えて、クロロフィルは細
い溜め息をつく。
「溜め息なんてついちゃって。幸せが逃げるよ?」
 キサンを見ていたはずのフラノイドが、いつの間にかこちらを流し眼で見ていた。美形がやると確
かに様になっているが、男相手に男が流し眼をした所で美形の無駄遣いではないだろうか。
 気付けばカロがいない。さり気なく視線を巡らせれば、本の山に埋もれたキサンを救出していた。
どうやら、カロはフラノイドよりは友情に厚い人間らしい。
「俺の幸せが逃げると云うなら、それはお前らのせいだな」
「手厳しいなぁ。そんなに邪険にしなくてもいいじゃないか」
「……変に構ってこないでくれ。迷惑なんだ」
「きっぱりと云うもんだねぇ」
 云ってフラノイドは、喉の奥で小さく笑った。
 その笑い方に不吉な物を感じたクロロフィルは、椅子の上で思わず身を引いた。だが、クロロフィ
ルが距離を取るより先に、机に置いていた手を掴まれてしまった。
 瞬間、ぞわりと全身に鳥肌が立った。常時付けている手袋のお陰で、直接皮膚と皮膚が触れ合う
事はなかったが、それでも嫌悪感に全身が支配される。
 他人の熱が気持ち悪い。
 手袋が無ければ直接触れていただろう皮膚を想像すると吐き気がする。
 放せ――そう叫ぼうとしたがそれより先に、フラノイドが云った。

「どんなに君が厭がったって知らないよ。俺は君が好きだから、構って構って構い倒して――俺無し
じゃぁ生きられないようにしてあげる」

 普段見せる胡散臭い爽やかな笑みでも、困ったような微笑でも無く。
 獰猛な肉食獣――いや、得物を見つけた毒蛇を連想させるような陰湿な笑みだった。
 頭の中でザザザと血の気が引く音を、聞いたような気がする。それと同時に、ドッと冷や汗が流れ
た。
 弱い生き物が持つ自己防衛の本能が、目の前の物体から距離を取れと命令してくる。だが本能に
逆らって、体は硬直していた。
 ――怖い。
 これは、目の前の男は、怖い。
 ――喰われるッ!
 何故そう思ったのか。人が人を食べる訳がない。歴史や伝承にはあっても、現代に人を食うなどと
云う事、有り得ない。有ってはいけない。いや、有ってたまるものか。
 だと云うのにクロロフィルは本能的にそれを感じとった。こいつは、自分を捕食する気だと、有り得
ない現実を感じ取ってしまった。
 動け、動け、逃げなきゃ――理性すら命令するのに、それでも体は動かない。”天敵”は笑みを浮
かべたまま此方を見ていて、――
 突然、捕獲する手が離れた。それについて疑問に思うより先に、クロロフィルは弾かれたように立
ち上がるとそのまま全力で走り出していた。
 問題集や筆記用具を置いて来てしまっていたが、そんな物は最早どうでもよかった。
 ただ、あの”ケダモノ”から、逃げたかった。


 *** ***


「……なんだぁクロの奴?」
 頭を自分で撫でながらキサンが云う。アントシアニーもカロも突然の逃走に驚いたのか、首を傾げ
ていた。
 ただ一人。
 フラノイドだけは、三人から見えないよう顔を背けて――獰猛な笑みを、浮かべていた。



 了


 加筆修正 2010/11/24