・眠った相手にキスキスキス。


 ――俺は……!
 静雄は走っていた。ヤクザ屋に追われた時のように、自動販売機を蹴り上げ、窓に手を掛け、壁
と壁の間を跳び、金網の上を駆け抜ける。
 ――俺って奴ぁ……!
 走って走って、とにかく走り続け跳び続け、気付けばどこぞのビルの屋上に一人きり。そこで静雄
は頭を抱えてしゃがみ込み、心の中で絶叫した。
 ――変態だったのかあああああああああああああッッ!
 声帯を通しての叫びにしていれば、善良な人から通報されてしまいそうな、絶叫を。

 事の始まりは、上司であるトムからの助言だった。
「静雄、お前あのお医者さんにお世話になってんだろ? たまには菓子折りでも持って会いに行っと
け。な? お前に何かあった場合、対処出来んのあの人くらいだろ? たまにゃぁ持ち上げてやんな
いと、見捨てられちまうかも知れねぇよ?」
 これを云ったのがトムで無かったら、静雄は気にも留めなかっただろう。だが、彼が自分の手綱を
上手く捌いてくれていると自覚している静雄は、トムの助言には積極的に従うようにしている。
 さらには初めての後輩ヴァローナまでも、こう云うのである。
「肯定です。支援者が居るならば、裏切り無いよう首根っこを掴む事、有益だと判じます。山吹色の
菓子の出番です」
 そこまで云うのならば、菓子折り一つ持って挨拶――と云うか、何と云うか。これまでの礼の一つ
をしても罰(ばち)は当たるまいと、静雄は納得した。
 山吹色の菓子は無理だが、以前自分が美味しいと感じた菓子を手土産に新羅のマンションを訪
ねた。だがお目当ての新羅はおらず、同居人のセルティに迎えられた。直接会わずとも、セルティ
に伝言を頼み菓子だけ置いて行こうと思ったのだが。
『丁度良かった。お茶でも飲んで行かないか? 今帝人が来ているんだけど、眠ってしまって。新羅
もいないし、このままじゃお茶が冷めちゃうんだ』
 そう示された言葉に、ほいほいと頷いてしまったのだった。
 お茶に惹かれたのか、それとも竜ヶ峰の存在に惹かれたのか――それは静雄本人にも分からな
いが、ただ一つ分かっているのは、竜ヶ峰に謝罪しなければならないと云う事だ。
 以前静雄は、空腹と睡眠不足の為前後不覚状態に陥り、本能の赴くままに竜ヶ峰の昼食を食べ
てしまった事があるのだ。あの後すぐは気恥かしさのあまり竜ヶ峰へ近付けず、だが後ろめたい気
持ちは胸いっぱいで何とも苦い思いを味わってしまった。
 此処はすっぱりきっぱり謝ってしまった方が良い、と決断したものの、それまで避けていた事への
罰なのか。街中では一切会えず、連絡をしようにも携帯の番号もアドレスも知らず、誰かに教えて貰
おうと考えたのだが、共通の顔見知り連中は何故か非協力的と来た。
 ブチ切れなかった事は奇跡に等しい。いや、恐らく――静雄の心に、「今回ばかりは自分が悪い」
と云う強い気持ちがあったからなのだろう。普段からは考えられない程に、堪忍袋の緒が頑丈になっ
ていた。
 さぁ謝ろうと思った静雄なのだが――重要な部分を見落としている。それに気付いたのは、竜ヶ峰
に”対面”した後だった。
「……」
 竜ヶ峰はリビングのソファで、何とも安らかな眠りについていたのだ。
 ――あ、あれ? 何で……あ、そう云えばセルティが、寝てるって云ってたような……。
 そう。セルティは先客である帝人が眠ってしまい、お茶が冷めてしまうのが勿体ないから静雄にど
うかと誘ってくれたのである。
 そんな言葉を見落としてしまうほど、自分は竜ヶ峰の名前に動揺でもしたのだろうか。
 肩を落としつつ静雄は、何故か帝人の隣へと腰掛けた。普段の静雄ならば眠っている相手を起こ
してはまずいと、離れた位置へ座るのだが、極自然に、当たり前のように、隣へ腰を降ろしていた。
 己の行動へ違和感を覚える事も無く、静雄はまじまじと至近距離から帝人を眺める。
 不安も陰りもない穏やかな寝顔はとても幼く、まるで赤ん坊のようだと静雄は思った。とびきりの美
形と云う訳でも、少女と見紛うほど可憐と云う訳でもないが、つい眺めていたくなるような、そんな寝
顔であった。
 前髪が短いお陰でよく見える額は、以前静雄が故意ではないにしろ、頭突きしてしまった箇所であ
る。あの時の傷は綺麗に治り、つるりとした綺麗な額がそこにあった。
 そして、静雄は思った訳だ。
 ――何か……美味そう?
 と。

 そして静かなマンションに、静雄の悲鳴が響き渡る。

「―――ッッだあああああああああああああああああああああッッ?!」
 ――?!
 折角だから持ってきてもらったお菓子も一緒に、といそいそ用意をしていたセルティは、普段聞く
事のない静雄の悲鳴に硬直する。
 ばたばたと慌ただしい足音がして、バカンッ! と何かが爆ぜたようなけたたましい音がした。驚
いたセルティはキッチンから飛び出し、音がした方――玄関へと目をやれば、案の定、破壊された
ドアがそこにあった。
 ――ちょ、ドアが真っ二つってどう云う事だ?!
 静雄の怪力を持ってすれば容易い事だろうが――これまで、ひしゃげられた事はあっても、二つ
に分けられた事はなかったため、セルティは軽く動揺した。
 一体何事か、これは追うべきかと悩んだものの、客人が居るのに置き去りは不味いだろう。帝人
へ何があったのか聞こうと踵を返し、リビングへと駆け込んだ。
 するとそこには、
「……っ……っっっ……ッッ!」
 カーペットの上で額を押さえ、ごろんごろんと悶絶している帝人の姿があった。
『どうした帝人一体なにがあったんだ?!』
「う、うぅ、せ、セルティさん……?」
 慌てて側へかがみ込み、悶絶する体を揺すれば、すぐに反応があった。意識が正常である事に
安堵したセルティを見上げて、帝人は未だ額を両手で押さえたまま、状況把握が出来てない顔をし
ている。
「わ、訳が分からないんですけど、急におでこに激痛が走って……な、何があったか僕にも……」
 帝人はへうへうと涙目になりながら云う。潤んだ目が可愛かったのは、セルティだけの秘密だ。
『おでこが……? ちょっと見せてみろ』
「はい……」
 そろそろと外される両手。その下にあった物を見て――セルティは思い切り動揺した。自分に首
があったら、噴き出していたかも知れない。それくらい、衝撃的な物だった。
 ――ま、まさか、……静雄?!
 思わず玄関を見てしまうセルティ。激痛の正体に気付いていない帝人はきょとんとしているが、己
が今まで覆っていた物が何なのか知ったら、色々な意味で驚く事だろう。
 ――ど、どうしよう。云うべきか云わざるべきか……どっちにしてもショックを受けそうな……。
「うわぁ?! な、何これ?! 静雄が来てたのかい?!」
 迷っているセルティの耳に、同居人の素っ頓狂な声が聞こえて来た。出張先から帰って来たらし
い。予想より早い帰宅である。
 ぱたぱたと足早にこちらへ向かって来る新羅に、一瞬救いのような感情を抱いたセルティであっ
たが――
「セルティ無事――みたいだね。あ、帝人君いらっしゃ……っておわぁ?!」
 帝人の姿を認めた新羅が、その額に存在する物を見てまたもや素っ頓狂な声を上げた。
 ――不味い!
 その後の展開を予測したセルティは、新羅の言葉を止めるべくPDAに静止の言葉を打ち込み始
める。
 つまり、セルティも大分驚いていたし、混乱していた訳だ。
 影を使って新羅の口をふさぐ方が文字を打ち込むよりもよほど手っ取り早いと云うのに、それに
気付かなかったのだから。
『新羅、ちょっとま』
 そこまで打ち込んだところで、新羅がぺろっと云ってしまった。
「どうしたの帝人君?! おでこに歯形付いてるよ?! うわわ、血まで流れてるし犬にでも噛まれ
て……いや、これは人のだねぇ?」
「え……?」
 ――あああああああああああああああああああああッッ!
 首が無いかわりに、セルティは心で絶叫した。
 もう他にどうしていいかわからなくて、絶叫した。

 丁度同じ頃、池袋最強の『喧嘩人形』も某ビルの屋上で、偶然にも心の絶叫を上げていたが――
 其れを妖精デュラハンは、知る由も無かった。


 【配布元:Abandon】