− 忠誠の口付けを。


 セイジューロー・シンがルーク・フォン・ファブレと初めて対面したのは、準騎士から正騎士に昇格し
た十一歳の時。
 ND2012・シルフガーデン・ルナ・22の日だった。
 対面と云うより遭遇、と云った方がいいかも知れない。

 *** ***

 白騎士団(ホワイトナイツ)から白光騎士団への提示連絡係としてファブレ公爵邸を訪れたシンは、
周りから受ける奇異の視線に正直辟易した。
 王国最強の騎士団白騎士団において、史上最年少で正騎士へ昇格した子供。
 他の騎士を圧倒し、最強の名を欲しいままにする幼い騎士。
 まるで「化け物」でも見るような視線は、騎士になるまで誰にも見向きされなかったシンにとって息
苦しく、恐ろしいものだった。
 白騎士団の者達の中にも、こう云った視線を向ける人間はいる。しかし、仲間として信頼と尊敬の
目を向けてくれる人たちも居てくれるのだ。
 シンは小さく小さくため息をつく。早く用件を済ませ、帰ろうと思った。
 白光騎士の案内の元、ファブレ公爵の元へ向かう途中の渡り廊下。シンは窓から入る陽光に目を
細めた。
 細めた、視界の端。

 ――そこにシンは、鮮やかな朱色を見た。

 ヒュゥ――と細く息を飲む。子供が、屋根の上によじ登ろうとしている。
 足場は安定している。上手い場所に引っ掛けている。しかし、手元が危うい。握力があまり無いの
だろう。屋根の端を掴む手は振るえ、今にも解けそうだった。
 あのままでは、落ちる。手が先に力尽き、後方へ――頭から。
 その考えに至った途端、シンは渡り廊下の窓を開け放ち、そこから飛び出していた。背中から聞こ
えた白光騎士の声に答える余裕も無く、シンは子供へ向かって全速力で駆けた。あれでは、後2秒も
持たない――!
「あっ」
 子供の声。手が屋根からはなれ、シンの考え通り頭から落下する。
 受け身も取れていない。あのまま頭を強打すれば、命に関わる!
「くっ――!」
 足に力をため、一気に加速する。
 腕を伸ばして、伸ばして――地面と接触する前にその身体を抱きとめる事に成功した。しかし勢い
を付けすぎた足は急停止する事が出来ず、シンは思い切り壁に激突する。腕の中の子供を庇う事を
最優先したためにシンは頭と肩を強打してしまい、そのまま意識を失った。

 *** ***

 ――ぅっ、ひっく、ず、ぐす……うぅっ……えっえっ……
 誰かが泣いている。顔にあたたかいものが、ぺたぺたと触れている。
 ――……あー、あう、うぅー……ずずっ……う、あー……
 ――大丈夫ですよ、ルーク。だから泣かないで頂戴……
 優しい声。慈しみに満ちた、女性の声がする。複数の話し声。
 ――……誰か、ルークを部屋に……
 ――貴方そんな……。ルークはこの子を心配しているのですよ。せめて側に……
 ――しかしな、シュザンヌ……
 ――やー。やーぁー……。ひくっ……やぁー……
 胸に重しが乗る。肺が圧迫されたがあまり苦しくは無い。むしろ、何かが絡みついている首が苦し
い。なんだ此れは。
 ――……む。
 ――おお、ルーク……。そなたは優しい子ですね……
 ――……先生、彼は本当に大丈夫なのかね?
 ――はい。肩の打撲はしばらく痛むでしょうけれど、頭に異常はありませんよ。軽い脳震盪です。
 ――……そうか。ショウジ殿へは改めてお詫びせねばならぬな。
 ――白騎士が王族の御子を守られたのですから、むしろ誉れでしょう。この怪我は漢の勲章ですよ。
 ――漢の勲章云々はともかく、前半は全く持って其の通りだ。彼には褒美を与えねばな。
 真っ暗闇の中、会話だけが響く。目を、開けなければ。誰だ。誰が側にいる。一体何がどうなって
しまったのだ?
 この温かいものは、何だ――
「あー」
 パチリと、シンは目を開いた。明るくなった視界いっぱいに子供の顔があった。涙と鼻水で濡れた幼
い顔だ。涙で濡れている眸は水晶のように透き通った翠色、シンの視界を狭めるように垂れている髪
は鮮やかな朱色。
 高貴なる蒼き血を抱く、王族の証し――
「あーっ」
「ぐぅっ?!」
 視線が絡んだ途端、子供が首に思い切りしがみ付いてきた。この程度の力、シンにとってなんのダ
メージにもならないはずなのだが、首を絞められては流石に苦しい。
「おお、ルーク、ルーク。首を絞めてはなりませんよ。シンが苦しいでしょう?」
「あぅー? あー、あーぅ」
 誰かが首を絞める子供を諌めたが、子供は一向に力を緩める気配がなかった。苦しい。
「はい、ルーク様そこまでー。セイジューロー君が死んでしまいます」
 べり、と強引に子供が引き剥がされた。子供は最初こそきょとんとしていたものの、離れてしまっ
たシンを見た途端、ジタバタと暴れ出した。両手も目も、シンに向かっている。
「あー! やーん! やーぁーっ! あーんっ!」
「おや、ルーク様は随分とセイジューロー君を気に入られたのですね」
「……命を救われたのだと、わかるのでしょうか」
「いえ、まだそこまでの判断はつかないでしょうから。何かルーク様なりの理由があるのでしょう。
ねぇ、ルーク様?」
「あー! あうっ」
 あまり強くしがみ付いてはいけませんよ、と子供を引き剥がした人物は云い、其の手を放した。子
供はすぐにシンに駆け寄って、ぎゅぅとしがみ付いてくる。先ほどより弱い力だったので、今度は苦
しくはなかった。重たいけれど。
 起き上がろうとしたシンに、静止の声がかかる。先ほど子供を引き剥がした男だった。
「自分の名前と年齢はわかるかな?」
「セイジューロー・シンです。年齢は十一です」
「職業と所属は?」
「白騎士団正騎士です。グンペイ・ショウジ団長旗下第一小隊に所属しています」
「自分がどうなったかわかるかい?」
「団長のご命令により、クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレ公爵様への連絡事項をお伝え
するためファブレ公爵邸を訪れました。その際、屋根より落下する直前の御子を見つけ救助へと向
かいました。その後の記憶はありません」
「うん、そこまでわかっていれば問題ないね。あ、少し混乱しているようだから云っておくけど、君がお
救いした方は公爵様とシュザンヌ様のご子息、ルーク様だ」
 ああ、とシンは納得もする。何を当たり前な事に気付いていなかったのだろうか、自分は。
 紅い髪も緑色の目も、王族の証し。ファブレ公爵邸においてその証しを持つ子供など、ご子息であ
るルーク様以外有り得はしない。
「ルーク様を抱きとめた君は直後、勢いを殺せずに壁に激突。その際、ルーク様の身を最優先したた
めに頭と肩を強打。意識を喪失した。――以上が一部始終を目撃した白光騎士とメイドによる証言だ
よ。君のお陰でルーク様は怪我一つしていらっしゃらないし、君自身にも頭に異常なし、肩の打撲も三、
四日は痛むだろうが後遺症は残らない。――よくやったね」
 そっと頭を撫でられる。そうか、自分は己の責務を果たせたのか。
 自分にしがみ付いている子供――ルークに視線を向ける。ルークはそれに気付くと、シンの目をじっ
と見つめてニッコリと笑った。シンの武器を握りなれた硬い掌とは対照的な、柔らかな掌が顔にペタ
ペタと触れてくる。この感触――そうか、気を失っていた自分の顔に触れてきていたのはルーク様で
あったか。
「あー? あう」
「……大丈夫です」
 まるで自分の身を案じてくれているようで、シンはそう云った。それから涙で濡れたルークの頬に手
をのばし、そっと涙の後を拭う。するとルークは嬉しそうに笑って、またシンにぎゅぅぎゅぅとしがみ付い
た。
 此れが、セイジューロー・シンとルーク・フォン・ファブレの遭遇であった。

 *** ***

 それからシンは、週の半分をファブレ邸で過ごす事を義務付けられた。ルークがシンに懐いたため、
ファブレ公爵自らショウジ団長に申し出たのである。
 白騎士の使命は王族をお守りする事。
 シンがルークの護衛につくのはなんらおかしい事ではない。たとえルークが――記憶喪失のせいで
赤子同然になっていたとしてもである。
 シンは最初、その”任務”に途惑った。なぜならシンは忠誠のない騎士だったからだ。
 王家にも国にも、シンは忠誠を誓ってはいなかった。
 白騎士団に入ったのは偶然で、正騎士になれたのはショウジ団長の指導のお陰だ。
 忠誠のない人間は騎士にはなれない。しかしシンの力を見込んだショウジ団長は、力を付ける過程
で忠誠を誓える相手が出来るだろうと――そう信じてシンを正騎士へと引き上げた。
 もしやショウジ団長は、ルークをシンの忠誠の相手と考えているのだろうか。そうシンは勘繰った。
ルークはシンが忠誠を誓うに相応しい相手なのか。シンは疑問に思った。
 それから二年の間、シンは途惑いながらも誠心誠意ルークに接した。危険を遠ざけ、物を知らぬルー
クに学を教え――専属の家庭教師たちが居たのだが、彼らから教わる事をルークは頑なに拒んだ――、
己を鍛えた。
 三年が経つ頃には、ルークは以前ほどではないにしろ、貴族の子らしくなっていた。それもこれも、
シンとルークの世話役であるガイ・セシルの教育のお陰だろう。
 何故か政治関連や社交界の事柄を教える事は禁じられたが、それ以外で貴族の子息に必要な事は
全て教えたつもりだった。するとルークは当然外へ興味を持った。特に、シンが所属する白騎士団への
興味は強かった。
 ルークの必死の訴え――駄々、とも云うが――と、白光騎士団、白騎士団から「ルーク様の御身は
必ずお守り致します」との言葉から、それまで屋敷に軟禁されていたルークは屋敷と城の行き来のみ
認められることになる。
 ダァトのヴァン・グランツ揺将から剣術を学んでいたルークだったが、白騎士団からも剣術、槍術、
弓術、体術と――あらゆる格闘術を学ぶ事になった。教えすぎだ、どれも身につかないのではないか
と、少なからず不安の声はあがったものの、ルークは水分を吸う砂のように教えられた事を吸収した。
それをシンたち白騎士団とガイは誇りに思い、熱心に学ぶルークの指導に力を入れた。
 それからさらに一年。
 ルークとシンが遭遇して四年目のAD2016・シャドウリガーデン・ローレライ・30の日。
 ファブレ公爵邸に滞在していたシンに剣術を学びながら、ルークは嬉しそうに云った。
「後五年なんだ」
「何がでございましょう?」
「もう! 知ってるだろセイジューロー! 俺が自由になれるのがだよっ!」
 ああ、とシンは思い至る。
 国王命令で軟禁されているルークだが、二十歳になったら自由になれると云うのだ。
 正直、シンはそれは嘘だろうと思っている。何故ならルークは第三位王位継承者であり、ナタリア王
女の婚約者である。つまり次代の国王なのだ。そのような肩書きを背負った人物を自由にする? そ
んな馬鹿な話はない。
 外に出たいと駄々を捏ね続けるルークを大人しくさせるための口実に過ぎないと、シンは看破してい
た。勿論、それをルークに告げるような愚かなマネはしないが。
 二十歳になると同時にナタリアとの婚姻が結ばれ、今度は軟禁場所がファブレ邸から城へ移るだけ
だな、とシンが考えているとルークが嬉しそうに云った。
「そうしたら俺、世界中を見て回るんだ。俺、何も覚えてないだろ? だから色色見て、さわって、聞いて、
一から勉強し直すんだ!」
「ルーク様……」
 我が儘な御子だと思っていた。自分の無知を自覚できない小さな子供だと思っていた。
 ――そう、シンは思っていたかったのだ。
 何も出来ない小さな子供。
 自分が手を貸さねば何も出来ない、側に居て守ってやらなければいけない子供だと。
 そう思っていたかった。――何故だろう。早く自立せねばならない御子なのに。彼が一人で立つ事は
シンにとっても喜ばしい事であるはずなのに。
「まぁ、その間に記憶が戻らないとも限らないけどさ……」
「……」
 少ししょげながら、ルークが云う。それはシンも危惧していた事だ。
 記憶が戻る事は勿論めでたい事であるし、誰もがきっと、それを望んでいる。特に、幼馴染であるナ
タリアは。
 しかしシンにとってのルーク・フォン・ファブレは、今目の前にいる方だ。何も知らない、幼い、子供。記
憶が戻った時、彼はどうなるのか。以前の記憶に食いつぶされてしまうのか。それとも、今のままで居
てくれるのか。
 それがわからないから、シンは怖いと思う。
「……まぁ、どうなるかわかんない事うだうだ云っても仕方ないよな」
「はっ……」
「だからさ、その、俺が云いたいのは――」
 珍しく歯切れが悪い。それはルークも自覚しているらしく、何度か深呼吸をしてから、キッと強い眼差
しでシンを見据えた。
「俺が世界を見る時は、お前も着いて来いって事だよ!」
「――」
 それは。
「お前、王族に仕える白騎士なんだろ。だったら、俺の側に居て、俺の事守れよ。今も、これから先も
――ずっと」
 そう云ってルークは、シンに向かって手を伸ばす。真っ直ぐ伸ばされた手、見つめる翠の目。
 赤い髪が、風に舞う。

 ああ、そうか――俺は。
 忠誠のない騎士など、とんでもない。俺は、俺はずっと前から。
 あの、鮮やかな赤を見たあの瞬間から。
 この方に――

 跪いて、伸ばされたその手を両手で恭しく取った。
「ルーク様のご命令とあらば、私はこの命尽きるまで、お側にいます。――いえ、貴方にお仕えする
事を……許していただけますか?」
 ルークは一瞬だけ目を見開いて、それからニヤリと笑った。自信に満ちた、不遜とも云える彼特有
の笑み。その笑顔を、いつだって眩しいと思っていた。
「あぁ、許してやる。だから、口付けをしろ」
 唐突な命令に、シンは首を傾げた。
「ガイに読んで貰った絵本に描いてあったぞ。忠誠を誓う騎士は、主の手の甲に口付けするんだろ?」
「……はっ」
 恐らくソレは、姫と騎士の物語をつづった絵本だろうとシンは考えたが、主の命令に異を唱える事
も背く事も決してしない。
 シンは静かに目を閉じ、両手に取ったルークの手の甲へ、まるで雪のように壊れやすい繊細な造形
物へ触れるように――そっと口付けた。
 唇を離し、今度は額をルークの手の甲へ当て――
「私、セイジューロー・シンの忠誠はルーク様、貴方だけの物です――」
 忠誠の言葉を口にした。
 団長は見抜いていたのだ。シンがルークに、忠誠にも近い感情を抱いていた事に。知らなかったの
は自分だけだったのだろう。
 そう思うと気恥ずかしくもあったが、シンにとってはもう、どうでもいい事だった。
 自分はルークに忠誠を誓った。この命ある限りそばにいると、お守りすると言葉にしたのだ。
 それでいい。
 それだけで、いい。
 忠誠を口にする事で、自分はようやく――本物になれたのだから。

 *** ***

 恐らくアレが、一目惚れと云うものだったのだろう。
 あの鮮やかな赤に。
 自分は一瞬で、心臓を持って行かれていたのだ。



 了


 加筆修正 2009/08/20