これまた唐突に、静雄は重大な事に気が付いた。
 ――……俺、そう云えば、あいつのでこに噛みつい……た、よ、な……?
 以前新羅・セルティ宅を訪れた際の事である。静雄は何を血迷ったのか、そこで眠っていた先客・
竜ヶ峰帝人の額に噛みついたのだ。歯形が残る、などと云う可愛らしい物ではなく、血が流れる程強
く、である。
 噛みついた瞬間は何故か”満たされたような気持ち”になったが、その次の瞬間、口腔内に広がっ
た鉄臭さと声も無く悶絶する竜ヶ峰の姿を見た事により正気に戻った。
 噛みつく直前「美味しそう」などと思った事や寝込みを襲ったに等しい己の行動に錯乱した静雄は、
奇声を上げ人様の家のドアを破壊し、その場から逃げ去った。
 あの時破壊したドアの修理代はきっちりと請求されたし、払うついでに謝罪も済ませていたが、最
も被害を与えた竜ヶ峰には何もしていなかった。治療費も慰謝料も払っていなければ、謝罪すらもし
ていない。
 今思えば――あの変態的行為も竜ヶ峰へ向けた恋心の発露だと、幾ら鈍い静雄にでも自覚出来
た。自覚は出来たが――出来ただけだ。何ら行動を起こしてはいない。先日、せっかく偶然会う事が
出来たと云うのに、自覚したての恋心を持て余し、結局挨拶だけで終わってしまった。いや、挨拶だ
けどころか、自ら自動販売機に頭を突っ込むと云う奇行を見せつけてしまった。
 ――あの時の自分死ねばいいのに。
 静雄は真剣にそう思う。
 男ならば――女もそうかも知れないが――、惚れた相手の前では恰好を付けたいものだ。当然な
がら静雄もそう思っている。
 と云うか、惚れている相手から残念な物を見るような目を向けられたい人間は――居ないだろう。
そう云う人間がもし居たとしても、それは静雄の常識の範囲外の人間だ。理解出来ない。
 自分が竜ヶ峰から「何この可哀想な人」とでも云わんばかりの目を向けられたら、ショックで昏倒す
るかも知れない。
 あの大きいくりくりとした目が、いつも静雄を見る時キラキラと輝かせている目が、淀んだ色を湛え
て静雄を見る――想像しただけで泣きそうだ。
 ――……とにかく、謝らねぇとな……。
 例え恋心の発露であろうと何であろうと、何の罪もない、ただ眠っていただけの竜ヶ峰に怪我をさせ
たのは事実だ。謝らなければなるまい。もし要求されたら治療費と慰謝料も払う。あの時何も云われ
なかったのを良い事に何も無かった事にするなど、自立している人間のする事ではないだろう。いや、
例え養われている身分の人間であっても、他人を害したならばせめて謝罪はするべきだ。
 子供だって――最近は怪しい物だが――喧嘩をして相手に怪我をさせたら「ごめんなさい」と云え
る。子供の見本にならなければいけない大人が此れは駄目だろう。
 静雄は痛む頭を押さえ、よろよろと歩きだした。最早病人の様である。


 *** ***


 竜ヶ峰を探しに歩き出したものの、どこを探したものか。歩いて二十メートル足らずで早くも静雄
は行き詰った。
 連絡先など当然知らぬ。どこに住んでいるかなど興味を持った事すらない。
 知っているのは高校の後輩に当たると云う事、大人しい性格だろうに『ダラーズ』なんぞに所属し
ていると云う事、そして、共通の友人にセルティ・ストゥルルソンが居ると云う事だけである。
 何と云う情報の少なさだろう。恋する相手に対してよくも此処まで無関心でいられた物だと、静雄
は自分自身に対して呆れてしまった。これでは仮に「俺は竜ヶ峰が好きだ」と云った所で、性質(た
ち)の悪い冗談かからかってるように思われて御仕舞いではないだろうか。
 ただでさえ男同士と云うハンデがあると云うのに――
 そこまで考えて、静雄は首を傾げた。
 ――なんか、竜ヶ峰と付き合う気満々じゃねぇか、俺?
 自分だけその気になってどうなると云うものでもあるまいに。付き合うと云うのは、お互い合意の
上で交際すると云う事だ。場合によっては結婚まで前提にして。
 男同士は普通、付き合わない。結婚前提の交際などしない。オトモダチが精々だ。男同士で付き
合うなど、「気持ち悪い」と思われるのが当たり前だ。狩沢は好きなようだが、あれは自分の性別が
女で他人事だから楽しめるのではないだろうか。狩沢が男だったら忌避していたはずだ。現に”同
類”である遊馬崎は嫌がっていた。
 そう思うと、静雄が抱く竜ヶ峰への恋心は「気持ち悪い」と吐き棄てられるのが当然で、「好きだ」
と云う正直な気持ちを口にする事も許されず、付き合うなど夢のまた夢と云う事になる。
 万が一――いや、”億”が一、竜ヶ峰も静雄を好いていたら、交際できる可能性もあるが。
 ――いや、無いだろ。無い無い。あいつが俺を好きだとかそれこそ有り得ねぇ。
 竜ヶ峰はたまにおかしな言動をとる奴だが、基本的には平凡で温和で、静雄が夢見る”平穏”を
具現化したような存在だ。
 そんな人間が静雄のような化け物から好かれても、全く全然これっぽっちも嬉しくないだろう。
 そこまで考えて、今度はへこんだ。現実が厳しすぎる。自分の考えで心が折れそうだった。よせ
ば良いのに、蔑む目でこちらを見ながら「気持ち悪い」と吐き棄てる竜ヶ峰まで想像してしまい、壁
と友人になりながらついには項垂れてた。
 心が折れそうだ。真剣に。
 こんな気持ちになるくらいなら恋心など自覚しなければ良かったと後悔し始めた静雄の腕を、誰か
がぽんと叩いた。
 叩かれた右手の方を見れば――

「静雄さん、どうしました? ご気分でも悪いんですか……?」

 眉尻を下げ、静雄の顔を心配そうに覗き込む、
 竜ヶ峰帝人が居た。
「――うぎゃあっ?!」
 見っとも無い悲鳴を一つ上げて。静雄は脊髄反射で飛び退いた。
 今の今まで想像していた当の本人の登場に驚いたのだ。それだけで他意はなかったのだが、静雄
が飛び退いた瞬間竜ヶ峰が傷付いた顔をした――ような気がした。
 それは本当に一瞬で、瞬きする間の出来事であっただろうに、何故か静雄の網膜にはしっかりと焼
き付いた。
 だが次の瞬間には普段通り、穏やかで平和で柔らかな笑みを浮かべた竜ヶ峰がそこに居たので、
静雄はそれを勘違いだと思った。自分の行動で竜ヶ峰が傷付くはずがないから、そうなれば良いと云
う思い込みが見せた一瞬の幻覚だろう。そうなると今度は静雄にどS疑惑が沸くが、そちらの方がよ
ほどマシと云う物だ。想い人を傷付けただなんて現実、率先して受け入れたいものではない。なら自
分に特殊性癖があった方がまだいいはずだ。
 とにかく。人の顔を見て悲鳴を上げるなど、失礼な話だ。此処は謝罪しなければならない。
「わ、――悪ぃ竜ヶ峰。考え事してたから、ちょいと驚いちまって」
「そうでしたか……。すみません、お邪魔してしまいましたね」
 謝られてしまった。全面的に悪いのは静雄だと云うのに。何とも罰の悪い気持ちになった。
「いや、お前は悪くねぇだろ」
「あ、え、っと……そ、そうでしょうか……?」
 正直に云えば、今度は困ったような顔をされてしまう。
 どうやら、静雄の言動は竜ヶ峰を笑顔にする事は出来ないようだ。
 ――ああ、本当に、

 望みが、ない。

 ぐらりと視界が揺れた。急激な眩暈に襲われて静雄は戸惑う。
 そんなにショックだったのかと。
 竜ヶ峰を笑顔に出来ない現実が、体の調子を崩すほどに衝撃的な事だったのかと。
 初めて知った己の脆さに、驚いた。
 俯く静雄の頬に、柔らかな布が当てられた。視線を動かせば、竜ヶ峰の顔が先程より近くに見えた。
静雄の頬にハンカチを当てて、不安げにこちらを見ている。
「静雄さん。酷い顔色ですよ」
 どうやら、安定を失うと共に流れ出した冷や汗を拭ってくれているらしい。その優しさにまた眩暈を
感じた。
 視界がまた揺れて、歪む世界に白い包帯がやけにくっきりと見えた。
 その包帯の下には――
 下には。

「ごめん」

 するりと、謝罪の言葉が零れていた。驚いた顔をする竜ヶ峰に向かって、同じ言葉を繰り返す。
「ごめん、な」
「静雄さん……?」
 竜ヶ峰が戸惑った表情になる。唐突すぎる謝罪の意味を図りかねているようだ。
 静雄はそろそろと手を伸ばし、指先だけで包帯に触れた。
 此処は掌で撫でた方が様になっただろうと静雄自身も思うのだが、それは何だか”怖かった”。
 その行動だけで、竜ヶ峰は合点が行ったらしい。
「気にしていて下さったんですね」
「そりゃ……、俺が……怪我させたんだ、し、」
 云いながら、視線が逸れて行く。まともに竜ヶ峰の顔を見る事が出来なかった。しかし完全に視界
から締め出す事も出来ず、静雄の視線は竜ヶ峰の肩に固定された。
 情けない事この上ない。自分はこんな女々しい人間だっただろうか。いくら優しい竜ヶ峰とは云え、
この様を見ては呆れるに違いない。
 そう、思ったのだが。
「嬉しいです」
 あまりにも場違いな言葉を聞いた気がした。
 顔を上げれば、言葉通り、嬉しそうに笑っている竜ヶ峰が居た。
 柔らかそうな頬を赤く染めて、丸い目を柔和に細めて、口元は緩やかな弧を描いている。
 ――ああ、笑ってる。
 それを認識した静雄の目に、涙がじわりと湧いた。零れ落ちはしなかったが、決壊寸前ではある。
 似合わないと云われたサングラスを掛けていて良かったと心底思った。
「僕の事、気にしていて下さったんですね。嬉しいです、とても――」
 笑っている。静雄に向かって、嬉しそうに笑っている。
 静雄が初めて見れた、竜ヶ峰の笑顔だった。静雄のためだけに浮かべられた、笑顔だった。
 それが本当に嬉しくて、静雄はその笑顔に見惚れてしまった。自分が謝罪の最中であった事も、一
時頭から抜け落ちた。
 そして、やってはならない”ポカ”をした。
「”あの時は――”」
 竜ヶ峰の顔に笑顔を浮かべてやれた事が嬉しすぎて、聞き逃したのだ。

「――気にも留めて、下さいませんでしたのに」



 − なんでそこでその笑顔!それ反則!



 絶対に聞き逃してはいけない、一言だったのに。



 了


 後半方向性を見失った。←
 中途半端なシリアスにーあああああああああ。
 複線ちりばめすぎて回収できるか不安になってきました。(貴様)



 お題配付元様「嗚呼-argh」